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夜の雨

 山崎で絞られた油のほとんどは、牛馬に引かれた舟にのせられて川をさかのぼり都に入る。一部は山路を通って運びこまれる。近辺には兵の置かれた関もあるが、神人(じんにん)たちの協力さえあれば抜けることはたやすい。

 海賊の元へ集まった大量の油は分散され、大半は夜烏(よがらす)にゆだねられた。売れば高値になるがそれで稼ごうとはせず溜め込んでいる。


「枠取っといてやったからおまえのかかあ、当分淀か山崎に行かせろな」

「つきあいの長い客もいるんでなかなか離れたがらなくて」

「あっちを締めるために俺が頼んだと言っとけ。帰る頃にゃ仕事増えてるから」


 手下の家族を気づかいながらも決めたことはやめようとはしない。実行に至れば数多くの人死にが出るがそのあたりは気にかけない。仕方がないと思っている。


————ま、宝が山ほどあるおエラいさんより逃げやすいだろ。それでも死ぬやつは運が悪りィわ


 別に都に恨みはない。だが飢えて弟とさまよっていた時代に与えられたものはなかった。生き延びたのは自分の手腕だ。恩義を感じる筋合いではない。夜烏はそう思っている。なので別に悩みもせず、しっかりした足取りで自分の小家の近くまで来た時に見覚えのある顔に出会った。


「おい坊主、干物か!」


 破顔した夜烏とは逆に三日月は、いまいましげな顔を押し隠さずうなずいた。


「届けましたよ夜烏の旦那」

「そっか。ありがとよ、いっしょに食っていかねえか」


 首を横に振ってするりと抜けようとした三日月の腕を取った。

 夕暮れ時には多少間がある頃で薄い雲が空を覆っている。


「なんでえおまえ、いつもつきあい悪いよな」

「いろいろやるんで、あんたみたいに目立つ人といっしょにいたくないんです」

「地元じゃ地味よ、バレたかないし」


 日中は水干(すいかん)姿(庶民服)かどこかに勤めているかのような褐衣(かちえ)(黒に近い藍色の狩衣(かりぎぬ)風の衣。勤め人服(リーマンスーツ))ですごしている。印象的な短髪も(なえ)烏帽子(えぼし)の中になんとか収めている。


「それでもやっぱり違いますよ」

「そりゃおまえの方じゃねえの、御曹司(おんぞうし)


 ふいをつかれて三日月が子どもっぽく目を見開いた。夜烏はしてやったりとニヤニヤ笑いを浮かべた。

 すぐに三日月は気を取り直し、ぐい、と手を引くと道を少し戻ってとある小家の影に入った。夫婦者の家だが昼間は二人ともとある大家の下働きに行っている。よく調べてあると感心した。


「誰に聞いたんだよ」

「おまえの姉ちゃん」


 きへへと小さな声で得意げに笑いながら答えると少年はまなじりをつり上げた。


「なんでこんなヤツに話してんだよ」

「こんなヤツたあごあいさつだな。なんだおまえ、聞いてんじゃねえのか」

「弟だろうとあの女が全部を話すわけないでしょ」


 それもそうだな、と夜烏は思った。あの女はたちが悪ぃ。何が嘘で何がほんとか読ませない。


————けど、都を焼きたいってのは本気だな


 いつものすまし顔にわずかに浮かんだ陶酔の色だけは信じられる。まったく信用できない女だがあれだけは嘘じゃない。


「京を焼くってのは聞いてんだろ」

「言われてないけどあれだけ油届けばわかるよ」


 さすが探索組だと感心しつつ優位に立とうと顔にいやな笑いをたたえたままでいると、苛立った様子の三日月はとん、と足下の土を踏みしめてから夜烏をにらんだ。


「ちゃんと弥生を守ってよね」

「そりゃあ......あいつの命が約定だしな」


 真顔になって答えると少し安心したように目尻を下げた。海賊たちの中でもこいつらの仲はまた別らしい。かっさらわれた者同士の小さな家族なのだろう。


「わけわかんないよ。なんで弥生があんたらのとこ行かなきゃならないのか」


 ほっとしたついでに本音が出てしまったようで三日月が焦った顔をした。またニヤニヤ笑いに変えて「優しい方の姉ちゃんとられたようなもんだわな」というと、怒ったらしく耳まで赤くして「そんなことない」とさえぎった。


「まあ早いか遅いかだろ。遊びに来てもかまわねえぜ」

「あんたらほんとやなヤツらだね」


 吐き捨てるように言うと夜烏が眉を寄せて彼を見た。少年はそのまま毒づいた。


「たまに帰してくれりