平成二年 七月二八日(土) 夜《3》
その間も里美は無我夢中になって走っていた。
荒川を越えて打ち上がる花火にも少しだけ近づいたように思えていると、向かう先に橋の終点が見えてきた。
もうすぐ渡り切ると思えば、体中に張りつめていた気力が溶けて流れるように抜けてゆき、徐々に理性を取り戻すと、この地球上から酸素というものが無くなってしまったのかと思うほどの息苦しさに襲われて、脇腹にねじるような激痛が走る。
そして、あと五〇メートルほどで辿り着く橋の袂を目の前にして、膝が抜けるように崩れ落ちた。
陸に上げられた魚のように胸元を動かして呼吸をしても、いつものように息を吸い込めずに、ただひたすら吐き出すだけのような仕草が、肺に痛みだけを感じさせて頭の中を朦朧とさせる。
力を振り絞り、這いつくばってガードレールまで体を運ぶと、鉄の板に背中を当てて呼吸を整えた。
霧がかかるような視界の中、走って来た道に目を向けるが、気付かなかっただけで、とっくに橋を渡り切ったのだろうか……由美子の姿は見当たらない。
乱れた呼吸が落ち着きを取り戻すと、ぼんやりとしていた視界にも花火の色を取り戻す。
ガードレールを手すりにして残された距離をゆっくり歩き出すと、同じ橋の上でも川を越えた隣町は堀切以上に人が溢れている中を、負傷したランナーが完走するように重々しい足取りで渡り切るが、由美子の姿は何処にも見当たらない。
「由美子……ねぇ、由美子……由美子!」
里美は囁くような小さな声から、スピーカーのボリュームを上げたように声を出して呼び続けるが、由美子からの返事は聞こえず、人だかりの横を徘徊するように探していると、「おい、おい!」と、呼びかけてくる声だけが聞こえた。
「おい、何やってるんだよ!」
里美が振り返ると、呼びかけていたのは四つ葉小の集団から逃げて橋を渡って来た、北川軍団の三人だった。
「ねぇ、ゆみ……由美子見かけなかった……」
彼らは由美子と里美の事情など知らないものだから、まるで川にでも落ちたように髪から洋服まで汗でぐっしょりと濡れていて、ワンピースで隠しきれていない黒く汚れた膝を見ると、何事が起きていたのかに戸惑う。
「知らねぇけど……それよりも、どうしたんだよ」
「由美子が……由美子がいなくなっちゃったの!」
「いなくなった?どういうことだよ」
和也が訊ねても、里美は会話を繋げようとはせず、再び「由美子、由美子!」と、蒼ざめた顔で名前を呼んでいる里美の姿が、北川軍団の三人からすると幽霊にでも取りつかれた様子であり、正気の沙汰には見えない。
「おい、あいつ、どうしちゃったんだよ」
裕太が薄気味悪く思える里美の行動に冷ややかな視線を向けていると、幸男が「もしかして……」と、含みを持たすように呟いた。
「もしかして、何だよ?」
「もしかして由美子、誘拐されたんじゃない……」
「誘拐!」
驚いた幸男が声を張り上げると、和也は急に眼差しを変えて二人の顔を見た。
「これだ……これが、本当に俺たちが求めていた事件だ……」
『誘拐』と聞いた途端に、和也の妄想劇が始まった。そもそも、北川軍団の発足は二年生の頃にテレビで観た、少年探偵団シリーズの子供向けドラマから影響を受けたものである。しかし現実はテレビのような怪事件が起きることもなく、気が付けばただの悪ガキ軍団に変わっていたのだ。
「おい!おまえ、俺たちが犯人を捜してやるから、後ろに乗れ!」
和也は正義の味方を気取るように指示を飛ばすが、問題を履き違えられた里美には、彼らの意図するところが分からない。
「犯人……犯人って、何のことなの?」
「いいから、おまえは心配するな。北川軍団をなめるなよ!」
どのみち橋を戻って歩く気力も残っていないから、里美は言葉に甘えるつもりで自転車の荷台に乗ると、和也は「おっしゃあ!行くぞ!」と大きな声を上げて、ペダルを漕ぎ始めた。
人混みの横を勢いよく自転車を漕いで走っていると、花火大会も後半に差し掛かった職人たちが、観客への大判振舞いをするように間断なく打ち上がると、色とりどりの火花が夏の夜空を鮮やかに彩る。
