夕暮れ前
趣味のいい部屋の中を見回しながら、どうしてこんなことになったのだろうと領子は思った。
頭を抱えたいがそんなわけにもいかない。この、日の本の国で最も高貴な方々の前で、そんな見苦しい様をさらすわけにはいかない。
「何か思いつきましたか領子姫」
帝が優しく提案をうながす。「いえ」とうなるように応えると中宮がおっとりした声で「あらあら、せかしてはいけませんわ」とそれを押しとどめ、領子の方に笑いかけた。
「焦らずにゆっくりと考えてくださいね」
それでも事態の解決を図るのは自分らしい。領子はがっくりと肩を落とした。
海賊たちに向かって都を守ると豪語したのは確かに彼女だが、さして血の巡りがよいとは言えない一介の姫君、一晩眠ったからといって素晴らしい発想が生み出せるわけもなかった。
そのことは朝起きた時にすでに気づいていた。充分に眠って彼女としては冴えた頭でも、何一つ思いつかなかった。身支度を整えている時に日向が現れて、いつもより元気よく「なにかお役に立てることはありませんか」と尋ねてくれたので、自分を呼び出してくれるよう中宮への使いを頼んだが、なにか策を見つけたわけではなかった。
中宮から差し向けられた檳榔毛車に乗って宮中に向かう際も考えつかず、扇で顔を隠してそれを下りると、わざわざそのために派遣された、帝の年老いた乳母と輦車に同乗した時も緊張しただけだった。
今に至っては、なぜか呼ばれていた帝の前でしどろもどろとなって危険な状況を説明しただけだ。悪人の企みを知ったとはいえ、それを好転させることなどできそうにもなかった。
とことん困り果てた姫君は壁に頭を打ちつけたくなったが、その前に飛香舎(藤壷)の南庭に人が現れたことに気づいて姿勢を正した。誰だろうと思う間もなく、白砂にひざをついた者の「お呼びを受けて、成貞親王参りました」との声を聞いてひどく驚いた。
「五の宮さま?」
「私がお呼びしたのよ」
中宮が小声で領子に告げた。
「あの時の機転の利き方はただごとではありませんでした。頭がよくて実行力もある方なのね。さすがは主上の弟君ですこと」
やわらかな微笑みになごまされて、こちらも頬を緩めていると、帝が自ら彼に声をかけた。
「久しぶりだな五の宮。息災であったか」
「はい。主上もご壮健でいらっしゃるようでなによりです。皇の卑小な裔であるこの私も喜びを禁じえません」
帝は明るい笑い声をたてた。
「人払いはしてあるよ。上がって、もっと気楽に兄弟として話してくれ。簀子も廂も越えて、ここまで入っておいで」
さすがに五の宮は躊躇したが、帝が立ち上がって御簾の際まで寄ってさし招くので、あきらめて中に入って来た。
中宮と領子は顔を隠したが、帝はそちらに振り返って笑い「もう今更だし、みないっしょにさらそう」と無茶を言った。中宮さまを困らせてはいけないと、領子は扇を強く握ったが、その中宮自身が「それもそうですわ」と扇を閉じた。つられて外すと五の宮が驚いた。
「領子姫! どうしてここに」
「姫は都の......いや、国の一大事について知らせに来てくれたのだ」
帝が事情を説明すると、茵(平安座布団)に座った五の宮は童形に似合わぬしかめ面で考え込んだ。
「大きな橋は民部省の管轄ですね。落ちたと報告はあったのですか」
「五条大橋についてはあった。最近の雨や雪解け水のせいもあって水かさが増している。無理には渡れない」
「とすると女院さまは」
「本日ご帰還の予定であったが延期なさるはずだ」
「なるほど。それでは兄上をお守りする者は」
「ほとんどが女院さまや内大臣、左大臣の供に出ている」
長期の予定ではなかったし、そもそも左大臣は洛外(都の外)に出るはずではなかった。
