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見知らぬ妹

「まだ事情がわからぬのかっ」


 女院の大喝に殿上人(エリート)は身をすくめた。

 彼女は帝のじきじきの依頼によって多くの供を連れ、清水寺に代参していた。何事もなく寺にこもって、十一面観音像を拝み、坊主の説教などを聞いていたが、今朝方から雲行きがあやしくなってきた。


 五条の橋が落ちたと連絡があり、慌てて従者を何人かやると、対岸から矢文で「ご心配には及びません。それより雪解けで水の流れが早くて危険なので、お寺でごゆるりとお過ごしください」といった内容の文が送られてきた。


 その時点では焦りもしなかった。事実、遠回りをして往復した者は異常なしと報告した。だが日が傾きかけた頃に他の橋も落ちていると連絡があった。慌てて見に行かせたが、水の増えた川は流れが速く、橋をかけることはたやすくできそうもなかった。


「渡し舟はどうなのだ?」

「盗まれたり焼かれたりしていて、一艘もまともなものがありません」


 呆然としたが、下人を使って渡りやすそうな箇所を越えさせようとした。途端に何もないと思われたところから激しく矢が飛んできて、憐れな下衆は絶命した。


「どういうことなのだ? 草むらに潜んでいる気配はないと聞いたが」


 報告を受けた女院は殿上人に直答(じきとう)をゆるし、几帳(きちょう)(平安パーテーション)を吹き飛ばしそうな勢いで尋ねた。報告の男は思わず這いつくばったが話は続けた。


「矢が飛んだ際に慌てて振り返りましたが、一瞬だけ見えただけで、すぐに姿が消えました」

「なんだとっ! もののけの仕業だといいたいのかっ」


 女院は迷信めいた考えを好まない。身近に使えるこの男もそのことをよく承知していた。


「はっ。私も目を疑いました。ですが目を凝らしても人の姿はありませんでした。思うに、あらかじめ深い穴を掘っておいて、そこに隠れていたのではないでしょうか」


 なるほど、それならばありえる。しかしやっかいだ。そうだとするとその仕掛けはどこにあるかわからぬから、渡河するには危険が伴う。


「そのような噂を誰も聞いてはいない。ならばそれほど多くもなかろう。他の場所も試してみろ」


 早くから人が隠れるほどの穴をいくつも掘っていたら、たまたま落ち込んだ者などが話を流すだろうし、急速に多くの穴を掘っても、大量の土砂が捨てられたら水も濁るし噂にもなる。大穴は痕跡が残りやすい。


「承知いたしました」


 男が下がったと同時に別の男が頭を下げる。南都(奈良)に行った内大臣の元に向かわせた使者だ。


「弟はすぐに来るのか」

「いえ、おいでになられません」

「この火急の際に何をのんきな! おまえと共に馬で駆けつけるかと思うたわ」

「はっ、そのようにお勧めいたしましたが、現在あちらの(やしろ)におこもりになられております」


 南都には藤原氏の氏神神社がある。左大臣に対する言い訳としてそこを訪れた内大臣は、そこの神官に驚愕すべきお告げを聞いた。

「女人の恨みで命を取られそうになっていると。守っていた添い伏しの巫女はすでに死んでいて、守護する者のない大臣の命は風前の灯であると告げられ、今は難から逃れるために精進潔斎(しょうじんけっさい)に入られております」

「バカらしい。支配者側が迷信にふりまわされてどうする。すぐに兵を集め、何者かわからぬ敵に矢ぶすまを降らせよと告げいっ」


 女院の怒りは当然のものだが、内大臣は動きそうもない。使者は青ざめた表情で続けた。


「よくはわかりませぬが、決して他言できぬ行為さえ神の目にはお見通しで、真実を語られた大臣は、腰を抜かして動けなくなったそうです」

「わかった、もういいっ。弟はそこに待機させておけっ。だが近隣の兵を集めてこちらに派遣するように命じさせろっ」

「いえ、そうすることも神のお心に背くことだと」

「やかましいっ。なんとしてでも了承させろっ。従わぬのなら、今後一切こちらの援助を期待するなと、そう告げろっ!」


 この異様な状況の中、帝は守る者さえ不足したまま都にいるのだ。何を思ったのかあの憎たらしい兄さえ宇治の別荘に行っていると、最初の使者から報告があった。


ーーーーと言うことは、都には右大臣の手の者しかおらぬ。まだ東宮(とうぐう)(皇太子)の女御(にょうご)の産み月には至らぬゆえ、行動には出ぬと踏んだが賭けに出たか


 帝を(しい)してすかさず東宮をその位につけ、空いた東宮の地位は息のかかった前帝の親王(しんのう)に与えておき、男子が生まれたら取り替えるかもしくはその後の東宮につける。女子が生まれたら、暫定的な東宮にさんざん恩を売っておき次の子を急がせる。そんな手段が考えられる。


