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夜の散歩

この話では十代の飲酒が出てきますが、

架空の人物であり、平安時代では成人にあたる年齢です。

現代の日本では法律に反する行為であり、なおかつ体を損ねるので、

絶対に同様の行為を行わないでください。

 文机の前に座る領子に侍従(じじゅう)は説教を続けるが、いつもほどのかさ高さはない。


「そろそろ和歌を実際に作ってみましょう。いきなりは無理でしょうから、まずは引用から始めます。自分の気持ちに最も合った和歌を読み上げるのです」


 と、言われても今の感情はただただ面倒というだけである。しかしそんなことを答えたら侍従はこの場で倒れかねない。


「古今の中からお選びください」


 焦れた彼女が急かすので置かれた冊子をめくってみるが、もちろん適切な歌などない。季節の歌や恋の歌、寿ぎの歌など眺めてみるがもちろんふさわしい気分ではない。侍従は舌打ちをしかねない表情でその様子を見つめていたが、とうとう感情を指定した。


「大姫様が亡くなって日数だけがたってしまった現在のお気持ちにふさわしいものを選んでください」


 姉の死は大きな不幸だ。身を投げたいほど悲しかったのも本当だ。けれど時が経ち思いもかけぬ状況に追い込まれた今、ただその感情の中だけに生きているわけではない。悲しみは悲しみとしてありながらも、そこから先へ向けて歩いて行かなければならない。

 指先が冊子の後半を繰る。そしてその中の一つに目が留まる。悲しみを捨てるのではなく冷静に眺め、自分の感情を洞察し乗り越えていくその歌。今の自分に最もふさわしいだろう。領子は声を上げてそれを読んだ。


「世の中の憂きたびごとに身を投げば 深き谷こそ浅くなりなめ(世の中を辛いと思うたびに投身自殺をするならば、深い谷だって死体が重なって浅くなってしまうだろう)」

「ふざけているのですかっ!」


 侍従の唇がわなわなと震えている。領子は焦った。


「古今に本当にあります」

「あるかどうかではありませんっ。大きな悲しみを抱えた姫君にふさわしいわけがないでしょう!」

 横にいた少将も更に冷たい視線を向ける。


「姫さまの感性は独特すぎてわれわれ下々の者には理解し難いようですわ。普通はこの場合、哀傷の歌あたりから選びます」

「悲しんでばかりではいけないと思ったの」

「そのお志はけっこうですが、あの素晴らしい方を亡くした悲しみが早々に癒せるはずがありません。平気でそのような歌をお選びになるとは、大姫様のことを大して悲しんでいるわけではいらっしゃらないのですね」

「まあ。われわれ女房でさえも未だ袖の乾かぬ夜を送っていますのに」

「同じ腹から生まれたたった一人のご姉妹でいらっしゃったのに」

「大姫様は姫様のことをそれは大事に思っていらっしゃったけれど、そのお心は通じてはいなかったのですね。かわいそうな大姫様」


 口々に言い募る女房たちの胸の中にある言葉は一つだ。領子はそれを正確に読み取ることが出来た。


――――おまえが代わりに死ねばよかったのに


 そうできるのならそうしてあげたかった。いや、二人ともに生きていたかった。しかしそれは不可能だ。ならば状況に合わせて最大限の努力をするしかない。が、この女房たちはその妨げにしかならない。


