鬼の弟
女院の牛車を引いたのは体格のいい東国の武士だ。人のよさそうな風体をしている。高欄の下の白砂の上に膝をついて語る。
「都に不慣れな拙者が迷いがちに屋敷に戻りかけておりましたところ、怪しげな輩がこのように立派な車を引くのを見かけまして、これはおかしいと声をかけたところ凄まじい勢いで逃げていきました。車の中には高貴な女人がいらっしゃるようでしたが、怯えていらしてなかなかお声を聞かせてくださらなかったのでこのように遅くなりました」
分相応に重い砂金の袋が渡される。口止めを含んだその価は、男を充分に満足させたようだ。
「後をつけさせろ」
領子の父の大納言が従者を御簾近くに呼び、そう囁いた。さっそくその手配がなされた。
領子と例の女は寝殿の奥の几帳の陰で黙っている。恐ろしい暴漢に狙われた女の反応としておかしくもない。が、問われて女が答えた。
「恐怖のあまり叫んだもう一人の女房は連れ出されました。どうなったのかは判りません」
か細く震える声で女は告げる。もう、男など見たくはないと言いたげに衵扇でしっかりと顔を隠している。
「気の毒なことをした。女院様には明日改めてお詫びに伺うとお伝え願いたい」
女は頭を深々と下げた。接待を辞退してそのままその場を下がり、特に選ばれた武士に警護された車で女院のもとへ戻った。
大納言は腕を組んで考え込んでいる。着替えてもいないのだろう、地の厚い黒綾の袍をまとったままだ。孫廂には先刻から侍従が這いつくばっている。大納言はそちらに視線を向けた。
「頭をあげい、侍従」
恐る恐る彼女は命に従う。普段の権高な色は欠片もない。大納言は冷たい声で続けた。
「明らかにおまえの失策だ。姫に何かあったらおまえもおまえの一族も二度と浮かび上がることは出来なかっただろう」
「しかし、氏の印が…」
「しょせん物だ。何とでも取り返しがつく。が、娘は一人しかおらぬ。それに、あの印の件はにおう。兄のたくらみではないかと疑っておる。その証拠に印は無事であった。偽の印を仰々しくしまいこみ、本物は別の場所にあったのだ」
侍従の唇は色を失っている。大納言はその様を冷たく見据える。
「里に戻って控えておけ、と言いたいところだが時が惜しい。今日だけ姫を休ませ、明日からは今まで以上に励むがよい」
領子は肩を落とした。こんな異常な経験をしたのに何も変わらない。明日もその次もまた変わらぬ日々が繰り返されるだけなのだ。
さすがにまわりも気遣って、女房たちは御帳台を遠巻きに取り囲んで休んでいる。夜具を掴んで眠れずにいると、休みで叔母の家を訪れていたはずの日向が息せき切って現れた。
「き、聞きましたよ。だ、だ、大丈夫でしたか」
「大丈夫よ。今日は泊りじゃなかったの」
「姫さまが心配でそれどころじゃありませんよ」
起き上がって微笑む。道具としてではなく心配してくれるのは彼女だけだ。
「こんな噂が広まったら入内は無理かしら」
「業平にかどわかされた高子でさえ入れたご一族じゃありませんか。気にしませんよ。それに知らせてくれたのはお父上に仕える女房でした。姫さまへの配慮ですよ」
そう素直には受け取れない。けれどそのことを言えなかった。言っても仕方がなかった。
「ありがとう。それと夜道は危ないからこんな時でも夜が明けてから戻ってきて。それで充分だわ」
「確かに盗賊などが増えているようですね。物取り、火付け、かどわかし。道には物乞いも多いし野犬などもたくさんいます。最近では盗賊も群れていくつかに分かれて勢いを競っているとか」
「まつりごとでも盗賊でも誰か圧倒的に強い人がいたほうが落ち着くのかしら」
「さあ。内裏も安定しないようですね……あわわ、けしてお身内のことを言っているのではないですよ」
「いいのよ。表面はともかく伯父様とお父様は競い合っていらっしゃるし、右大臣は右大臣でこちらの一族を目の敵にしているし」
どちらが今度の件を謀ったのだろう。それを考えるが結論は出ない。
「なんにしろ姫さまがご無事でよかったです」
「日向、そろそろ控えなさい」
弁のおもとが御帳台ににじり寄って叱った。日向は舌先を少し覗かせ、再び横になった領子の髪を丁寧に乱れ箱に戻した。
眠れなかった。何度も寝返りをうちただ息を吐く。目を閉じると自分の上に重い屍骸がのしかかってくるようで恐ろしい。横を向いても視界に別の死体が映る気がする。裂かれた咽喉から溢れる鮮血。動かなくなる女の腕。
がたがたと体が震えだす。安全な自邸の寝殿なのにいくつもの屍骸がうつつのように現れる。自分の身体を抱いて震えていると、その不気味な映像の中に一つだけ美しいものが現れる。
帰りの牛車の中で、涙を抑えた領子にその女は尋ねた。
「なぜ、あの時私を逃がそうとしたの?」
領子はきょとんとして答えた。
「え? 傷つく人数は少ないほうがいいでしょ」
「あなたが叫ぼうとしたときに、黙らせたのは私よ。それでも?」
そういえば、牛車では後ろから衝撃を受けて気を失った。そのことに初めて気づいて首を大きく振った。それから少し考え、相手の目をまっすぐに見つめた。
「それでも」