「とするといるのは右大臣側の者のみですか。かれらは東宮守護しかしませんよ。可能な限りかき集めて兄上をお守りしなくては」
普段の幼い雰囲気と口調を捨て、真剣に打開策を検討する五の宮はひどく頼もしかった。だが帝は首を振って「私のことより都を守らなければ」と勢い込んだ。けれど童形の無品親王はそれを否定した。
「いえ。兄上はこの日の本の国そのものなのです。たとえ全て焼きつくされ都の全てが奪われようとも、兄上さえご無事なら必ず再起できます。飢饉などがありましょうし、天災も起こるかもしれません。万が一の場合も、そんな時をついて兄上を旗頭とすれば、絶対に立ち上がる者がいます。大人しく守られていてください」
「わかった」
「ですが都も可能な限り守りたい。検非違使(平安警察)はどれほど残っておりますか」
「名のある者は大尉(従六位上。殿上人までもっとがんばれ)がただ一人。府生(検非違使下っ端)や火長(更に下っ端)は聞かねばわからぬ」
「右大臣には知らせず、とりあえずこちらに呼んでください」
手を叩くと帝の女房が現れ、すぐに伝言を伝えに行った。その間に五の宮は領子に向き直り「他に気がついたことはありますか」と尋ねた。
「ええ。海賊さんたちは多少入れ替わりがあるみたいだけれど、十人と少ししかいないと思う。これだけじゃコトは起こせないから、盗賊さんたちと手を組んでいるのじゃないかしら」
だけど、と彼女は続けた。高貴な一族は身を乗り出してそれを聞く。
「以前、海賊さんたちと盗賊さんたちが喧嘩になったことがあったわ。だから上手につつけば仲違いすると思うわ」
「いや」
五の宮はうなずかなかった。厳しい顔のまま否定した。
「それはたぶん解決している。そこを処理したからこそ動き出したのであろう。盗賊たちは女頭の手足となったと見る方がいい」
そういうと声をやわらげ、大事な相手に優しく告げた。
「姫、よく知らせてくださった。危険なので後のことはまかせてください」
「人が少ないのでしょう。私も加わります」
簡潔に答えると帝も五の宮も焦って止めた。だが領子は気負いも見せずに淡々と返した。
「危険は承知しています。命をなくすことも無体な目にあうだろうこともわかっています。だけど足手まといとは言わせないわ。私は並の人より動けるし、海賊さんたちが私を切り捨てる時に、ほんの一瞬ためらいが出るほどには彼らと親しい。おとりにもなるし、ただ人の中に紛れ込んだ彼らを見分けることもできるわ」
「目の前であなたと親しかった相手を殺すことになるかもしれぬ」
姫君は痛みを押し殺した目で宮を見返した。
「ええ。だから、さよならはすませてきたわ。彼らに殺されても恨まないし、逆となってもためらわない。それに耐えないつもりなら、彼らといっしょに行ってるわ」
少年は、まだ開かぬ桜に似たこの愛しい姫君を危ない目にあわせたくなかった。けれど拒もうともひそかに動くだろうこともわかっていた。彼は彼女の手をつかみ「絶対にまろから離れないでください」と小声で言った。
姫は目元をわずかに染め「もちろん」とだけ答えた。
やがて、呼ばれた検非違使の大尉が飛香舎(藤壷)の南庭に伺候する。帝と五の宮が諮問して、動ける人数を把握した。
「山城五道(京の出入り口)を固めるには、人がたりません。いや、中で惑乱を起こそうとしているので、そもそもムダなことです」
「せめて女院さまに知らせを」
「当然群盗どもはそれを読んでいると思います。橋の渡りやすい地点は狙われていると思うべきです」
「追捕官符(大まかに、逮捕状ってことにしときましょう。ま、お気になさらず)を出すべきですが、そのための公卿会議が人員不足のため開けません」