「あの、姉姫様は優しいので、こんなことになったうちの姫様をきっと天から見守っていると思うんですが」


 日向(ひゅうが)がおずおずと口を挟んだ。きっ、と睨みつける女房たちに怯えて身をすくめ、それでもこわごわと言葉を続ける。


「きっと皆さんの嘆きも見つめていらっしゃるんじゃないでしょうか」


 女房たちは互いに目を見交わし、それから冷たい表情のまま和歌に戻った。領子はほんの一瞬だけ日向に感謝の眼差しを向けた。



 夜中にふいに目覚めた。辺りはしんとして暗い。女房たちは全て眠り込んでいるようだ。

 御簾(みす)越しの廂に一つだけ明かりの残る釣灯篭(つりとうろう)がある。領子は半身を起こし、帳台の(とばり)を透かしてそれを見つめた。


()の刻に入ったばかりよ」


 頃合を考えて首を傾げると、涼やかな声がそれに答えた。礼を言いかけ、飛び上がりそうになった。その声は自分の女房のものではない。


 やっと暗さに慣れた瞳におぼろな輪郭が映る。浮き上がるような白い顔。


「…………夕月!」

「こんばんは、お姫さま」


 闇に溶けるような艶やかな黒髪は一つに結ばれている。着ているものは水干(すいかん)括袴(くくりばかま)のようだがどちらも黒い。すべらかな平絹で作られてある。彼女は腕を組んで自分を見下ろしていた。


「どうしてここへ?」

「人生意を()ればすべからく歓を尽くすべし。散歩に行きましょうよ」

「さ、散歩って?」

「外に出るのよ。ほら、立って」


 高貴な女人は立つことなどほとんどない。移動する際も膝立ちだ。けれど領子は目立たなかった時代、人目を盗んで時たま歩いてみることがあった。幼い頃など走ってさえいた。釣殿(つりどの)に到るまでの長い廊を一気に駆け抜ける楽しさを覚えている。まさかそのことが知られているわけではないだろうが、夕月は彼女を立たせると指貫袴(さしぬきばかま)を身に付けさせた。

 その後布の袋から何かを取り出した彼女に、領子は腰を抜かしそうになる。


「な、生首?」

「ただの(かもじ)(かつら)よ。あなたの身代わり」

 衣架(いか)(平安ハンガー)に掛かった衣を取ると上手くまとめて夜具に収めた。そこに鬘を合せると、人がゆったりと眠っているように見える。


「さあ、行くわよ」

 夕月はその手を伸ばした。

「………どこに?」

「あなたが望むなら地の果てでも」


 ひんやりとした白い指がそっと絡む。胸の鼓動が高くなる。

 なにせ、相手は鬼だ。やはり気が変わって自分を殺すつもりなのかもしれない。或いはいい売り手が見つかったのだろうか。

 切れ長の眸が自分を見ている。平気で人を殺す魔物の美しい姿。手を握ったまま夕月はもう一度言った。


「外に行くわよ、領子」

 途端に心が決まった。彼女の眸をしっかりと見返す。

「……一緒に行くわ」


 立ち上がると部屋が少し小さく見える。夕月に手を取られたまま北廂(きたびさし)を通り、北の対には向かわずにそのまま裏庭に出た。寝殿(しんでん)の表と違い白砂が敷かれていない。そのせいか先とかかとに真綿を詰めた毛沓(けぐつ)(騎馬用のくつ)を履かされたせいかあまり音が立たない。どうどうと下屋(しもや)の間を抜け、雑仕の使う通用門から外に出た。


 貧相な馬が一頭止められている。夕月に手伝われてその馬に乗った。

 ひらり、と夕月が領子の前に跨る。

 彼女は袂からやはり黒い弓懸(ゆがけ)(弓用手袋)のようなものを取り出し両手にはめた。その手で手綱を引くと馬は進み始めた。



 冬は間近い。空気は冷たく夜着の上に羽織らされた地味な(うちき)を通して身体を冷やす。けれど寄り添った夕月の体はほんのりと温かく馬の背は(くら)を通しても熱く感じる。

