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血染めの小袿

人死に注意

 表面上、夜烏(よがらす)明烏(あけがらす)の不和はすぐにおさまった。弟は今まで以上に仕え、兄は態度を変えなかった。だが埋み火は消えず、人目がない時は互いに反目をあらわにした。


 明烏が女の扱いに眉をひそめると、兄はこれ見よがしにひどくした。さすがに域を超えたのはあの雨の夜だけだが、罵声や叱責は外に漏れるほど響いた。


 弥生は愚痴を言わない。逆らわない。急ぎの縫い物を命じたくせに針を動かし始めると急にやめさせ、ずっと肩をもませたりする。指先に力が入らなくなってからやっと罵倒しながら終わらせた。

 明烏は聞き耳を立てている。注意深くうかがうと日常の様子がかなりわかる。夜烏は彼女に優しい声をかけたことがなかった。


 そんな状態に気づいたのかある日暮れ時、夕月がひとりで現れた。明烏は仕事に出かけようとして気づき、わずかに片手を動かすと、相手も微かに会釈した。


 明烏はほっとした。少しでも弥生がくつろげればいいと思った。

 彼女は三日月と違って中に招じ入れられたようだ。

 それがいけなかったのかもしれない。明け方戻って眠り込んだ後、朝のうちから夜烏の怒鳴り声が響いた。


 何ごとだろうと外に出ると、弥生も出てきて井戸端に行った。近寄ると目元は赤く、衣は土で汚れている。明烏に気づくとさっと目を伏せた。


「......殴られたのか」


 女は激しく首を横に振った。


「違うわ......私が土間に落ちただけ」


 血の滲んでいる箇所もあるようだ。思わず明烏が一歩前に出ると、弥生はびくっと体を震わせて一歩下がった。もう一歩前に出ようとすると低い声が飛んだ。


「......離れろ」


 いつの間にか夜烏が出てきている。明烏をにらみつけながら女に近寄り、まだ寒さの残る時分だというのに井戸からくみ上げた水をざばざばと女にかけた。


 弥生は声を上げることもなく震えている。夜烏は「さっさと家に行け」とその肩を強く押し、明烏に向けてはちっと舌打ちをしただけですぐに女の後を追った。

 明烏は何かを決めたまなざしをその背に向けた。



 話したいから帰りにこちらの家に来い、と明烏が囁いた。検非違使(けびいし)をからかって他を追わせた隙に少々派手な邸を襲ったその後だ。


 鮮やかな手口で、縛り上げた者以外は目覚めてさえいない。塗籠(ぬりごめ)(壁に囲まれた閉鎖的な部屋)からごっそりお宝をいただいた。


 夜烏はむっとした顔でうなずき、そこを出ると宝を分けるために大胆にも主人が国司となって下向した邸の一つに入り込んだ。留守居をする下人には多少の銭をやっているため不干渉だ。


 手柄に応じて分け前を格組の頭に渡すと、明烏がいない。慌てて彼を補佐する男に尋ねると「腹具合が悪いと先に帰りましたよ」と告げられた。


 全てを放置して帰りたかった。が、大頭としての見栄が引き止める。ぐっと息を呑み込み、軽口を叩きながらお宝を分け、終わると同時に席を立った。


「いい酒呑ませるとこ見つけたっすよ。叩き起こせば夜中でもつきあってくれますぜ」

「また今度な。今夜は早目に帰りてえわ」


 冷やかす手下を適当にあしらい、馬を使って小家に戻った。つなぐことさえせずに飛び降りると足早に隣の戸を開き、暗い中に踏み込んだ。


 灯り一つ点っていない。だがかぎ慣れたにおいがする。血のにおいだ。

 油断なく暗い中を探っていくと、板間に人の形が横たわる。それは衣に覆われている。未だ暗くて見えないが慌てて近寄り、中腰になって手をあてた。その瞬間にそれが何かわかった。弥生にやった紅染めの小袿(こうちき)だ。