「無理に開いても、右大臣がほしいままにするだけです」
帝は考え深げに扇をもてあそび、ためらいながら決断した。
「強引に開けば後々に禍根を残す。遠回りだが使者を出したので今夜一晩耐えうれば、各国の健児(郡司子弟による騎馬兵力)も俘囚(降伏した蝦夷の再利用)も使える。万が一の場合は必ず私がいろいろと償うので、都のために命を賭けてはくれまいか」
大尉は平伏し「恐れ多いことです」と了承した。だが使える人員は多くはない。盗賊の息がかかっていないと断言できる者は、古くからいる気心の知れた看督長(けびいし実動部員)が三名、放免(犯罪者の再利用)が二名いるだけだ。
絶望的だ。六衛府(帝や内裏の守り)さえほとんどいないのだ。帝の警護を除くとほぼ人がいない。
領子はぐっ、と唇をかみしめた。同じ表情の五の宮は、ふいに帝を振り返った。
「非公式に知り合いの文官に手伝ってもらいたいのですが、兄上から直にお言葉を賜るか、典侍を通じて動かしていただけないでしょうか」
「誰を?」
「阿蘇の少史を始め、気心の知れた何名かをお願いします」
「わかった。他、必要な物は?」
「主殿寮に命じて松明の用意を。あと延焼を防ぐため、家々を壊す必要があるかもしれません。そのための準備も必要です」
「すぐに用意させよう。他には? ああ、これもやろう」
帝は麹塵の袍を脱ぐと五の宮に渡した。彼はおかしそうな顔を抑えてまじめぶって受け取ると、型通りに肩に掛け拝舞した。
中宮はにこにことその様子を見守っている。領子は、そんな場合ではない気がしたが、昨夜帰るなり眠り込んだ自分を思い出して黙っていた。
「おお、一大事と聞いてこの爺も駆けつけましたぞ。帝はご無事であらせられますか」
白砂を踏んで右大臣が現れた。女院も左大臣も内大臣も留守と侮って、平気で階を上り、簀子に座り込んだ。すぐに帝はにこやかに微笑みかけた。
「耳が早いな右大臣。あちらに戻ったら呼びにやろうと思っていた」
「臣たるもの、常に帝にお仕えする機会を伺っておるものです。急に検非違使などを呼ばれたと聞いて、何ごとかと参上しました」
「さすが右大臣、あっぱれな志だ。ただし確証のある話ではないのだ。いや、伝えてくれたのは信頼できる筋なのだが、無法者の話した言葉によるので、そやつらが偽りを申した可能性がある」
「はあ、それはどのようなことでしょう」
説明を聞いて右大臣は目をそばだてた。
「やや、それは国家存亡の危機ではござらぬか。このような時に留守だとは、他の方々はいったいいかなるお心地か。......いえ、けして中宮さまをお責めしているわけではありませぬぞ」
「もちろんわかっている。ところで右大臣、私兵はどの程度お持ちか。もちろん各地の兵を集めるつもりだが、今日中には間に合わない。舟も一艘も見当たらぬそうだ。手を貸してほしい」
右大臣はもったいをつけて考え込んでみせたがやがて答えた。
「よくは覚えておりませぬが、あまり大した数はおりませぬ。しかも太平の世に慣れた弱兵ばかり。多少世間を知る者どもは、最近失ってしまいました。これではお役に立てますまい。足手まといになるかと思いますので、慣れた東宮さまの警護のみをうけたまわらせていただきましょう」
ぬけぬけと言い放ったが彼の考えはもとより承知、帝は「そうか。それではそちらをよく守ってくれ」とあっさりと許容した。
右大臣はすぐに帰り、帝と五の宮、大尉も清涼殿に移動した。
領子もいったん戻ろうとしたが、中宮に引き止められた。
「夕方から動かれるのでしょう。それまでしっかりと養生しなくては」
恐縮する彼女に軽い食事を出してくれ、御帳台で休ませてくれた。