 月はまだ出ていない。濃い闇の中、星が瞬く。その星が自分たちを追いかけてくる。


「凄い……牛車よりずっと速いのね」


 袖も髪も風になびく。景色が流れるように変わっていく。見たことも考えたことさえなかった風景。時さえも支配したかのような感覚。

 稀に明かりのちらつく大きな邸の辺りに差し掛かるが、疾風のような速度でそれは遠ざかっていく。


「......行きたい所はある?」

「鴨川のほとりまで行ってみたいわ」


 たちまち馬は進路を変えて夜の狭間を抜けていく。

 どこから響くのか、笛の音。風の甘い匂い。そこにいつしか水の香が混じる。

 土手を駆け上がり、馬は飛んだ。必死にしがみつきながら領子は恐れとは違う興奮がその身を捕らえるのを感じた。

 馬がその首を大きく振り回し、いななきを立てた。夕月がその首を撫でてやると、甘えるような声に変わる。乗った時と同じような身軽さで馬を下りた彼女は、静かに領子をおろした。


「冷たい」

 流れる水に手を浸した領子が感心したようにつぶやいた。朝夕に運ばれる角盥(つのだらい)の水は真冬でもやわらかくて、こんな刺激を与えはしない。手は凍りそうだが面白くて、なかなか引き上げることが出来なかった。


「赤くなっているわ」

 夕月がその手をそっとあげさせた。先ほどまで冷たく感じた彼女の手が暖かく感じる。取り出された手巾で水気をふき取ってくれる。


「次に行くわよ」

 有無を言わさず馬に乗せられた。



 新鮮な夜の空気は領子を高揚させる。舞い上がる髪の下を冷たい風が撫でる。夢の中にいるみたいだ、と彼女は思う。

 明かりの多い左京から右京の方へ移った。空気の質が少し変わり湿り気あるにおいが夜気に混じる。それは都を下り行くうちに次第に変わり、人の立てる煙のにおいなどもわずかに混ざり始めた。


「こんな時間に煮炊きする人がいるのね」

「魚を炙って大きな邸の宿直の者に売りに行く人もいるわ」


 馬を進めて、築地塀(ついじべい)だけは妙に立派だが中の建物はひどく荒れた邸の中に入っていく。するといかつい大男が顔を出し馬の口をとった。


「お早い帰りで。おお、お姫さんも連れてきたんですか」


 思わず領子は身をすくめて逃げようとした。が、夕月がそっと腕を絡める。逃げられるわけはない。さっさとあきらめ素直に彼女に従った。

 元は寝殿と思しき箇所から笑い声がする。そこには炉が備えてあり、干物や餅などが焼かれている。四、五人の男たちが酒を飲みながら話に打ち興じていた。

 夕月の姿を見た彼らは口々に声をかけ、さっそく炉の傍に円座(わろうだ)を敷いて座を設けた。領子もその横に座らされる。


「これ、食うか」

 いきなり焼けた魚を差し出される。驚いて思わず受け取ってしまったが、串に刺されたそれをどうやって食べるのかわからずに戸惑う。


「喰らいつくんだよ、こうやって」


 一人が片手で串の端を握りかぶりついた。おずおずと領子も真似をする。思わず目を見開いた。


「おいしい! なに、これ、本当にお魚?」

 男たちは一瞬黙り、それから一斉に笑い転げた。


「雲の上のお姫さんが、こんなもんを喜ぶなんてよ」

「おい、もっとましなやつがあっただろ、持って来い!」

「こら干物だぜ。瀬戸の新鮮な魚を食べさせてやりたいぜ」

「魚ってのは飛び切り鮮度のいいやつは生で食べられるって知ってるかい、お姫さん」


 (なます)と呼ばれる食であることは聞いているが、あたる事があるので出されたことはない。


「餅も食うか、餅」

弥生(やよい)胡桃(くるみ)がどっかになかったか」

「それより酒だろ、酒」


 土器(かわらけ)が渡され、瓶子(へいじ)から白く濁った酒が注がれる。促されてぐいっ、と空けると彼らはどよめく。


「少し刺激があるけど甘いのね。初めて飲んだわ」

「大丈夫か?体がくらくらしないか?」

「ううん。なんだか楽しいけど」

「お姫さん、ざるだな」

「次の日きついからほどほどにしときな。ほれ、餅食え」

「弥生、胡桃あったか?」


 呼ばれて、奥の方から若い女が出てきた。年の頃は夕月と変わらない。栗色の長い髪を麻紐で束ね、薄紅色の小袖を着て腰回りに同じ色のしびら(平安エプロン)をつけている。女は男の一人に胡桃を渡すと、夕月の方を振り向いた。


