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菊がさねの女

 ことあるごとに取り囲まれ、表だけは敬意の薄衣を着せた険のある冷たい言葉を浴びせかけられる。侍従(じじゅう)や姉のもう一人の乳母であった弁のおもと、その娘の少将などは思い入れが強かったためか特に辛くあたる。


「まさかお手蹟()もこのように幼いとは」

「大姫さまのものは手本として都中に求められていましたのに」

「どのような姫君でも何か一つは得意とするものがありますのに、二の姫さまは慎み深い。われら新参の女房にはなかなかそれを見せてくださらないのですね」


 すでに限界に近い。が、それを越えたところでどうなるわけでもない。泣き喚いても叫んでも、蔑んだ視線で見下されるだけだ。

 ため息を呑み込む。黙ってただ筆を動かす。入内(じゅだい)のしたくは進んでいるが、肝心の姫君自身が人前には出せない水準なので日取りが決まらない。


「午後は女院様のもとへ参りますが行き帰りの牛車ではもちろん和歌の暗唱をしていただきます」


 そう告げる少将の声には、明らかに嗜虐の愉しみにふけるもの特有のよくない色が滲んでいた。



 相変わらず居心地は悪い。だが今日は少しだけ気をそらすことが出来た。女院のもとに何人かの新しい女房が入っていたのだ。彼女たちは孫廂(まごびさし)に控えている。

 そのうちの一人が、凄艶なまでの美貌だった。年の頃は自分とさして変わらぬらしい。が、世慣れて大人びて人の応対も機知に富み、しかも出しゃばらない。身ごなしも極めて優雅だ。


――――お姉さまを思い出すわ


 そう思わせる女は初めてだった。賢すぎ、美しすぎる姉は人を超えた存在で似ている者などいなかった。自分には居丈高に振舞う少将などもその前では憧れの視線を熱く注ぎ、少しでも寵を得ようと哀れなほどおもねっていた。

 女院が他の者と話している隙に、整えられた庭を見るふりをしてその女房を眺める。顔立ちが似ているわけではないのだが、抜けるように白い肌がやはり姉の記憶を呼び起こす。けれど彼女の口もとには笑みの影さえなく、愛くるしかった姉とはやはり違う。


 視線を戻して女院を見上げる。整った容姿ではあるが年齢のせいだけではない貫禄がありすぎる。まるで名高い寺のように揺るがない。過去には一族の期待を背負って入内した可憐な姫君であったことが信じがたい。


 今の帝は女院の子ではない。後見の薄い女御の生んだ無力な親王だった。幼くして母を亡くしたその子を彼女が引き取ったのは善意だったのか何らかの計算だったのか判らない。引き取ったその頃はまだ実子を期待できる年齢であったからだ。

 熾烈な権力闘争に勝ち抜いた一族は彼女を中宮の位につけた。だが、子は生まれなかった。素腹(すばら)の后、人々はそう囁いた。そしてその力を奪うために暗躍し始めた。


 北家の名こそ同じくするが別系の流れの者たちの女御のもとへ男御子が生まれた。公卿も殿上人もそちらに集まり一族は顧みられない。勝敗の結果はついたように見えた。だが中宮の父とその兄は辣腕をふるった。

 様々な陰謀。駆け引き。袖の下。裏切り。不利な状況をかいくぐって、一族は養い子を東宮(とうぐう)となし帝につけることに成功した。

 帝は素直に感謝した。その謝意を表すために彼女を女院の位につけた。そして実の母以上の敬意を捧げる。彼女は再び力を得た。


 現在の東宮は負けた別系のその男御子だ。完全に息の根を止めるには到らなかったのだ。本来なら領子はそこに入内するのがもっとも適切であったのかもしれない。が、過去の確執がこの一族の(すえ)を許さなかった。かてて加えてこの東宮は大層蒲柳の質で、その生存は危ぶまれている。


 領子は少しうつむいた。なんにしろ女院は精一杯なすべき義務を果たしている。自分とは大違いだと思う。この方のほうが正しいのだろうとも思う。が、その生き方に自分は全然向いていない。身の回りの女房さえ押さえることの出来ない女が魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)する内裏での闘いをこなせるとは思えなかった。

 傍らの侍従が膝をつねった。慌てて、視線を女院に戻す。紅で彩られたその口が数々の生餌を喰らってきた女怪のものに見えて、ほんのわずかに身をすくめた。



 奇妙なことだ。牛車の輪の中心にある(こしき)が緩み、外れている。牛飼い童は車宿りの中を探したが見当たらなかった。通ってきた道をたどって探しているうちに帰りの車の求められる時となった。