通常なら落ち着かないはずだが中宮の人柄か、領子はほどなく深い眠りに陥った。
目覚めると藤壷中宮が「この間に用意させましたの」と微笑んだ。なんだろうと首を傾げると、女房たちが入って来て着替えを手伝った。
「まあ可愛い!」
それは男子用の狩衣で、指貫より幅の狭い狩袴も合わせてある。どう調達したのか、領子の身丈にぴったりで急に身が軽くなったようだ。
「みずらも通常より固く結いましたので、簡単にはほどけないと思います」
中宮の女房が静かに告げた。その主人は上気した顔で、姫を立たせたり歩かせたりして喜んだ。
「本当に可愛いわ。このままここに飾っておきたいほどよ」
何一つ濁りのない純粋な好意に、領子の胸も温かくなった。思わず彼女の手を取って「本当に、ありがとうございます」とつぶやいた。
中宮は、もう片方の手をそっと添え「ここでやめてもいいのよ」と姉のように優しく囁いた。だが彼女は首を横に振った。
「そう。えらいのね、領子姫は。何も手伝えなくてごめんなさい」
「いいえ! お世話になりました。それに中宮さまがここにいらっしゃるだけで、みなも私も救われています」
本心で告げるとまたふんわりと笑って、用意してあった靴と襪(平安くつ下)を渡してくれた。
日が落ちてきた。また藤壷の南庭に集った人を見て、領子は意を決して御簾をくぐった。そこにいた五の宮は彼女の姿を見て目を見開いた。
「あの時よりもお似合いだ、領......いや、み、みずら丸」
ものすごく適当に名を付けられた気がしたが、仕方がないので受け入れた。
見回すと、赤狩衣をまとい白杖を持った二名の看督長の他、全部で二十名ほどの者が控えている。大尉は帝の守りとなったのかいない。検非違使以外の文官らしいものが三名ほどいるが、中宮前での礼儀を守りながら、こうも面倒そうな顔ができるのかと感心するほど強張った表情だ。
————海賊さんたちの言っていた、死んだ魚の目ってこんな感じかしら
干物しか知らない領子にはわからない意見だったが、それを見て初めて納得した。
「宮さまは、よく休まれましたか」
小声で尋ねると五の宮は「藤壷の上局を使わせていただくという栄誉を賜った」とにっこり答え、それからみなに向き直って「この都を、必ず守り抜こう、われわれの手で!」と叫んだ。
「応ッ!」
検非違使関係の者は力強く叫んだ。それ以外の者はやけっぱちに叫んだ。
領子は元気に叫ぶと、小さな拳を振り上げた。
女の透き影のようにおぼろな月が空に上がった。
日は傾いて、山の端を恋しがっている。
一条大路にほど近い野原に集まった男たちはごく一部である。他はそれぞれ別の場所に待機している。
ざわついていた彼らは、前に立つ女の姿を見て声を消した。
黒い水干に束ねた黒い髪。姿はたおやかだがその目は燃えるように光る。
様々な視線を一身に集め揺るぎもしない。むしろ跳ね返すほどだ。
女は男たちを見回した。射すくめるような視線があてられると、百戦錬磨の男たちの胸がかってに高鳴る。闘いの期待と、この女に認められたい欲望が等価に暴れる。
女に見とれる男たちの熱をはらんだ沈黙の中、夕月はわずかに口の端を持ち上げた。
「......潮はかなひぬ 今は漕ぎいでな!」
途端に熱狂的な叫びが上がる。我知らず腕を振り足を踏み鳴らす。
「夕月っ!」「夕月ッ!」「夕月様っ!!」
「こっちを向いてくだせえっ!」「お頭————ッ!!」
「ご奉仕させてくだせえ!」「われらが姫に幸運を!」
溶けぬ氷のように冷静な女が男たちの熱を受け止めて、その白い手を挙げると地が裂けるほどの叫びがあたりを覆いつくした。
女は変わらぬ涼しさで、瞳だけを焔にしたまま彼らの行く手を身をもって示した。




