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攻めの姫君、守りの姫君

 宵闇の中に白い面影が見えて、思わず手を伸ばしたら本物だった。

 ぱちくり、と目を瞬かせ、領子は夕月を見つめた。しばらく忙しいと聞いていたのに、先日会ってからの間隔は短い。それでもすぐに起き上がった。


 今夜は日向は非番でいない。宿直(とのい)の女房を起こさないように気をつけて立ち上がった。夕月が手を取ってくれる。


「......行くわよ、領子」


 いつもと変わりのない声に何の不安も感じずに立ち上がった。

 行き慣れた道をたどって馬に乗った。だが一つだけ違うことがあった。弓懸(ゆがけ)めいたものの用意がなかった。


「平気よ。以前よりだいぶ温かいし」


 馬を操れないのは残念だが、夕月にぴったりと身を寄せて夜の都を駆け抜けていくのはとても楽しい。

 彼女はいつも道筋を変える。違う道を通って、時にはだいぶ遠くを回っても、最後には必ずいつもの邸にたどり着く。


「来たな、お姫さん」

「まずはちょっと動かねえか」


 走ったり登ったりを楽しんでいると、夕月に呼ばれた。駆けていくと、昔は釣殿(つりどの)だった所に腰かけている。

 その下の池はほぼ枯れ草や土砂に埋もれていたが、遣水(やりみず)が細々と流れ込むせいで、ほんのわずかな水たまりが残る。そこに、ようやく太った月が映っている。


 春の甘さとけだるさが水の色に滲んでいる。

 動き疲れた体も少し重くなっていく。


 隣に座った夕月が、珍しく領子に微笑みかけた。驚いているとしなやかな手が領子の指先に触れた。


「夜遊びは楽しい?」

「ええ、もちろん!」


 ためらいなく応えると「そう」と返す彼女の口元は微笑の影を残したままなのに、どことなく憂いが潜んでいる。

 領子は触れられたまま指先を握り込んだ。夕月の目が、少し大きく開かれる。


「私、なんにもできなかったから凄く楽しいわ」

「あなたは普通の姫君よりできる子よ」


 いつもと同じ黒絹の水干(すいかん)姿の夕月は、真顔に見える表情で言い切った。領子はますます嬉しそうに笑う。


「姫君としてのたしなみは全然だめだけど」

「そんなものいらないわ。ねえ、私たちといっしょに来ない」

「どこへ」

「......海へ」


 きょとん、と首を傾げる領子の手を引いてもっと近くに体を寄せる。と惑う彼女に惹きつけるような視線をあてる。


「海はいいわよ。重い衣も脱ぎ捨てて、身軽な格好で舟で渡るの。瀬戸内は波も静かで優しい海よ。月の光に照らされて、のんびりと行きましょう。私の義父(ちち)は西の海を全て束ねているのよ。だからそのうち、大きな船に乗って遠くまで行くの。異国までいっしょに旅をするのよ」


 夕月の声は甘く言葉は優しかった。指先はいつしか領子の髪を撫でる。


(ちょう)若虚(じゃくきょ)という唐の人が歌っているわ。月明かりの届かない所はないのよ。こんな小さな都より、もっと大きな国で月を見ましょう」


 見たこともない平野にうねるような川が流れ、月が昇る。

 月影は花咲き乱れる林を照らし、全てがほの白い。

 領子はうっとりとそのさまを想像しうなずきたくなった。

 だけど胸のうちの何かがそれを押しとどめる。


「......日向を一人にしたくないし」

「連れて行けばいいわ。親よりもあなたのことが大事なのでしょう」


 間髪を入れず応えられて、なんだかわからぬ不審の念がわき起こる。それに、離れ難い人は他にもいる。今や姉と慕う藤壷中宮もそうだし、それ以外にもいる気がする。


 領子は考え込んだ。父親のことはとっくに見切っている。日向以外の女房たちにも義理は感じない。女院には少し悪い気がするが、姉が死ななければ会うこともなかった人だ。


ーーーーだけど......