 真っ青になって衣をはいだ。その途端、背後から刺された。


 振り返らず目を落とすと髪が白い。弥生ではない。だが怒りが込み上げ、相手を殴ろうとするが腕が上がらない。

 口元から赤い血が滴る。


「......てめえ」


 明烏は黙って太刀を抜いた。

 夜烏はうずくまるように倒れた。

 明烏は冷たい目をあてると太刀を静かに鞘に納め、片手に持ったまま小家を出た。


 隣の家も灯りはついていない。だが弥生は眠っていなかった。突然きしみ始めた戸を見て、夜烏かと立ち上がり土間の方に下りた。


 戸口の影が中に入った。弥生は輪郭だけで明烏だとわかった。


「婆さまの調子は? 小袿はなおるまで使っていいわよ」

「弥生!」


 男は女をかき抱いた。香とは違う甘い匂い。

 やわらかで温かな体が腕の中にある。

 自分の鼓動と同じ速さで彼女の胸が音をたてている。


「いっしょに、逃げてくれ」

「どうしたの? なぜ」

「夜烏を殺った」


 すっと女は血の気をなくした。薄い唇がしばらく震え、やがて言葉を吐き出した。


「すぐに私を置いて逃げて!」

「だめだ......おまえを連れて行く」

「女連れで逃げ切れるわけないでしょ!」


 悲鳴のような声が漏れ、女は男から離れて顔を伏せた。栗色の髪が揺れている。


「おまえと逃げなきゃ意味がない」


 雷に打たれたかのように顔を上げ目を見開いた弥生は、ほんの一瞬明烏に視線を絡ますと、すぐにまた目を伏せた。

 明烏は壊れやすいもののように女の髪に触れ、まだなおりきってないはずの体に触れた。。


「あんなひどい男のことなど忘れろ」

「それほど......ひどくはなかったわ」

「そのケガもあいつのせいだろう」


 苦いものを呑み下すような顔で女は首を横に振った。


「これは、自分で落ちたの」

「夜烏は残酷な男だ。おまえをここまで傷つける」

「あの人は......突きとばすことはあるけれど、いつも板間の方よ。ケガをさせようとはしなかったわ」


 闇のそこに生まれたばかりの獣が、荒い息を吐きながらうずくまっている。

 それはぬめった嫌な目をしている。


「あんたは逃げて。婆さまは私が見るから」

「ばあさんは死んだ......いや、殺した」


 麻痺したような感情のまま告げると、女は崩れ落ちるように倒れかけた。支えると身を震わせ、手を突っぱねるようにして男から離れた。


「知らなかったのね」

「なんのことだ」

「あの婆さまはあんたたちの親よ」


 がん、と殴られたような衝撃が走る。上の立場に這い上がった時に夜烏がどこからか拾って来た年寄りで、一通りのことはできたので世話をさせた。

 自分は何の情も持たなかったが、夜烏は時たま暴力を振るった。年寄りが脅えるのは嫌だし、寝込まれるのも困るので、いつもかばってやった。


「......あいつが話したのか」

「まさか。でもすぐわかったわ。顔立ちもどこか似てるし、あの人のあたりも妙だし。他の年寄りには荒い言葉かけないのよ」


 獣が女を見ている。低い唸りをたてながら。


「あんたたちは捨て子だって聞いたわ。じゃあ夜烏が探して来たのね。優しいのよ、あの人は」


 獣が高く飛び女の喉に喰らいついた。

 血のにおい。甘い血のにおい。

 ゆっくりと女が倒れる。無感動な目がそれを見ている。

 誰だそれは。いや、俺だ。


「弥生っ!」


 手に握っていたものを放り、慌ててかき抱く。血刀は離れた所に落ちた。

 腹を刺された女は苦しげに、だがいとおしそうに明烏を見ている。


「......逃げてよ」

「嫌だ!」

「バカね、あんたは......最初から私は死ぬためにここに置かれたのよ」

「なぜだ......夕月かっ!!」


 昨日見かけたあの女が脳裏に大きく映し出される。

 弥生は否定しなかった。時期も理由も知らされず「あんたはここで死ぬことになるの」と告げられていた。


「わからなかったわ。考えたって仕方ないし、考えたくもなかったし。......でも、......こういうことだったのね......」


 最初から、予定された道を歩いただけだったのか。俺かあいつが必ずこの女を殺すと、あの鬼は予想していたのか。


「逃げればよかっただろっ」

「............」


 監視は緩かった。時たま三日月が尋ねて来るだけだ。なのに弥生は逃げなかった。


「だって、しょうがないじゃない」


 死にかけの女は笑い、その手を伸ばした。


「......好きよ、明烏。もうずっと............」


 女はどこまでも残酷だ。もずがあわれな贄を木の枝に刺すように男の心の臓をぐさりと刺し、そのままそこにさらし続ける。

 血の流れが止まらない。女の腹からも男の心からも。


「......逃げて。私のこと一度だけ思い出して。それだけでいい............」


 思いを吐き出してほっとしたのか、手を取り抱きしめたことに安心したのか、弥生はそれ以上語れなくなった。


 どれだけの時間抱きしめていたのか。

 ふいに戸が開いた。千虎の大きな体がそこをかいくぐってくる。


「......おまえが、やったのか」


 腕の中の女はすでにこと切れている。明烏はうなずいた。


「ああ」

「......聞いたわ」


 巨漢の後ろから夕月の声が響いた。憎しみで全身が震えそうだ。


「夜烏側は約定を破棄するのね」

「夜烏は死んだ。俺が殺した」


 千虎が息を呑む。明烏はニヤリと笑った。

 夕月が千虎の背から奥に踏み込む。

 途端に明烏が女を投げた。

 さしもの夕月も弥生を受け止める。


 壁の一部がくるりと回った。

 明烏の姿が消えた。


「逃げたぞ! 追えっ」

「隣も調べろ!」


 抜け目のない夜烏の小家だ。いきなり襲われた時の備えはある。逃げ道もいくつか用意してあった。

『明けにはこっそり教えとくわ』

 いい、と断る弟に、兄は詳しく経路を告げていた。

『万が一俺がやられたら、そん時ゃおまえだけでもどうにか逃げろや』

 こんな皮肉な形で使うことになると、その時は思いもしなかった。


————俺は生きる。生きて約束を必ず守る


 決意をみなぎらせて明烏は走った。

 細い月が男の影を頼りなく伸ばしていた。


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