二人の姫君
県召の除目も終わり、お礼参りで急がしいがそれでも一区切りついた。娘である中宮の顔を見た可能性のある男たちは全て飛ばした。本人かその父かを遠方だろうと国司にしてやったわけだから存分に感謝してもらいたい。
そう思いつつ左大臣は廂でかしこまる男たちに鷹揚にうなずいた。おべんちゃらも聞き飽きたので帰宅をうながすために奥に入る。
これで娘も機嫌を直してくれるであろう。一人悦に入っていると使っている下人がひれ伏して、有名神社の下級の神職が訪れたことを伝えた。
承知して北孫廂の一室までわざわざ足を運ぶと、白張(糊を固くつけた白布の狩衣)に立烏帽子のその男がうやうやしくひざをつく。
なんやかやとあいさつしているが全て無視して本題を尋ねた。
「はっ。先日身分卑しからぬ女人が参拝に来たのですが、その様が並の者とは思えなかったので別室で湯など勧めたところ、かくいう者の娘だと名のりがありまして」
左大臣は驚いた。確かにそれは消えた召人(愛人)の名だ。更に聞くとその親の名も身分も合致する。語られた娘の容姿もその母に似ているようだ。
「そ、その娘はおるのかそこに!」
「いえ、さる貴人に勤めているので長居はできぬとお帰りになりました」
「貴人とは誰ぞ?」
「どうしてもお話しいただけませんでした。ですがまた、使いの者をよこすとおっしゃいました」
煮立った鍋から取り出されたばかりの濡れた細い絹の糸のような縁がわずかにつながる。この糸を切ってはならぬ。
「すぐだ! すぐに会いたい。連れてこさせろ!」
焦りすぎて声が裏返っていることに気づいて咳払いし、今度は低く「ずっと心配していた娘が無事で気がせいておる」と言い訳した。相手の男は親子の情愛に感動しているらしくうつむいたままだった。
牛車の輪が回るようにコトは進み、左大臣は娘と対面することになった。場所は彼の乳母子の従姉妹の乳母の妹の夫の姉の何かが右京に持つ邸である。
左大臣は考えた。もし実の娘をもう一人手に入れたことに気づかれたのなら、女院も内大臣も守りを固めるだろう。攻撃は速度だ。せっかく人気のない場所を用意したのだ。会うのと同時に領子を始末しようと考えた。
手段はすぐに思いついた。まずは女院を遠ざけた。帝のもとへ上がり、内大臣に女院さまに内緒で中宮のことを依頼したいと願ったところ、とある寺への代参を頼んでくれた。
次は内大臣だ。これも簡単だった。面会を申し込んだだけだ。途端に彼は急な物忌みに入った。かまわぬと押すと、陰陽師の指示だと言って南都(奈良)まで行ってしまった。
隙ができた。さすがに二人ともこの期に及んで彼が領子の命を狙うとは思っていない。にんまりと口の端をつり上げた。
もちろん領子は後見の二人が留守の間外出せぬよう厳しく申し渡されている。だが手はあった。左大臣は心のうちで娘に謝りつつ中宮の親書を模した文を彼女に届けさせた。
『内密の相談があります。今宵亥の刻(夜十時くらい)車を差し向けますので一人でおいで下さい』
領子は簡単に引っかかった。あまりに簡単すぎて自分の娘である中宮は大丈夫だろうかと心配になったほどである。
寝殿はなく西の対と東の対が向かい合う邸のそれぞれに二人の女を呼びつけた。領子は西に娘であるらしい女は東である。
死人となる姪の顔など見たくもないので左大臣はまっすぐ東に向かった。娘だという女はすでに訪れていて、母屋の真中に置かれた茵(平安座布団)の上に堂々と座っていた。
一目見ただけで本物とわかった。幼い頃の面影がある。不明となった女に似ている。何より自分自身にも似ている。
「おお、これは確かにわが娘」
よくぞ、よくぞ生き延びたと胸がいっぱいになる。これで駒が増えた。姪である領子はもういらない。一度下がって廂にいる手の者にうなずき、すぐにまた奥へとって返す。
「美しゅう育った。さぞや苦労をしたであろう。ささ、存分に語るがよい」
娘は少し首を傾けて微笑んだ。その母には見ることのなかった凄艶な笑みだ。
「......お会いしとうございましたわ」
「我もずっと忘れることがなかった。苦しゅうない、全て申せ」
何か勘のような者が自分の中で点滅したが理由がわからない。無理に打ち消して娘ににじり寄ろうとした時、西の方から騒ぎが聞こえてきた。
