平成二年七月二八日(土)夕方《1》
平成二年七月二八日(土)夕方
由美子はきっと、この場所に来るはずだと思っている誠は、空を眺めながら思い出すことがあった。それは四年生の時に自分と拓也が原因で、由美子がクラスの女子と争いになった時のことだ。
平成元年 四月二一日(金)
掃除当番をさぼった誠と拓也は、買ったばかりのゲームボーイを手に取りながら、アジトで話をしていた。
「今日の由美子、変だったよな」拓也が話す。
「そうだなぁ……」
昼間の出来事を思い出しながら、誠は重い溜息を吐く。
それは、翌週に子ども会で行われる親子ドッジボール大会の話を教室でしている時だった……
「ニュース!ニュース!今度のドッジボール大会で親のチームに勝ったら、夏休みに水元公園のキャンプが海へ旅行に変わるらしいぞ!」
まもなく昼休みが終わろうとしている頃、勢い良く教室に入ってきた淳平は教壇に立つと、皆を前にして大声で話す。
「マジかよ!絶対に勝とうぜ!」
「よっしゃぁあ、みんな、二四時間戦えますか!」
拓也を中心に男子が盛り上がっている中、誠だけは関心を持たずに鼻で笑っている。
「そんなのムリだろ、由美子の父さんが来たら、全員で束になっても敵わないよ」
「だよな、去年も由美子の父ちゃんに、みんなやられちゃったもんな……」
さっきまで勢いの良かった淳平も、誠の言葉を聞くと教壇に両手を付いて溜息を吐く。
由美子の父親は誠や淳平の親達より年齢も若く、ほんの少し前まで実業団でバスケットボールをやっていたものだから、運動神経も飛び抜けている。
スポーツのことになると相手が子供であろうが手を抜くことなく、いつも『子供のうちは、負けて悔しい思いをして大きくなれ』なんて、スポーツマン精神みたいなことを押し付けてくることがあった。
そんな話をしていると、いつもの由美子は誇らしげな顔で割り込んでくるのだが、今日は何処か元気がない。
「お父さんなら来ないよ……」
皆が教壇の周りに集まっている中、由美子は席に座ったまま憂いを帯びた顔を見せている。
「えっ、マジで、ラッキー!そしたら、俺たち勝てるかもよ。拓也の父ちゃんなんかクソ弱いし。オバタリアンじゃなくて、オジタリアンじゃん!」
話し方の様子から、誰が聞いても由美子の言葉は意味深であるのに気づくが、気づかないのが淳平の無神経な所。
「おまえ、人の親父の悪口言うなよ!」
人の気持ちなど気にせずに皆が騒ぐものだから、由美子も癇癪を起こして「うるさいわね!私のお父さんが来ないのが、そんなに嬉しいの!」と大声を上げながら、机の上を強く両手で叩いて周囲を驚かせた。
「由美子、別にそんな意味じゃないって」
「何だよ、急に……父ちゃんが来れないからって、そんなに怒ることないだろ」
誠は事の次第は分からずとも、場の空気を考えて宥めようとするが、デリカシーのない淳平の言葉を聞くと、由美子は教室から逃げ出すように飛び出していった。
「あいつ、どうしたんだよ……何だか知らないけど、あそこまで怒ることがあるか?」
淳平は由美子を不快な気持ちにさせたことに反省することなく、むしろ、その態度に疑問を抱いているが、誠はいつもとあからさまに違う様子であった由美子を追いかけて走る。
「由美子、どうしたんだよ!」
大声で呼びかけても聞こえていない様子の由美子を、誠は姿を見失わぬように追い駆ける。
由美子は突き当りの角を曲がると、その先にある階段を駆け上がっていることから、学校から出て行こうとする行動には見えないが、校舎の三階であるこの場所から上の階に向かっても、そこには屋上しかないことから、飛び降り自殺でもする気ではないかと、良からぬ事態を連想させる。
誠も慌てて階段を駆け上がり最上階に辿り着くと、屋上の扉は鍵が掛けられて行き止まりになっていて、由美子は力尽きたように座り込んでいた。
「おまえ、何かあったのかよ……」
由美子は何も話すことなく、ただ声を立てて泣き出すが、誠には突然振り出した夕立のような涙の理由まで察することはできない。
「何があったかのしらないけどさ、ジュンちゃんバカだから、あいつの言ったことくらいで泣くなよ」
気持ちを理解して宥めようとする誠の言葉に、由美子はかぶりを振って否定している。
『じゃあ、何で泣いてんだよ……』
心配して追いかけてきたものの、誠には泣き出した女子の扱い方など持ち合わせていないから、理解できない事には面倒くさいとも思う。
「何だよ、何かあるなら言ってみろよ」
誠が訊いても由美子は理由を話すことなく、ポケットから取り出したハンカチで泣き顔を拭きながら、「ゴメンね、もう大丈夫だから、ありがとう」と言って少しだけ笑った顔を作ると、無理やり涙を止めた目を合わせる。
校内にチャイムの音が鳴り響くと、本人が言いたくなければ無理に話を聞こうとしても仕方ないと思った誠は、由美子を連れて教室に戻るが、面倒くさいと思っても、泣いていた理由を聞くこともできなければ、相談相手すらなれなかったことについては蟠りが残る。
いくらハンカチで拭い取ったつもりでも、由美子の目には赤くなった涙の痕があることに拓也は気が付いた。
「おい、誠、由美子どうしたんだ?」
誠に訊ねても取り立てて心配をする必要もなさそうに、「わからん……」と言うだけなので、拓也も深くは考えずに、きっと無神経な淳平に腹を立てて泣いたのだろうと捉える。
「なぁ、それよりも、いよいよ今日だな。ゲームボーイ」
この日は『ゲームボーイ』の発売日であり、拓也の頭の中は朝からその事で埋め尽くされていた。
「学校が終わったら、即効買いに行こうぜ」
「今日、掃除当番だぞ。それに予約しているから、売り切れる心配もないだろ」
「掃除なんか、どうでもいいよ。マリオランドは予約できなかったんだから、ゲームボーイあったってカセットが買えなかったら意味ないだろ」
拓也の欲望に満ちたその誘いが、二人で掃除当番をさぼった理由だった。