 なにせ主だった公卿(くぎょう)(超エリート)は一人も都にいないのだ。帝が不慮の死を遂げたとしても、なんとでも言いつくろえる。


 女院はぞっとした。祈るような気分で都の方角を眺めた。そこからは夕餉(ゆうげ)のしたくか煙が漂ってくるように見えた。



「こんな時に来客などうさんくさいわ! 追い返せっ」


 留守居に残された左大臣の脇腹(正妻以外)の息子は腐っていた。母の身分は同程度なのに、別の脇腹の息子たちは宇治の別荘に同行を許され、自分ひとりだけが残されたのだ。

 やつあたり気味に怒鳴られた従者は口ごもりながらも話を続けた。


「ですが……若さまの妹と名のっております」

「はっ、バカなことを。妹などおらぬわっ」


 正室腹の中宮は姉だ。彼女の同腹の妹は、二人とも死んでいる。

 だが従者はおずおずとそれを否定した。


「昔、妻ともいえぬ程度の女に娘がいたことを覚えていらっしゃいませんか? 別勤めの男に、その娘御が見つかったと聞いております。急に大殿が宇治に行かれたのでくわしくは知りませんが」

「なにぃ、聞いておらんぞ。他に知る者はないかっ」


 別の従者が口をはさんだ。


「それがしも聞いております。先日どこぞの邸で会われたようです」


 その後の事情を知る者はなかった。だが過去のことを知る老いた従者がいた。


「娘は知りませぬが、若さまは一度、その母の元に行かれたことがおありです。ほら、あの五条の……」


 そう言われて思い出した。幼い日、父の女をやっかんだ母に偵察に行かされたことがあるのだ。

 風の強い日に垣間見た女は壮絶に美しく、幼い日の自分は「母上よりずっときれいだった」と正直に告げて折檻された。その痛みはすぐに忘れたのに女の面影はなかなか消えず、何度も夢を見た。

 彼はごくり、と息を呑んだ。


「……あの女の娘か」

「そのようです。都に火事が頻発して、女ひとりの身が恐ろしくなってこちらを頼ったそうです。お会いになりますか」


 我知らず彼はうなずいた。壮麗な邸の西の対の北廂(きたびさし)に、人を払って通すように命じた。


 現れた女は想像以上に若く、美しかった。抜けるように白い膚も、切れ長の瞳もその母によく似ていた。


「そうか。母御は亡くなったのか」

「ええ。長く病んでおりましたので、本人も楽になったかもしれません」


 女はさして悲しむ様を見せなかった。もう、心のどこかに片づけてしまったのだろう。めそめそされるよりよほどいいと彼は思った。


「今まで一人で大変だったな。これからはこの兄を頼りとして、何ごとも相談するがいい」

「ありがとうございます……お兄さま」


 黒い瞳が自分を見つめる。急に胸が高鳴り始めた。

 かつて、母がこの女の母をそしった言葉を思い出す。あのふしだらな女の子が、殿の娘であるわけがない。きっと別の男をくわえ込んで設けた子に違いない。根拠のない罵倒だったが、妙な実感が沸いてきた。本当にそうなのではないだろうか。


ーーーーだとしたら、この女は妹ではなく


 盗み見ると、衣の下の胸元が生々しく息づいている。

 女は瞳を妖しくきらめかせた。



「よさねえかっ!」


 分け入った二人の海賊が、無理やりたちはきと千虎を離した。


「こいつが勝手に因縁をつけてきやがった!」

「何言ってんだ、てめえの方じゃねえかっ」


 またつかみかかろうとする二人を、海賊たちが再び分け、ドスのきいた声を出した。


「おまえら二人が大ゲンカして、計画がおじゃんになったと頭に伝えてほしいのか」


 途端に二人がしゅんとする。互いに相手を見張るために、合流して協力することを選んでいたが、上手くいかない。


「町のやつらもけっこうしぶとくて、あちこち消し止められた。内輪もめするひまがあったら次の場所に行ってくれ!」

「気があわねえのにいっしょにいるな。おまえはここで、おまえはあっちだ」


 海賊たちが指示すると、千虎はともかくたちはきがむかっ腹を立てた。


「おいてめえっ、女はともかくおまえらの下についた覚えはねえぞっ」


 うんざりとした面持ちで海賊は「あんたのほうが上だと認めるから、さっさと火付けに行ってくれ」とうながした。なおも言いつのろうとするたちはきを、手下たちが「ここは引いて、女頭に恩を売りましょう」となだめた。