 残される人とは二度と会えないのだろうか。それでも彼女は、この美しい鬼と旅立ちたくなる。

 だが、彼女の敏感な鼻は夜気に混ざる極めて俗なにおいに気づいた。油だ。今夜も海賊が唐菓子を用意してくれているらしい。


「......置いていった人はどうなるの」


「別に」と応える夕月にためらいはなかった。それでも領子はその言葉の奥底に潜む苦いものに気がついた。


「燃やすの?」


 夕月は答えなかった。顔色は変わらなかったが声をなくした。領子にはそれで充分だった。


「......行けない」

「そう」


 無表情にうなずくと美貌の鬼は片手をとん、と釣殿の端に設けられた高欄(こうらん)についた。退路をさえぎられた領子は、うかがうように夕月を見る。


「泣かせたくはなかったのに残念ね。それなら無理に来てもらうわ」


 釣り殿の下からいく人かの海賊たちが現れて姫君を囲む。どの男も表情はない。


「他に手はないわよ。言う通りにしなさい」


 夕月はもう片手で彼女のあごを捕らえると、くい、と持ち上げた。領子は脅えたように身をすくませ目を伏せた。それでも安易に屈しない。


「なぜなの。今更どうして私をさらうの?」


 それに苛立ったように女海賊が答える。


「......あなたのことが嫌いだからよ」


 彼女の唇は月の形につり上がっている。毒のある花のような美しさが、いっそう際立つ。


「最初からそのつもりだったのよ。鬼を信じてだまされて、かわいそうね、お姫さま」


 領子は目を上げようとはしなかった。夕月はあごから手を離して言いつのった。


「それでも、曲がりなりにも内大臣の姫君だがから、人質としての価値はあるわ。最初は弟にでもめあわせようとしたのにそれも拒否した。もう自由にはさせないわ。大人しく言いつけに従うのよ」

「いいえ。私は行かないわ」


 小さな声がはっきりと否定した。夕月は信じられないことを聞いたかのように、ぴくりと肩を震わせた。


「なぜ。逃げる手段はないわよ」


 領子は顔を上げてまっすぐに夕月を見た。憎らしくなるほど迷いがない。


「いいえ。あるわ」

「どうするの?」

「あなたに頼むのよ」


 夕月は形のいい眉宇(びう)を不快気に寄せた。周りを囲む海賊たちは内心の恐怖をひそかに抑えた。


「寝ぼけてるの。嫌いなあなたの言うことを聞くと思う?」

「ええ」とうなずいた姫君は相手の言葉に傷つくこともなく自信ありげに微笑む。


「あなたは、頭がよくて強くって綺麗で悪党で、人のことはなんでもわかるけれど自分のことはなんにもわかってないわ」

「..................」

「知ってるわ。あなたは、私のことが大好きなのよ!」


 凶悪な女頭領は、意味のわからぬ言葉を聞いたかのように表情をなくした。海賊たちはそれ以上に驚いて、誰もが目か口か両方かを開いている。

 だが、背後に現れた影は動じもせずに声をかけた。


「それは面白いですね」


 貧相な、ねずみのような男が闇にまぎれるように立っている。静かに近寄って来たが、筋骨隆々とした海賊たちとはまるで違う体格だ。この人が、三日月のいう先生なのね、と領子は思った。

 はたして男は「海賊の仲間の学者です。どうぞお見知りおきを領子姫」となめらかに挨拶した。


「元の身分は何?」

「そうきますか。なかなか侮れませんねえ」


 楽しそうに学者は微笑んだ。


「答えることはできかねます」

「じゃあ家族が京にいるのね。やめましょうよ、こんなこと」


 いきなり攻め込まれて学者は目を白黒とさせた。だがすぐに防御に入る。


「いやあ、これはなかなか大した方だ。全て捨てたのなら答えられるはずだというのですね。確かにできれば助かってほしい、と思う程度の相手はいますが、積極的に助けたいほどの者はもういないのです」

