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真昼の足音

 ある夜、阿蘇の少史(さかん)は幽霊を見た。妻子が寝た後、なんだか気配を感じて簀子(すのこ)に立った時のことだ。

 妻が親から受け継いだ邸だが小じんまりとしていて池はない。ごくささやかな築山(つきやま)に柳の木が植えてあったがその下に、もうこの世にいないはずの男の影が見えた。


「......兄上」


 驚いてその場に座り込んだ。目を背けてしまったが、思い切ってもう一度木の下を見た。が、何もいなかった。

 兄には恨まれる理由があった。そして反論する意思もある。


 彼らの父は肥後の国司だった。その地の豪族の娘と通じ子が生まれた。父は都へ妻を連れ帰った。夫婦仲はよかったが父が亡くなった後母は故郷に帰った。


 残された兄は少史の役についていたが、それなりに重宝されていた。学問においては彼は天才で、大学にいた時代もその才は瞠目されたが、その分他者との関わりに問題があった。貧相な見た目も災いした。だが彼をかっている学者の娘と婚姻し、子にも恵まれた。


 その彼が旅に出ようとした時弟は止めた。大した財もなくお役目でもないのにかき集めて危険に身を投じるのは阿呆としか思えなかったからだ。


「どうしても読みたい書物なのですよ。持ち出すことは許されなかったけれど見るだけならと言われたのです」

「官人がかってに都を離れることは禁じられている」

晨昏暇(しんこんのか)という制度がありましてね、最近あまり使われていませんが遠くにいる父母に会うためのものです。それを使います」

「目的は違うじゃないか。罰があたるぞ。それにその間の仕事はどうする」

「許可が出たので代行はお前に頼みます。その間ぐらいは勤められるでしょう」


 彼らの学識の差は大きかった。兄は天才で弟は凡人。彼の持つ見た目のよさや人あたりのよさでも埋められない差だった。


「義姉上はどうする気だ!」

「......それもおまえに頼みましょう」


 黄泉(よみ)の底を覗くような暗い瞳が弟を見た。彼は答えることができなかった。

 その後兄の乗っていた舟は海賊に遭い、彼は帰ってこなかった。


 正しく言えば弟は兄の妻を思ってはいたが目を盗んで会っていたわけではなかった。更に言えば、帰りはせずとも海賊からの使いは来た。「金を出せ」の言葉に切れた。妻子が暮らしに困るほど一切合切売り飛ばして資金に代えていながら、何を今更ずうずうしい。一昨日来いとばかりの勢いで断ると、そのまま彼は義姉の元へ行った。


 職の件もどうにかつないだ。もともと同輩を歯牙にもかけず圧倒的な学才で一線を引いていた兄だ。好かれているわけもない。上手く回りに取り入り、上には頭を下げ、更に内裏(だいり)で力と情報を持つ女たちの機嫌をとった。成果は上がり、次の年に正式に少史に任命された。


 阿蘇の少史は誰もいない柳の下をにらんだ。文句があるのなら直接いいに来い。壊れてもいないものを壊れたと疑い、かってに捨てていった男なぞ恐くもない。化けて出るならさっさと来い。

 体が冷えるまでそこをにらみつけ、馬鹿らしくなって御簾(みす)をくぐって妻子のもとへ戻っていった。



 朝のうちに弥生の様子を見に行こうとした三日月は、出がけに姉に尋ねられた。


「どこに行くの」

「弥生のとこ」


 こまめに尋ねるように言われている。まさか文句はなかろうと見返すと「私が行くからいいわ」と応えられた。不満はあるが仕方がない。土産にしようとしていた唐菓子を彼女に渡した。


 今朝は珍しくまだ学者も起きていない。夜仕事を終えた海賊たちも高いびきだ。あきらめて手習いでもしようかと自分の場所に戻った。

 夕月はすぐに出る様子はなかった。仕える女院は帝の代参で出かけているためか、そこに戻る様子はない。菓子を持ったまま何かしばらく考えている風だった。即断即決の彼女にしては珍しい。三日月はほんの少しの間目をやったが、にらまれる前に自室に戻った。



 仕事のとき以外、夜烏(よがらす)は弥生を手放さなくなった。特に明烏(あけがらす)の姿が見えない時はそれが顕著だ。

 明烏は兄に対して不機嫌な顔を隠さなかった。それは人前でも変わらなかったため、手下の一部は彼に対して反感を示しだした。が、夜烏は気にもとめない顔で「うちの弟が今頃兄離れしやがる。兄ちゃん寂しい」などとひょうげた口調で誰彼かまわず愚痴り、冗談として扱った。

 どちらも女の件は知られたくなかった。それでも人前で取りつくろえる夜烏と違って、その点では明烏は不器用だった。人にとがめられても不機嫌な様を抑えられなかった。


 そんな折りに千虎に呼び止められた。新参の一人とはいえ彼とは仕事で組むことも多く、相性はそう悪くない。目線の動きにうなずいて他者のいない木陰へ移る。大柄な男は顔をしかめて「どういうことだ」と尋ねた。


「どうって」

「とぼけんな。わかってんだろ。最近のおまえはなってねえ。兄だからって大頭に甘えるようじゃ、手柄をほしがる新参がきかねえぞ」


 もともとはいっぱしの頭を張っていた千虎は事態を軽く見てはいなかった。


「......ほっておけ」

「できっか。まだうちは一枚板じゃねえんだぞ。今まで好き勝手やらかしてた連中はよそと較べられていらついている。かといって夜烏にはかなわねえし、あいつを認めてもいる。そのはけ口におまえなんか格好の的だぞ。隙を見せんな」


 苦虫をかみつぶした声で言うと一睨みし、すぐに明烏に背を向けた。

 やはり人の上に立っていた男は違うな、と思いつつも素直に従えない。そういうあたりが器量の差のようで体内にくすぶる火を煽られる。


 自分に千虎なみの度量があれば上に立てただろうか。

 明烏はそう自問する。技能的には問題はなかった。夜烏にはかなわぬとはいえ刀使いも相当のものだし、最近は弓も上達した。読み書きもこなすし今までは格下の扱いも下手ではなかった。


ーーーーあいつさえいなければ


 海賊たちの話は自分に来ただろうか。だとしたら弥生は自分に与えられた。

 明烏の底に暗い光が宿る。


————夜烏さえいなければ


 紅の小袿(こうちき)をまとった女が自分を見ている。優しくいとおしむようなまなざしで。

 女の手が自分に伸ばされる。誰にも何も請わない女がただ自分を求めている。


 それはあまりに甘美な幻だった。手に入れるために全てを捨てることができるほどに。


 明烏は歩き出す。間隔の開いた千虎に追いつくと柄にもなくぽん、と肩を叩いた。


「心配かけてすまない。吹っ切れた」


 振り返った千虎は驚いた。明烏はこの状態になる前でさえ見せたことのない笑顔を浮かべている。しかも妙にさわやかだ。


「......別に」

「いや。迷惑をかけた」


 非を認めて謝る姿は充分に男らしかった。


「わかりゃいい」


 そう応えてまた背を向けた千虎は、なんだか知れぬ不安を感じて眉間にわずかにしわを寄せた。

 日はまだ中天にある。人の影は短いが妙に黒く感じる。桜の木の横を通ったときその影さえ生々しく濡れたように見えて、彼は更にしわを深めた。


 音のない足音がついてくる。理由なくそれを引き離したくて、千虎は少し速度を速めた。



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