平成二年 七月二八日(土) 夜《4》 ※完
橋の上に集まる人々からは、花火に向けられて歓声が上がる。いよいよクライマックスだろうか、先程までとは打ち上がる花火の勢いも違い、赤、青、黄、緑と多彩な花火が次々と打ち上がり、その上では三日月も微笑んでいるような明かりを見せながら、人々の様子を覗いている。
その月まで届きそうな程に無数の火の玉が空へ昇ると、黄金色の枝垂れ桜が金粉のような火花を散りばめながら、夜空一面に眩い花を咲かせた。その花火を観ている観客の一人一人を、誠と拓也は覗き込むようにして由美子を探している。
「駄目だ……こんなに人がいたんじゃ、見つかりっこないよ……」
焦燥感に駆られながら二人は橋の袂まで戻ってくると、呑気そうに歩いている淳平の姿が見えた。
「ジュンちゃん!」
誠が呼びかけると、淳平は「あーっ!いた!」と大声を上げながら、こちらに駆け寄って来る。
「何処にいたんだよ!探したんだぞ!」
「ジュンちゃん、それより、由美子見かけなかった!」
誠が人の話を二の次にした慌て口調で訊ねてくるものだから、二人に不満を持っていた淳平も勢いに押されてしまうと、文句の一つも言えないまま「由美子?あぁ……さっき、そっちの方で見かけたぜ」とだけ答える。
「え?見かけたのに、話しかけなかったのかよ」
「だって、すげぇ人混みだったし、昼間も会ったから。それに、町内会長にお使い頼まれていたから、後でもいいやと思って」
淳平は手に持っているレジ袋を二人に見せると、今は恵と歩を町内会長に預けてコンビニへ行っていた戻り道であることを説明する。
「なぁ、由美子、誰といた?」
「誰と?あぁ、なんか、女の人といたみたいだけど、遠くてよく見えなかった。第一、それも由美子だか分からないぜ」
誠の質問に淳平が答えると、「それだ!それが絶対に由美子だよ!」と言って声を張り上げる拓也は、確信を得たことに神経が昂る。
打ち上げ花火もまもなく終局となれば、その後は夜空を飾っていた職人たちに拍手喝采が送られて、雲が落ちてきたような白煙が月夜に立ち込める。
そして消えてゆく煙の残像を名残惜しそうに見届けた人々が一斉に帰宅を始めると、その人混みに紛れてしまっては由美子を探すことは疎か、自分たちの身動きすらとれなくなってしまう。
「どうしよう……花火、終わっちゃうよ……」
誠がどうすればよいのやらと困惑していると、淳平が手に持っている袋からは、筒のような物がはみ出しているのに気が付いた。
「ところでジュンちゃん、それ何?」
「え?あぁ、これ?花火だよ。なんか、この後にみんなでやるんだって。妙源氏の肝試しは中止らしいぞ。町内会長が墓場で肝試しなんかするなって言ったから、その代わりにだって。それで買い物頼まれて……」
淳平が話している途中で妙案を思いついた誠は、「あ!」と大きな声を出して話を遮ると、花火が入っている袋を、ひったくるように奪い取った。
「ちょっとジュンちゃん、この袋貸して。タク坊、もう一回水門へ行こう」
「おい、ちょっと!何するんだよ!それは持っていっちゃ駄目だって!」
驚いている淳平を他所にして、二人は水門まで全速力で走り出す。あと一発……一発でいいから、花火を打ち上げてくれと願いながら水門に辿り着くと、最後の試練を乗り越えるように入り口の扉をよじ登って頂上へ向かった。
「マコト、どうするつもりなんだよ!」
「ここから花火を打ち上げて、みんなに気付いてもらうのさ。それで由美子を探してもらうんだ!」
「そんなことしたら、犯人も逃げちゃうだろ?」
「花火大会が終われば、みんな一斉に動き出すから、そんなに早く逃げられないよ」
「おぉ、なるほど……」
カーテンコールのように打ちあがった花火が観客に終演を告げ知らせると、河川敷には鳴りやまぬ拍手の音が響いた。
「よし、今だ!」
誠が十連発の花火を手に持つと、拓也はライターの火をつけて、それに点火する。じりじりと導火線が燃えている音が聞こえて根元まで辿り着くと、小さな火の玉が目の前を垂直に飛び出した。
先程まで打ち上がっていた花火とは比べ物にならないほど小振りだが、風船が割れたような音が空に響くと、河川敷の人々が目を向ける。それは小さな花火であるが、先ほどまで打ち上げられていた花火よりも間近に映る色模様は、とても煌びやかであった。
「おい、みんなこっち見ているぞ」
拓也が河川敷を指差して知らせると、誠は大きく息を吸ってから、「この中に誘拐犯がいまーす。女の子を連れた女の人を見つけたら、捕まえてください!」と、大声で訴えかける。
「おい、それだけじゃ分からないだろ、もっとさぁ、由美子の特徴とかを言えよ」
拓也の助言を聞いて「おぉ、そうか……」と頷く誠は、気を改めて「女の子は髪が短くて、男の子みたいな恰好をしていて……」と再び叫ぶが、それについても拓也は「ちょっと、ちょっと!」と、横槍を入れて遮った。
「由美子、今は髪長いんだよ。それに格好も、ほら、ピンクのワンピースなんか着ていて」
「マジで!由美子がワンピース?何だよ、そんなことまで知っているなら、タク坊が言えよ」
「嫌だよ、恥ずかしい……あ、ほら、みんな帰っちゃうぞ!」
慌てた誠は引き止めようとして袋の中を弄ると、その中で一番大きな筒の花火を取り出して火をつけた。
「おい、君たち!何してるんだ!危ないから降りてきなさい!」
真下を覗き込むと、数名の警備員がこちらに向かって叫んでいる。
「おいマコト、まずいよ……どうするんだよ……」
恐れをなす拓也の気持ちなどつゆ知らずに、誠が火をつけた花火の筒からは鉄を切るような火花が噴き出すと、大振りの火の玉が夜空に向かって飛んで行った。
※
「由美子、さっきは酷いこと言っちゃってごめんね」
母が叩いた頬を優しく撫でると、由美子は母の深く落ち込んだ様子の顔を見つめながら、かぶりを振って応える。
「ううん、私も、お母さんを困らせちゃって、ごめんなさい」
由美子の母は冷静な気持ちになって、咄嗟の勢いで愛娘の頬を叩いてしまったことを悔いると、塞ぎ込んでいた心は、花火を見ても美しいと思えなくなっただけではなく、娘の気持ちまで見えなくなっていた自分を省みる。
夜空の花火を見上げながら朗らかに笑っている娘を見ると、これまでの自分にはモノクロームに見えていた花火も、淡く色付きを戻しているように思えた
今日までの間、親の問題に巻き込んで辛い思いばかりさせていた娘には、花火が色鮮やかに映っているのだろうか……と不安を抱くが、盛大に打ち上げられた黄金色の枝垂れ桜を観ながら、「わぁ、凄い」と声を漏らす由美子の輝いた瞳に、安堵の胸を撫で下ろす。
「由美子……お父さんと一緒に観られなくてごめんね」
母の言葉を聞くと、由美子は打ち上がる花火に目を向けたまま、「ううん、お母さんと一緒に観ている花火も、凄く綺麗だよ。お母さんと同じくらいにね」と、冗談を交えながら言葉を返す。
最後の花火が打ち上げられた後、由美子は周りの皆と合わせて拍手を送りながら余韻に浸っていると、空に流れ星のような火の玉が横切って、火花を散らすのが見えた。
周囲の人々が騒めき出すと、夜空に聞きなれた声が響いている。由美子には、それが誠の声だとすぐに分かった。
ああ、懐かしい声、マコちゃんの声だ。
マコちゃんが、私のことを探してくれている。嬉しいなぁ……
今日はね、お父さんに会えたら一緒に花火を観た後で、ちゃんとお別れを言おうと思っていたんだ。
本当は去年の夏、お父さんと一緒に花火を観る約束をしていたけど、それが出来なかったから……でも、お別れを言っていないから、いつかまた会えるってことだよね。
だからね、マコちゃんには会わないで帰るよ。
会えば、マコちゃんにもお別れを言わなきゃいけない気がするから。
大切な人が、もう一人いなくなっちゃうのは嫌だよ。
だからマコちゃんは、いつまでも私の班長のままで、あの時のままで、大好きな人のまま、ずっと思い出の中で一緒にいさせてね……
由美子はくすりと笑いながら、「大変、お母さん誘拐犯になっているみたい」と言って母の顔を見ると、突拍子もない娘の言葉を聞いた母は、大きく目を見開いて驚いている。
「ねぇ、早く逃げないと!」
由美子が母の手を取ると、空には再び小さな花火が打ち上がっている。
それは決して夜空を彩るような花火ではないが、由美子にとってはどんな花火よりも美しく、鮮やかな色を心に残した。
令和二年 八月一日(土)
新型コロナウイルスの感染拡大防止により、『自粛』という言葉を日本中の人々が受け止めた今年の夏、花火大会は行われなかった。
夜の河川敷には、あの頃のように大勢の人が集まっているわけでなく、堤防の上に生暖かい川風が吹くと、その音が聞こえるほどの静けさに物寂しさを感じる。
子供の頃に観ていた花火を思い出して、誠は不思議な気持ちになった。この場所から観る花火はとても小さかったはずなのに、とても大きくて盛大に思えたのは何故だったのだろうか……
ノストラダムスが世界は滅亡すると言った一九九九年、七の月から長い年月が経った今、子供の頃に『一九九九年に、花火大会はあるのか?』なんて、そんな話をしていたのを思い出す。