「もうというからには以前はいたのね。北の方? ご両親? お子さん?」


 領子はかまわずにぐいぐい押していく。学者は少し余裕をなくした。


「語るつもりはありません」

「気持ちが変わったと考えるのなら、北の方ね。お子さんは?」


 夜目にもわかるほど学者が青ざめた。その様を見て領子は一人で納得した。


「いるのね。娘さんかしら」

「私の娘ではありませんっ」


 我知らず大声を上げる自分に気づいた学者は、はっとして思わず自らの口をふさいだ。なのに繊細さに欠ける姫君は配慮のかけらもなく切り込んでいく。


「あなたの子でなくとも娘はいたのね。じゃあ教えて。その子を抱いてあやしたことはある?」


 顔面蒼白のまま学者は、意識せずにうなずいた。領子は口元を優しく綻ばせた。


「小さくて、温かくて可愛かったでしょう。本当? 本当にあなたの子じゃないの? あなたの腕に抱かれて泣いたり笑ったりする子は、あなたの娘じゃなくて?」

「これは手強い」


 ようやく体勢を立て直した学者は、形勢不利と見て強引に話題を戻した。


「ですが私のことはここまでにしましょう。それより先程夕月があなたを大好きだとした根拠はなんですか」


 領子は学者の私的事情には固執せず、あっさりと答えた。


「え、いろいろあるわ。たとえば大事な弟の北の方候補としてみてたのでしょう。私全然気づかなかったけど」

「彼は左大臣のご子息ですよ。割合現実的な話ですし、状況によってはいくらでも利用できる。理由にはなりませんね」

「他にもあるわ。五の宮さまの邸で、恐い人に襲われた時も助けてくれたし」


 学者はすっかり落ち着いて、口元のなまずヒゲをいじりながら聞いている。


「せっかくの人質のあなたに死なれたら困りますからね」

「いろいろなことを教えてくれたわ」

「連れて逃げるつもりなら、その方が便利ですしね」


 形勢逆転と、学者はほくそ笑んだ。けれど姫君は動揺する様を見せない。


「もうよしましょうか」

「大丈夫よ。もっと尋ねてもかまわないわ」

「そうですか。あなたはだいぶ自信がおありのようですが、いつ夕月が姫のことをお好きだと知りましたか?」


 尋ねると姫君は得意そうに微笑んだ。


「最初に会った時よ」

「どうしてそう思ったのですか」

「どんなに強くても人を殺すって大変だと思うの。まして女の人なら。でもあのとき彼女は私を救ってくれたわ」

「それはさっきも言ったように人質を......」

「違うわ」


 領子は学者から目を離して夕月に向けた。黒衣の女はほとんど睨むように視線を返す。


「人質にするだけなら、ただ生かしておけばいいのよ。だからあの時、あなたは私が犯されるのを待って行動するのが一番安全な手段だった。なのに、いくら油断していたとはいえ、女房姿のまま五人もの男を倒してその前に私を救ってくれた。あの後海賊さんたちも驚いていたわ。つまり、そんな無茶をするほど私のことが好きなのよ」


 パチパチと学者が手を叩いた。


「脱帽です。実に論理的だ。やはりあなたは面白い。......反論できませんがどうしますか、夕月」


 ほどよく太った上弦の月が、ほのかな光で夜を照らす。

 艶やかな長い髪をさらりと流したままの夕月は、先程の怒りを苦笑に変え、落ち着いた様子でうなずいた。


「......否定できないわね」


 途端に海賊たちがわっ、と沸き、破顔して領子との間を詰めた。


「うちのお頭にこう言わせるたあ、やるなあお姫さん」

「それな。頭のあんな顔初めて見たぜ」

「なあ、ほんとに来いよお姫さん。ピッチピチの生の魚を食わせてやるから」

「無理なことなんか何もさせねえ。いっしょに来てくれるだけでいいんだぜ」

「遊んでてくれればいいんだ。こっちが暇な時ゃいっしょに呑もうぜ」


 まぶしそうな顔で姫君は海賊たちを見つめた。それでも彼女は首を縦には振らなかった。


「......行けないわ」

「仕方ないわね」


 夕月の声に海賊たちは息を呑んだが、黒衣の女頭領は再び優しく姫君の髪を撫でた。


「先の言葉は撤回するわ。確かに私はあなたのことが嫌いじゃない。だけど、都は......燃やし尽くしてやる」


 撫でられる姫はその指先を受け入れたまた、まっすぐに相手を見返した。


「夕月、あなたのことが大好きよ。だけど都は......絶対に守ってみせる!」


 勢い込んだ領子に夕月はふ、と口元を緩めて「どうやって守るの?」と尋ねた。途端に姫君は眉を下げ、「特に思いつかないわ」と小声で答えた。


「そう。それじゃ教えてあげるわ。私たちが仕掛けるのは明日の夕暮れよ」

「えっ、そんなに早く!」


 驚く領子にたたみかける。


「都を守れる武士(もののふ)検非違使(けびいし)もほとんどいないわ。女院は寺へ、内大臣は南都(奈良)へ、左大臣は宇治に旅立った。供としてほとんどの殿上人(てんじょうびと)は誰かに同行しているから、残ったのは右大臣の子飼いと帝の宿直(とのい)をしているごく少数の者だけ。そして今夜、宇治、桂川の浮き橋、勢多橋、五条の橋が落ちる」