彼女は表情を見せなかった。けれど大納言邸の四足門が近づいた時に名を尋ねた。この時代正式な名を持たない女は多い。そうでなくとも呪詛を避けるために高貴の女はめったに名を明かさない。が、領子はためらいなく答えた。
「領子。あなたは?」
しばらく彼女は領子を眺め、それから答えた。
「女院のもとでは中将。………他では夕月」
「夕月?綺麗な名前ね」
女は微かに口もとを緩めた。瞬時に六人も殺した修羅だとは思えないほど柔らかな影。
微笑が恐怖を凌駕する。宵闇を照らす細い月のような唇を思い出し少し心を静めた。部屋を占める屍骸の残影は消えた。領子はようよう眠りについた。
取り繕った言葉で事柄は語られる。菊襲の女房の行方は杳として知れない。だが、さして身分のある者ではないので問題にはならない。他の者に様子を聞くと、意外に素行のよからぬ女であったらしい。そんな女房が身近にいたことも不快だ。
女院は顔をしかめて話を聞いた。
「姫は確かに無事なのだな」
「ええ。恐ろしさに震えていらしたのですが、御身に障りはありません」
「ふむ」
仕掛けた相手は兄か右大臣か。どちらにしても可能性がある。が、兄だとしたら怒りは倍増する。入内を妨害したとしても、兄の娘が子をなさなければどの道一族は衰亡していくのみだ。おのれの面子にこだわって、別系の繁栄を許す気か。
女院はしばらく考え、にやりと笑った。兄には実の代わりに虚名を与える必要がある。その娘を中宮にする、という餌をちらつかせれば飛びついてくるに違いない。
――――その娘が私と同じ素腹の后と呼ばれようがな
皮肉な想いが胸をよぎる。面と向かってそうののしった年若いころの彼の姿が思い出される。その頃の自分は泣くことしか出来なかった。だが今は違う。鋭い爪も牙も身に付けた。
目の前に座る女に目を向け、少し顎の先を動かした。中将と呼ばれるその女はすべるように座を辞した
。
局に下がった夕月は同室の女を言いくるめて別室に行かせた。切灯台の灯心を細いものに変え明度を下げる。
おぼろな光の中、質のよくない直衣を不思議と優雅に着こなした者が、檜扇で顔を隠して局の奥まで入り込む。黙ったまま見上げる夕月に傍らに抱えた包みを渡した。
「出来たばかりだって」
開くと、無紋ではあるが丁寧に仕立てた唐衣と、ことに折り目の際立つ朽葉色の裳が形よく畳まれている。
「いいなあ。弥生の縫い物は目が細かくて生地の扱いも上手い。でも最近は姉さんの分しか作ってくれないし」
三日月はひょいと座り込む。動くこと自体が楽しくてたまらない少年の活発さに天性の品位が加わって、不自由なく育った権門の子弟に見紛うほどだ。けれど夕月はそんな様には気を取られず必要な言葉のみを与えた。
「大納言邸の様子は?」
「うん。やっぱりあの人の後つけたよ。頼んどいてよかったね」
道行く者をさんざん吟味して、これ、と目をつけた男に手下の一人が声をかけた。たまたま高貴の牛車を救ったが、身分のあるものは下々と関わることを好まないだろうから代わりとなってほしいと。人のよさそうな男はそれを請け負ってくれた。
「礼金は半額でいいと言っておいたけど渡すかな、あいつ」
「欲が出てくるようなら始末すれば」
「無意味な殺しは避けたいな。血で汚れるの嫌だし。あと、先生が驚いてたよ。大納言の姫はさらうはずだったのに、って。姉さんが予定を変えることって滅多にないしね」
「………別の傷つけ方を思いついたの」
「くわばら、くわばら。どんな子?可愛い?」
夕月は視線を宙に投げた。先刻まで傍にいた姫の姿がそこに浮かぶ。
「そうね。髪は短いけれど愛らしいわ……だけど変わった子よ」
「どんな風に」
「姫君らしくないわ。姉姫と比べて相当落ちるって噂だったけれど、そちらを知らなければ比べようがないわね」
亡くなった後まで称賛される姉姫は資質の高い女だったらしい。が、死人に興味はわかなかった。
「珍しいな。姉さんが人を気にすること」
「必要なだけよ。それより鹿丸とか言う男のことは調べたの」
「逃げたらしい。たぶん殺されるね。一応手は打っておいたけど」
「河原の夜烏と話はついたの」
「うん。三日後に会う手をつけた。いきがってるけど大した男じゃないね。彦兄思い出した」
「巌彦? それじゃろくなもんじゃないわね」
吐き捨てるようにつぶやく。三日月は少し笑った。
「でも、わかりやすいよ。まだ若い。二十をいくらか過ぎたぐらいかな。手下は十人を越えるほどはいる。最近少しのしてきたみたいだけど、ま、ありがちな群盗だよ」
「夜烏を抑えたとしてその下にまずい相手はいる?」
「明烏ってのが弟らしい。むしろこっちのほうが実直で使いやすそうだけど、兄貴に従順だ。他は特になし」
「そう」
三日月は勢いよく立ち上がった。屋敷内には手下を忍ばせている。連絡は取りやすい。
「じゃ、その時に。あ、言われた馬は厩番に銭を渡して預けたよ。見た目はしょぼいけど意外に速いやつ。伯楽なんていないから誰も気づかない。葦毛雲雀で右足首に白い線が一本入っている」
「右杖ね。あれなら丁度いいわ」
馬の名さえ把握している姉に少し感嘆の視線を向ける。四つ離れているだけのその隔たりは永遠に埋まりそうになかった。
少年の姿は消えた。夕月は再び宙を見上げて何かを考え、口もとをわずかに綻ばせた。