平成二年七月二八日(土)夕方《4》
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誠が水門で由美子を待っていると、鉄骨造の階段を早いテンポで駆け上がって来る音が聞こえた。
予想通り由美子がやってきたと思うが、急き立てる足音なのが気になる。もしかすると、立ち入り禁止なのに入り込んだのを誰かに見つかってしまい逃げている最中なのかと思いながら、心配して階段の下を覗き込むと、猛突進で向かって来る拓也が見えた。
誠の所に辿り着くと、腹を動かしながら息を切らし、額から流れた汗が首筋まで流れる汗を掻きながら、鋭い目を向けてくる。
「マコト……おまえ、こんな所で何やってるんだよ」
「由美子のこと待ってる。アジトに行かなかったのは悪かった……いゃ、遅れたけど行ったんだぜ、そしたら、タク坊いなかったから。ほら、これ、タク坊のだろ?」
誠がゲームボーイを差し出すと、拓也は宝物のように大切にしていたはずの品を手で払い除けた。弾き飛ばされたゲームボーイが縞鋼板の上に落ちると、自我を失うような煩わしい音を立てて耳を打つ。
「里美の所、行かないのかよ」
「里美?タク坊まで何を言ってるんだよ。行かないよ」
拓也はこれまでにない険悪な態度を見せているが、里美のことなど勝手に嗾けられた話あり、誠にとっては迷惑であっても、果たすべき問題ではない。
吐き捨てるように「あほらしい……」と呟いた誠の態度が拓也の怒りに油を注ぐと、前置きの言葉もなく胸倉を掴んで、体を鉄格子に押し付けた。
「いてぇな、何するんだよ!」
「何でいつも、やることが中途半端なんだよ!由美子が引っ越す時だって不貞腐れていただけだし、里美のことだって何とも思ってないなら、あいつにもはっきり言ってやれよ!」
いつも人のことを気に掛けては、他人の心配ばかりしている拓也だからこそ、自分の好きな相手を蔑ろにされることには激しい怒りを覚える。
「何なんだよ、そんなことタク坊には関係ないだろ!」
誠が抵抗して突き放すが拓也は屈服することなく、噛みついてきた犬のように再び掴みかかる。
「由美子が好きなんだろ、だったら里美にもそう言えよ!おまえが由美子のことは忘れたような態度を取るから、あいつも期待するんだろ!」
誠だって言われっぱなしで黙っていられるほど大人しい性格ではないから、自分の感情ばかりを押し付けてくる拓也の態度に我慢できなくなると、掴まれた手を振り解いて突き飛ばす。鈍い音を立てながら倒れ込んだ拓也の姿を見ると、加減しなかったことについて良心の呵責はあるが、元より負けん気な性格だけは抑えきれず、手を差し伸べるまでの心持はない。
「偉そうに……おまえだって、里美に好きだなんて言ってねぇだろ。人のことばっかり言ってくるなよ」
息を切らしながら誠が言い放つと、その勢いに気負けした拓也は、倒れ込んだまま口答えすることはなかった。
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荒川の河川敷には大勢人々が、まもなく打ちあがる花火を待ち焦がれて集まっている。
夕日はまもなく姿を隠そうとしていて、名残惜しさを見せる斜陽は、やがて閑けさを醸し出す煌びやかな藍色の空を月に任せる
「里美、大丈夫かな……」
「里美より、マコトがちゃんと行くかだよ」
町内会で集まってやってきた芳子が、あさみと話している近くを、北川軍団の三人は落ち着かぬ様子で徘徊している。
「ちょっと、あんた達さっきから何をウロウロしているのよ」
鬱陶しく思った芳子が注意すると、その声を聞いた三人は、突然に背後から肩を叩かれたように驚いている。
「おい、あんまり大きい声出すなよ……ここに四つ葉小の奴等がいるかもしれないだろ」
三人の中で一番臆病な裕太は、自分たちの存在が見つからないようにと、独り言のように声を潜めて芳子に訴える。
「あんた達、本当に馬鹿ね。だったら家で大人しくしてなさいよ」
「そんなこと今更言ったってしょうがないだろ。それに花火は今日観なかったら、明日でも観られるわけじゃないだろ」
和也と幸男は花火が始まるのを待っていると言うより、土手に集まる人々の群れに自分達と同い年くらいの少年がいることを懸念していると、四つ葉小の連中と目が合って向かって来るのが見えた。
「おい裕太、やばい!あいつらが来たぞ!」
束になってやって来る集団を見て三人が慌てていると、芳子は態とらしく大声を上げて、「お探しのバカ、ここにいるよ!」と言いながら、大きく手を振っている。
「バカ!何やってるんだよ!」
和也たちが逃げようとして走り出すと、四つ葉小の連中も「おい!待て!」と声を上げながら、勃勃たる闘志を見せて追いかけてきた。
「ちょっと、君達、集団行動だよ」
北川軍団は町内会長の注意を無視して逃げ出すと、乗って来た自転車が止めてある堀切橋の袂に向かって走った。
その頃、恵と歩を一度拓也の家まで連れて帰り、小便で汚れた洋服を着替えさせた淳平は、ぐずり出す二人を河川敷まで連れて行くのに手を焼いていた。
「おい、早く行かないと花火始まっちゃうぞ!」
河川敷に行けば誠と拓也が既にいるはずだと思い込む淳平は、厄介な妹を早く兄の元へ引き渡したくて足を急がせる。
「マコトとタク坊の奴……会ったら覚えておけよ」
目に角を立てながらようやく堀切橋の袂まで辿り着くと、あたふたとする北川軍団の姿を見つけた。
「おい、何やってるんだよ、花火始まっちゃうぞ」
淳平が話しかけると、血相を変えた裕太が「ジュンちゃん!助けてくれ!」と、助けを求めて縋ってくる。
「どうしたんだよ?」
「四つ葉小の奴らに見つかっちゃったんだよ!」
そんなことはすっかりと頭から抜けていた淳平は、血気盛んであった日中の三人とは正反対の態度に呆れた顔を見せながら、「だって、決闘したかったんだろ?ちょうどいいじゃねえかよ」と意地悪く言う。
「事情は変わったんだよ。なぁ、俺たちが橋を渡り切るまで、あいつらのことを止めといてくれよ」
「無茶言うなよ」と言っている淳平の声を掻き消すように、背後からは北川軍団に向けられた怒号が聞こえると、一見した限りでも十人以上はいる少年の集団が、押し寄せる波のように迫ってくる。
「ほら、来たぞ。俺までおまえ達の仲間だと思われたくないから、さっさと行けよ……」
淳平がしがみ付いてくる和也のことを突き放すと、三人は「薄情者」と言いながら、落ち武者のように逃げて行った
日は沈み、この町の風景を舞台にネイビーブルーの空と言うには少し洒落ている気もするが、星などは数える程しか見えない夜空の隅では、これから打ちあがる花火のために少し遠慮をしているように、三日月が人々の様子を覗いている。
高速道路にはヘッドライトを点けた車が流れ星のように走り抜けて、河川敷に集まる人々達は、まだ空の色を気にすることはなく、坂の上では駆け回ってはしゃいでいる子供達や、待ちくたびれた幼い子をあやす父と母がいて、Tシャツとジーンズ姿の彼の隣では、浴衣姿の彼女が今日の出来事を、「あのね、それでね」と、よく喋る九官鳥のように話している。
川の向こう岸に精霊のような火の玉が空へ昇ってゆくのが見えると、騒めいた声はサイレント動画のように止み、その火の玉が弾けると大きな円を描いた火花から放つ眩い光が、下町の夜空を彩った。