「ええっ」


 それが冗談ではないことを彼女は理解している。それでも声を止められなかった。


「舟は全て抑えてある。淀や山崎の商人には知らせていないけれど、察してどちらが利を生むか、高みの見物をするでしょうね」

「そんな......」

「もはや都は落ちたも同様。どうするの?」


 ふいに領子が涙ぐんだ。さすがに無力さを悟ったかとその顔を覗き込むと、目元を濡らしながら「もし、みんなを傷つけてしまったらごめんなさい」と謝られた。


「..................」

「誰もケガさせたくないし、殺したくないわ。だけどそうできる自信がないわ」

「姫さん、なんか思いついたのか?」

「全然。だけど帰って眠ったら、何か考えつくと思う」


 声をたてて海賊たちは笑い、それから存外まじめな顔で彼女を慰めた。


「だとしても俺たちゃ恨まねえよ」

「いっしょに走っていっしょに呑んだあんたは俺たちの仲間だ」

「俺にとっちゃ娘だな」

「ああ俺もだ」

「俺は妹だと言いたいな」


 いとおしい家族を見守るような目をあてた海賊たちは、それでもきっぱりと言葉を継いだ。


「だが俺たちゃ頭に命を捧げてる。あんたを切れと言われたら、泣きながらでもそうする」

「絶対イヤだ。だが逆らうことはできねえ」

「あんたがほんとの娘でも同じだ。ってか俺にとっちゃほんとの娘だ」


 みな悲愴な顔で夕月を見ている。彼女は焦る様子もなく言い渡した。


「今日はこの子を帰すわ」


 全員がほっと肩の力を抜いた。が、夕月は凄みをきかせた。


「私を驚かせたごほうびよ。明日の開始の刻限も変えない。だけどその後じゃまをしようとしたら、ためらいなく殺すわ」

「わかったわ」

「本気よ。あなたの言った通り私は鬼。たった一人の乳母子(めのとご)も殺したばかりよ」


 領子の顔が青ざめる。一度しか見たことはないが、儚げで美しい人だった。


「あなたがどんなに手を尽くそうと状況は変わらない。だから夕暮れまでにあきらめたら私のもとへいらっしゃい。こちらの気が変わらなければ連れて行ってあげるわ」


 暗い夜の海とそこをゆく舟が姫君の脳裏に浮かぶ。

 空に輝く大きな月が、揺れる波の上にまっすぐな道を光らせている。

 それに沿って、どこまでも舟を走らせていく。


 まさに夢だった。黄金(きん)の光と銀の舟。夕月と二人終わらない旅。

 領子はほんの少しの間だけ遠い目をし、それから誘惑を断ち切った。


「みんなの命の保証はしないわ」

「こっちもですぜ。だから死んでも恨みっこなしだ」

「できればさっさとこっちに来な」

「死ぬなよ、お姫さん」

「ええ。あなたもね」


 一人の海賊がぎゅっと姫君を抱きしめた。彼女は細い腕で相手を抱き返した。離すと別の男が壊れ物を扱うようにそっと抱いた。やはり領子は抱き返した。

 まるで神聖な儀式のように、一人一人が姫を抱きしめ、彼女はそれに応え続けた。

 学者だけはにこにこと微笑みながらその輪には加わらなかった。


「............夕月」


 最後に女頭領を見上げると、彼女は触れようとはしなかった。だが、胸元から白綾の手巾(平安ハンカチ)を取り出した。

 気づくと領子の頬は濡れている。袖で押さえることもしないので、盛大に涙が滴っている。

 夕月はそれをぬぐってやろうとした。だが姫君はわずかに身を引いてそれを拒んだ。


 ていねいに四隅をかがったその手巾は、きっと彼女の乳母子が作ったものだろう。領子はその縫い物の才を聞いたことがあった。

 どんなに平気を装っても、自分でそうだと信じていても、乳母子を失って辛くないわけがない。だからその手巾を汚したくはなかった。


「いらないわ」


 悪意ではないことを示すために姫君は泣きながら笑った。


「涙はこれで拭く!」


 高く掲げられた小さな拳を見て、女頭領はまた口元を緩めた。

 姫君は自分の言葉に従って、可愛い拳を濡らし続けた。


 月の光は全てを照らす。橋を落とす盗賊も、泣き濡れた海賊も姫君も、けして泣かない女頭領も、等しく光に包まれた。



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