 たちはきは毒づきながらその場を去った。千虎はけっとつばを吐き、それから海賊たちに目をやった。


「おい、俺は別口をちゃんとつけてから移動したわけよ。なのに火の手が上がったとは聞いてねえ。いったいどうなっているんだ」

「帝の手下もけっこうバカじゃねえ。お貴族さまの守りを固めると思っていたが、ちゃんとこっちにかまえていやがった。だが、様子を見た限り数は少ない。かまわずいっせいに火をつけろ、予備に決めといた場所も燃やし尽くせ、と頭からの伝言だ」

「わかった」


 千虎がうなずく。「だが夕月はどこにいるんだ」

 海賊二人がにやりと笑う。


「並みのヤツらにゃいけないところに行くとこだ」

「そういやおめえはそこそこやるヤツだったな。次が終わったらすぐ、左大臣の邸に行ってくれ」


 彼は不審の目を海賊たちに向けた。


「あっちは見張りが厳しいのでほっとくんじゃなかったか」

「いや、そろそろ手薄だ。チンケな下仕えしかいねえ。おまえならすぐだ」


 そういって彼らは、まずはと近場の空き家に連れ立った。



「これは……手がつけられぬ」


 凄まじいほどの炎が、八軒ほどの小家から上がっている。領子も一瞬声を呑んだ。しかしすぐに真っ青な顔の五の宮に告げた。


「さがりましょう。火元よりもっと遠くの家を壊させるの!」


 五の宮は少年姿の領子を見た。その瞳に諦めなどは欠片もない。


ーーーー姫にはかなわぬな


 彼女を見ていると、絶望など心でもてあそぶ玩具にすぎない気がしてくる。


「承知!」


 五の宮はすぐに応じ、風向きを見た上でかなり離れた家の傍で、今日何度目かの名乗りを上げた。

 力強い語りに、呼応するものは出た。もちろん無傷の家を壊されるものは嫌がったが、かつて見ないほど大きく立ち上る炎に、周りの者が許さなかった。


 延々と繰り返しが続く。それでも領子たちは根気強く説得したし、別箇所で事情を知り味方をしてくれる者もある。他の火事を消し止めた実績は大きく、野次馬だった者が指導の役を代わってくれたりした。あれほど手におえなかった大火も、ぐるりととり巻いた大円の内を、軒並み取り壊したために鎮まりそうに見えた。


「火が飛んだ! 戌亥(いぬい)(北西)の方だ!」


 すでに日は暮れ、離れた地に飛ぶ赤い焔が恐ろしげに見える。


「まずいな」


 五の宮が思わずつぶやいた。


「逆ならかまわぬ。辰巳(たつみ)(南東)なら、河原院はどうせ空き家だし敷地が広いから燃えても大したことはない。東はどこも川に近い。だがあちらは人家が続くし、たどれば内裏じゃ」

「大変。いったん戻ったほうがいいかしら」


 童姿の無品親王(むほんしんのう)はうなずいた。領子は六位蔵人(くろうど)に目を合わすと、手綱をひいて馬を走らせた。蔵人は黙って従った。



 右京側に火をつける者は少ない。人家が左京より少ないため、効果が薄いと判断された。その上学者が珍しく志願して、一人で馬に乗って火付けに行った。さすがに心配になった海賊の一人が、少し動いた後確認に行くことになっている。


「油運べるのか、あの先生」

「大した量を渡しちゃいねえよ。決着をつけるといきまいてるから、お気持ち尊重しただけの話よ」

「てめえらあんな非力なん、ようつきあうな。こちとらやっぱ強いが一番だ」


 海賊は明るく笑った。


「まあそうだがよ、この計画を立てたのはその先生なんだわ。力はないが大したタマよ」

「おれにゃ、わけわからんな」


 盗賊が首を傾げたその時遠くに白馬が見えた。


「えらい速い馬……お頭?!」


 目の前にその馬が止まった。顔を覆った布から出ているのは確かに夕月の瞳だ。 


「え、なんで。あちらに行ったんじゃないんですか」

「事情が変わったのよ」


 夕月の声がいくらかけだるげに答える。必要のない説明をしないのはいつものことだ。だがさすがに、後ろに乗せられて必死にしがみついている若女房には驚いた。


「お姫さんじゃあないな。誰です、この女」


 海賊が触れようとすると女房が身をすくませた。頭から(うちき)をかぶり、顔を押し隠すようにしている。


「必要があるってだけよ」

「これ相当の名馬だなあ」


 盗賊が目を見張っている。


「……内大臣の(うまや)のよ。機嫌が悪かったので南都には連れて行かなかったらしいの」

「へえ。さすがにいい馬だなあ」

「それはどうでもいいわ。おまえたちは火付けはやめて、待機場所に行っておいて」


 海賊がぎょっとした。


「え、先生はどうします? 今がんばってる最中でさあ」

「回収していっしょに待機」


 有無を言わさずそう告げると、白馬はまたその場を走り去った。

 盗賊と海賊は目を見合わせて、それからとある邸に向けて動き始めた。



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