――――綺麗な人だわ


 姉とも夕月とも違う線の細い美しさだ。さざめく水面に映る花の影。或いは、流されていく可憐な花びら。少し淋しげな様子が儚い魅力を添えている。

 弥生と呼ばれる女は、黙って夕月を見つめている。渡された酒を口にしていた夕月は無表情に彼女に命じた。


「この子の手を測ってあの弓懸(ゆがけ)を作ってあげて。仔鹿の皮は用意させたわ」

「明後日には私は行かなきゃいけないのでしょう」

「そうよ。だからその前に作って」


 夕月はひんやりとした眼差しで彼女を眺める。弥生は、あきらめたように頷いた。


「手を出して」

「あの、私別にいらないけど…」


 弥生は安心させるようにほんの少し笑みを浮かべた。


「夕月の命令は絶対なのよ。あなたは気にしなくていいの」

 弥生の手つきはとても優しい。けれどすばやく動き、あっという間に紙に手の形を写し取った。


「急ぐから下がるわ。お姫様はごゆっくり」


 もう一度、領子に微笑みを見せ、それを消して夕月に少し重い視線を向ける。けれどすぐに目を外して部屋を出た。


「おい、割れたぜ」

 気を取られているうちに男の一人が胡桃を渡してくれた。


「ありがとう」

「ほい、酒のおかわりだ」

「信じられねえ飲みっぷりだなぁ。この干し柿食っとけ。悪酔いよけだ」


 言われるままに飲み、かつ食べた。酒のせいかちょっとしたことで笑い転げた。恐ろしいはずのこの集団が少しもそう感じられなかった。


 帰り道、来た時よりも冷たい夜風が心地よかった。夕月のすんなりとした背が、全てのものから守ってくれるような気がした。部屋に送り届けられてもその感覚は変わらなかった。


「……そのうち、また誘いに来るわ」

「待ってる」


 本気でそう思ったせいか声が必死になっていることに領子は自分で気づいた。少し赤面したが夕月はからかうこともなく部屋を去った。



「......大納言に似ている?」

「目鼻立ちに少し面影がありますね。しかし相似するのはそこではない」


 戻った夕月の問いに答える男は四十をわずかに過ぎた年の頃だ。貧相な痩身の男でねずみに似ている。腕っ節の強さを誇るほかの男たちとまるで違う種の人柄に見える。


「あの酒の飲みっぷりですな。大納言は、大飲すれども乱れず、その落ち着きたる様は山の如しとたたえられる方ですが、あの姫さまもなかなかどうして人並みはずれてお強い。性格も似ても似つかぬ風ながら、このような異常な状況にさっさと順応なさるところなど、意外に共通するものがあるのかもしれませんね」

「そう」

(うじ)の長者である左大臣は、極めて有能ながら脆い所がありました。が、大納言は冷静で強い。けれどその犀利な部分がかえって徳にならないこともあります。この姫さまは父を越える大きさをお持ちだと私は思いますよ」


 夕月はわずかに片頬を緩めた。女院のもとの女房たちの話とはかなり違った分析だ。


「兵を形するの極みは、無形に至る。彼女は状況に合せて活用することをお勧めしますね」

「個人的見解がかなり混ざっているわね」


 ねずみのような男は萎烏帽子(なええぼし)の上から頭を掻いた。


「そうかもしれません。あの姫さまは面白い。捨て駒にするのはもったいない」

「考えておくわ、先生」


 そう言って背を向ける彼女に男は少し柔らかな目を当てた。この非情で聡明な教え子がただ意思を肯定するために自分ごときに意見を求めることは珍しい。その観点から言っても大納言の姫君はなかなか楽しい存在だった。


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