そんな風景には目もくれず、和也達が自転車を走らせていると、向かいから自転車に乗った警察官が、懐中電灯を突きつけるように照らしながら来るのが見えた。
「コラ!君たち、危ないから二人乗りはやめなさい!」
睨みをきかせて威嚇しているつもりだろうが、元々の素材から間の抜けた顔に見える警察官は、吊り上げた眉をヒクヒクと動かしている。
「お巡りさん、そんなことより大変だよ!誘拐事件だよ!」
「誘拐事件!」
そんな話をしたつもりはないものだから、これに驚くのは警察官だけではなく、里美まで声を上げてしまう。
「誘拐事件とは本当か!誰なんだ?友達か!」
「そうだよ、二人乗りなんて捕まえている場合じゃないんだよ!」
和也と警察官が話していると、その中に里美がいるのを見つけた芳子たちが慌てて駈け寄って来た。
「里美!ちょっと、どうしたの!」
後から追い駆けて来た誠と拓也も、その群れを見つけて駈け寄っていく。
「おい、おまえ等、里美になにしたんだよ!」
心身ともに弱り果てた様子を醸し出す里美の姿を見た拓也が突っかかっていくと、和也は「ちげぇよ!由美子!由美子が誘拐されたんだよ!」と言いながら、押しのけて突き放す。
「誘拐?」
和也の話を聞くと、誠と拓也も声を合わせて驚いた。
「犯人は?犯人を見たのか!どんな奴だ!」
誠が問いかけると、和也は「そういえば、犯人ってどんな奴なんだろう……」と言いながら、きょとんとした顔をして考えだす。
「おい、犯人ってどんな奴だった?」
和也の質問に対して里美は何かを答えるわけでもなく、ただ大きく目を見開いてかぶりを振る。
そもそも自分は『誘拐』なんて単語すら口にしていないのだから、話を振られても困ると思うし、本人を前にして誠を賭けて勝負をしていたとも言えないので説明に困る。
「ちょっと、またあんた達が大袈裟にしているだけでしょ?大体、由美子は何処にいたのよ」
それは、さっきまで私と一緒にいたと言いたいのだが、あまりにも芳子の威勢がいいものだから、里美は話に割り込むことができない。
警察官も子供の作り話かと思って呆れていると、話を聞いていた浴衣姿の女性二人が、気遣わしげに話しかけてきた。
「あの、多分ですけど……私たち、その子のこと見ました。なんか、泣きながら女の人に引っ張られて連れて行かれるの……」
間の抜けた顔の警察官は、再び眉を吊り上げて表情を歪めると、「どっちに行った!何でもっと早く通報しなかった!」と、大きな声を張り上げる。
「だって、そんなの親子だと思うじゃないですか……まさか、ねぇ」
女性は二人で顔を見合わせながら、首を振って頷いている。
「誘拐だ!誘拐事件だ!お前達、警察に連絡しろ!」
彼女たちの証言により、北川軍団のドン・キホーテのような妄想劇が、確信的な誘拐事件に変わってしまった。
「お巡りさんだって、警察でしょ?早く、連絡してよ!」
頓珍漢ことを言う警察官は、芳子に急かされると、「おぉ、そうだった」と言いながら、無線で連絡を取り始める。
「よし、俺たちは自転車で駅の方を探すから、おまえ達はこの辺りを探せよ。まだ近くにいるかもしれないから」
和也が仕切り始めると、事態が事態なので皆も賛同して手分けする。
「じやぁ、私たちは足立区の方を探すから、誠たちはあっちの方を探してよ」
「は?でも、こっちの方に行ったんだろ?」
誠が堀切方面を指差すと、浴衣姿の女性二人は首を縦に振って頷く。
「分からないでしょ、もしかしたら、あっちに行ったかもしれないじゃない!」
誠は、『ははぁ、こいつ犯人のことをビビっているな……』と思いながらも、里美のことも心配なので、「裕太、一緒に行ってやれよ」と言って、芳子たちに男手を差し出す。
「は?何で俺なんだよ!三人揃って北川軍団だろ?なぁ」
裕太が助け舟を求めるように問いかけるが、和也は迷うことなく「いや、仕方ない。俺たちは二人で探すから」と言って、その場を後にした。
「なぁ、早くしないと由美子が殺されちゃうかもしれないぞ」
拓也の言葉が最悪の事態を想像させて危機感を覚えると、誠も駆け足になって来た道を戻り始めた。