「世界が滅亡するなら、俺、勉強なんてしない」と言っていた淳平の考えを裏切るように二十一世紀を迎えると、世の中は着々と子供の頃に描いていた未来に向かっていて、川の向こうには八年前に完成した東京スカイツリーが建っているのが見える。
一九九九年といえば、誠がこの町を出ていった年だ。あの頃の友達とは、町を出てから全く会っていないが、SNSを通して近況は知っている。
拓也は五年前に結婚して、千葉で農業に励んでいる。いずれは実家を自社ファーム販売店にするために、夫婦で力を合わせて奮闘しているらしい。
淳平は全く勉強をしなかったものの、居酒屋のアルバイトには熱心で、今はその店で店長を任されている。
昌洋は科学好きから理系の道に進んで大学院を卒業した後、今は准教授として研究室に入っている。
驚くのは北川軍団だ。彼等は高校に進学してからロックバンドに目覚めたらしく、CDを数百万枚売り上げた記録を持つアーティストになった。けれど大ヒットしたのは一曲であり、現在は表立った活動は見受けられない。バンド名はもちろん『北川軍団』だ。
あの時、彼等が火種を蒔いた珍騒動のおかげで酷い目にあったのを誠は思い出す……水門の階段から花火を打ち上げた誠と拓也は、交番まで連れて行かれると、あの間抜け顔の警察官に酷く叱られた。由美子と一緒にいたのが母親であったのを知ったのは、その後のことだ。
時が流れて世の中は色々と変化しているが、由美子への記憶は小学生の頃から止まっている。
あの日以来、由美子が堀切へ来ることはなかったから、今は何処で暮らしているのかも分からなければ、電話番後やメールなどの連絡先すら知らず、SNSに登録している情報もない。
けれど、そもそもSNSを通じて過去の友人と再会できても、誠は心から喜べない。それは相手が由美子だとしても同じことだ。
ここに来る途中、あんな芳子でも偶然に出会ったら懐かしく思えた。三人の子供を連れてスーパーへ買い物に行く途中だったらしい。
拓也は父親に会う為に来たのだと言っていたが、あの日の由美子はきっと、みんなと一緒に花火を観たくて来たのだと、今でも誠は思っている。だから花火大会の日になれば、あの日のように前触れもなくこの町を訪れるのではないかと思いながら、毎年この場所に来ていた。
それは由美子に恋心があるから会いたいわけではなく、あやめ小学校、四年一組、四班の班長であった誠が会いたがっているからだ。
『元気にしているか?』SNSを通じて、久しぶりに拓也からメッセージが届いた。
『今、堀切に来ているけど、今年は花火大会中止だからな……』
『堀切か……どのみち、そこからだと見えにくいだろ』
坂の下を覗くと、父親が手に持っている花火から火花が散るのを、幼い子供が不思議そうに眺めている光景を見て、去年の夏、打ち上げ花火を観ていた若い女の子が、「すごい綺麗!CGみたい!」と言っていたのを思い出した。
今の子供たちの目には、空に打ち上がる花火がどのように映って見えるのだろうか、もしかすると夜空に映し出されたプロジェクションマッピングにでも見えるのだろうか……そんなことを考えると、誠は少しだけ心に寂しさを覚えた。
「もう、マコト!一人でどっか行っちゃうんだから」
あの時の仲間で唯一会っていると言えば、里美。仲間と言うよりも、今では誠の妻だ。
彼女と結婚して十年になるが子宝には恵まれておらず、夫婦二人で生活していて、里美は小学校の先生として安定した収入を得ているが、誠は売れない小説など書いているものだから、気苦労ばかりをかけている。
「菊先、牡丹、黄金やし……千輪菊が打ち上ったら、やっぱり最後は枝垂れ桜かなぁ……」
「マコト、本当に花火が好きなんだね……来年は観られるといいね」
あの時の誠が分からなかった女の子の気持ちも、今になると少し分かるようになった気がしている。
今は寂しいのか、楽しいのか、嬉しいのか、それとも悲しいのか……あぁ、よかった。今は、きっと幸せなんだな……と、笑っている里美の顔が思わせてくれた。
この町は映画館や遊園地、ウォータースライダーで遊べるようなプール、海水浴場などがある場所ではない。
キャンプやバーベキューのできる山もないけれど、花火大会の夜だけは心が弾んだ。
菊先、牡丹、黄金やし、花束のような千輪菊と、夜空に咲いた枝垂れ桜。
満天の星空は見えないけれど、空に花火が打ちあがると、同じ夜空を見上げて微笑んでいる幸せそうな人たちの記憶は、今でも消えることなくこの場所に残っていた。
同じ夜空と花火を見上げて 完