「何事ぞ」
訓練の行き届いた武士が瞬時に御簾をめくって左大臣を取り巻いた。ただし忍びで来たのと西の対に行かせたのでわずか三名だ。娘は驚きもせずに座っている。
「待て! 待つのだ!」
「つかまえろっ」
左大臣は歯がみした。いけ好かない姪っ子が逃げ出したらしい。そしてこちらに向かって来ている。
「けっこう動けるって聞いてただろうっ」
「だからって、壁走りする姫君なんてありかよっ!」
なんだか妙なことが聞こえたが捨て置く。どうせこちらにも武者がいる。すぐ捕まえるはずだ。
案の定逃げた領子はこちらの対に飛び込んで来た。すかさず武士が動こうとしたがその前に別の影が彼女を抱きとめていた。
「夕月っ!」
驚いた。娘は姪を両手で抱えている。これでは斬り殺すこともできぬ。そう考えた左大臣は猫なで声で娘に語りかけた。
「事情があるのだ。その子を離しなさい」
「私はこの方を存じております」
りんとした気を放つ涼やかな声が響く。しがみついた姪の顔は見えない。
「そうかもしれんが政に関わっておる。しばらくこちらに預けるように」
夕月は先程と違うやわらかな笑みを見せた。
「姫は脅えていらっしゃいます。落ち着くまで他の方々は下がらせていただけないでしょうか」
無理に離してまた騒ぎになるよりもその方がよいかと思い返し、武士三人を残して下がらせた。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「わけあって離れておったがこの姫こそがわが娘。こうして巡り会ったは神仏の導きであろう。お礼参りに人をやろう」
もったいつけた左大臣の返答を聞いたが本人は無視して領子は嬉しそうに夕月を見た。
「本当? じゃあ私たちいとこなのね」
「ええ」
そう答えた彼女はするりと立ち上がると几帳を唐突にかたりと倒した。何ごとか、と廂に控えていた武者たちが再び御簾をくぐる。一人は外に残っていたが「申したいことがありますのでみなさま中に」と言われて入って来た。
左大臣は顔をしかめた。
「ひな育ちで知らぬのかもしれぬが、高貴な姫君という者は下司などに顔など見せぬもの......?」
その日夕月は唐衣をつけてはいなかった。だが裳は長く引いていたし袿も色合いの美しいものを重ねていた。ただ袴は切袴で動きやすいものだった。これは領子も同様だ。それでも男と較べるとしとやかにせざるをえない装束だ。
だが、まるで不自由さを感じさせなかった。
衣から取り出された野太刀が瞬時に二人の命を奪った。もう一人の武者は叫ぶことより攻めることを選び、結果として声もたてずに切り捨てられた。
「だ、だ、だ......」
左大臣は人を呼びたかった。だが舌が絡んで声が出なかった。領子が叫ぶと思ったが、彼女は自分の口を押さえて目を見開いている。
「......本当にお会いしたかったわお父さま」
刃をかまえた夕月の口元が月のようにつり上がった。確かに美しい。だが人ではなく魔の者のように忌まわしい美だ。
「だけどこれでお別れね」
大きな獣を前にしたか弱き獣のように、身がすくんで動けない。左大臣は声も出せぬまま、自分の死を覚悟した。
が、いきなり突きとばされ間に誰かが立ちはだかった。
「どいて、領子」
静かな声がうながす。猛々しい武者さえも思わず従いそうな何かを持った声だ。だが可憐な姫君は一歩も引かず渡り合う。
「どかないわ」
「ゴミの命が惜しいの?」
「私、こいつ大っ嫌いよ」
吐き捨てるように言われて彼は少し傷つく。自業自得とは思わない。
領子は小さな拳を強く握り込んで夕月の方に身を乗り出している。
「だけど殺しちゃだめ」
「父親だから、とかくだらないこと言うの?」
「あなたが情に捕われるとこなんて見たくない」
強い瞳がまっすぐに向けられる。夕月も反らさずにそれを受ける。逆じゃないのか、と左大臣は脅えつつも思った。
「意趣返し? 復讐? 似合わないわよそんな並の人みたいなこと。あなたは私の綺麗な鬼。こんなゴミになんか関わってほしくないわ」
夕月の瞳に感情は浮かばない。恐いほど冷静に話を聞いている。それでもそのしなやかな手は野太刀を握って離さない。