「着いたときには確かにあったのですが」


 首を傾げる牛飼い童に取次ぎの女房は顔をしかめた。壊れたものは姫君の乗っていた八葉の車である。もう一台の女房たちの車は無事である。


「仕方がない、姫をこちらに乗せ残りの者は徒歩で戻ろう」


 足弱の女房たちが抗議する。寺社詣での際でさえ可能な限り車を使いたがる彼女たちだ。用意もなく歩くことなぞ受け入れるわけがない。しかし日は暮れかけている。季節は秋の終わりだ。陽は釣瓶(つるべ)落としのように落ちていく。彼女たちをここに置いて戻ることもやりにくい。


「お困りのようですね」


 菊の(かさね)の衣装をまとった女院の女房が現れた。


「様子を窺って女院様にお伝えしたところ、こちらの車をお使いください、とのことです」

と、見事な檳榔毛(びろうげ)の車(平安高級車)が示される。「私もお供いたします」とその女房は告げた。


 しばしの思案の後、侍従は受けることを承知した。丁寧に礼を述べ、その車に領子を乗せる。自分もその後に続こうとして、先の女房がそれを止めた。

「女院様から、お尋ねすべきことなどを伺っております。多少聞きにくいことなどもありますので、すみませんがこのたびはお譲りいただけませんか」と語る。侍従は多少戸惑ったが、女院に逆らうことなど考えられない。不出来な姫君であることはすでにばれている。隠す必要もない。


「よろしくお願いいたします」


 頭を下げると相手の女房がうっすらと笑い、自分も礼を示すと領子の後ろに乗った。

 そこへ軽やかな衣擦れの音が響く。

 廊の際に凄艶な美貌の女がにじり寄った。孫廂に控えていた新参の女房だ。驚く先の女房に声をかける。


「やはりお付きの者が一人では心もとないので、私も添うようにと女院様の仰せです」


 そのままするり、とその牛車に同乗した。

 警護の従者が四人ほど車の傍らに並ぶ。ゆるゆると牛車は院を出た。



 女房たちの車を先に行かせ、堀川小路を下って行く。三条大路に移ったあたりで騒ぎがあった。いく人もの下人が大声を立てながら駆けてくる。

「何事か」警護の従者が下人の一人に尋ねる。

「おお、これは大納言様に仕える方々。一大事ですっ、(うじ)の印を盗んだ賊がこちらの方にっ」

「あちらじゃっ、いるぞ!」

「お手伝い願いたい!すぐに!」


 警護の者は躊躇(ちゅうちょ)した。が、氏の印は朱器大盤などとともに藤原の一族にとって神器とも言える宝物である。侍従に伺いを立てると「すでに邸は近い。供の役目の者もいるので、つわものを一名だけ残して行くように」と告げられた。すぐに男たちが走り出す。

 女院の車の牛飼い童が、前の車に伝言を述べるために傍に寄る。


「このままでは不安なので、ぜひ先にお戻りになり警護の者をよこして下さい」


 侍従はしばし考えた。が、急がせればさして時間はかからぬと判断した。二台の車が従者も少なく進む方が盗賊たちを誘うだろうと思い承諾した。


「すぐに戻ります。これ、全力でお守りするように」


 控えた従者は頭を下げた。筋骨隆々とした武士である。しばし車を預けることに危惧の念は感じなかった。

 常よりも速く牛車が走る。檳榔毛の車は深まる夕闇の中、もう一台を見送った。



 菊襲(きくがさね)の衣装の女は、領子に親しげに話しかける。気を配って如才ない口調だが、彼女はなぜか馴染めなかった。


――――心の底で、別のこと思っているみたい


 そのことには慣れていた。内心の軽侮を閉じ込めて表面だけ丁寧に対応する女房。その表情は飽きるほど見た。直接蔑みをぶつけられるよりよほどましだと思っている。が、この女房はそれとは違う毒々しい色を持っているような気がした。


 後から加わった女房はほとんど口を開かない。薄闇の中浮き立つように美しい顔を晒し、同輩の言葉にもあまり答えない。

 急な騒ぎで車が止まったときも、眉を微かにひそめただけで不安な様を見せなかった。


「警備の者が増えるまで気をしっかりお持ちください」


 先の女の励ましの言葉になぜだが領子は違和感を持つ。見慣れた女房たちの車は消えた。途端に幾人もの男たちが現れ、車を取り囲んだ。

「まあ、なんてことなの!」菊襲の女は叫んで見せるが不審の念は消えない。恐怖を感じながらも、見測るような視線をその女にあてる。女は少し、怯んだ色を見せた。


 車の外の喧騒はすぐに止んだ。硬い棒で殴られるような音がいくつか響く。直後、地に倒れる人の鈍い音と振動が伝わってきた。

 牛車は再び動き出す。ここで抵抗したところで通りそうもない。一応、悲鳴の一つもあげてみるべきか、と考えた領子が大きく息を吸い込んだ。そのとき何故だが首の後ろに衝撃を感じた。


 意識が急に薄くなる。状況の一つも掴めぬまま、領子は牛車の床に突っ伏した。




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