「目の前のゴミは片づけたいわ」
「汚れるからだめよ。私だって我慢したもの」
こやつ、我を斬るつもりがあったのかと左大臣は更にぞっとしたが領子は意外な話を続けた。
「なんとかうちのお父さまを殺せないかと考えたけれど、それ自体が情だと思ってあきらめたわ」
ぎょっとして耳をそばだてると夕月も初耳だったらしく、ほんのわずかにと惑ったような色を出した。領子はそれ以上そのことは語らず刀を下ろすように勧めた。夕月はそれには従わずねめつけるような視線を向けた。
「......じゃまだから斬るのよ」
「私が抑えるわ。あなたのじゃまはさせない」
そう言うとふいに左大臣を見てにい、と笑った。
「おじ様、私あなたにはだいぶ迷惑かけられているのだけど、そろそろ立場を代えさせてもらうわ」
ーーーーなぜだ。ただの小娘なのになぜ我は声も出せず身一つ動かせぬのだ
左大臣は今まで以上に恐ろしくなった。本当にただの小娘か。武士さえも翻弄し、死体を見ても顔色も変えず刀の前でも動じない。何よりその目は弟......いや、生首さえつかみ上げるわが父と同じものではないか。
「......は、は、はい」
「じゃあそういうことでいいわね夕月」
彼女はふ、と口元を緩めて刀を収めた。
「いいわ」
だが目元の殺気は抜けていない。ちら、と左大臣に向けた視線は人のものではなかった。
「あなたが抑えきれなかった時は、わかっているわね」
「もちろん」
「その時を楽しみにしているわ」
気づくと夕月は消えていた。残された姪は肩を震わせている。三人の武者の死体はそのままだ。さすがに恐ろしくなったに違いない。柄にもなく同情心がわいた。
「苦労をかけたな」
領子は握りしめた小さな拳を振り上げた。何をするつもりだろうと人ごとのように見ていると、思いっきり顔の真ん中に振り下ろされた。
「な、な、なにを」
「自分の胸に聞いて見なさいよっ」
父に似た瞳でにらまれると条件反射で身がすくむ。可憐な手の小さな拳なのでケガをしたわけではないが、暴力など受けたこともなかったので打たれた犬のように脅えた。
「どうせ娘に心底恨まれるようなことしたんでしょ」
「そんなわけはないぞ。つい先日まで忘れていた」
「それが悪いんじゃない」
毛の逆立った子猫のような怒りを見せて姪っ子は「娘だけ?」と続けた。なんのことだろうと首を傾げると「息子もいるでしょ」と叱られた。そういえばいたなとうなずくとますます怒り狂った。
「あなた人として何か欠落してるわ」
「国の頂きに立つものとしては仕方のないことだ」
言い終えた途端もう一度殴られた。さすがに腹が立ってにらみ返す。
「小娘、あの女はもういない。あまりいい気にならぬことだ」
「私を始末して口をふさぐつもりでしょ。そしたらあなたはおしまいよ」
そこまでは考えていなかったがなるほどそれはいい手段だ。さっそく実行するため人を呼ぼうとしたが姪の口の方が早かった。
「きっと中宮さまが殺されるわ」
「ま、まさか。なんの罪もない実の姉に手をかけるわけがない」
「あの人は美しい鬼よ。しがらみなんかに縛られないわ。たった今あなただって殺されかけたじゃない。私が守らなければね!」
ぐっとつまって息を呑むと彼女は更に言いつのった。
「どんなに武士を集めても、あの人が本気になったら必ず殺すわ。おじ様はともかく中宮さまをそんな目にあわせたくない。だから素直に私に従えっ」
くわっと開かれた眼は逆らうことさえ考えられなかった父そのものだ。思わず頭を垂れて了承した。
「じゃあおじ様は当分宇治の別荘に行っていて。私が呼ぶまで帰ってこないでね。その前にここの片づけはちゃんとさせて。私はこれから帰るから安全に送り届けてね。たとえあなたの手の者じゃなくても、盗賊にでも害されたら問答無用で中宮さまが狙われるから気をつけて」
肝の太い姫君はひょいと立ち上がると左大臣もそうさせた。
「車のところまでいっしょに来て、ちゃんと私の目の前で命じなさい」
灯籠の灯された長い廊を領子はしずしずと歩んでいく。惚けたような左大臣を付き従えて。先刻までは彼女を殺そうと狙っていた手の者はうろたえたが、彼に叱責されて狐につままれたような顔で命に従った。




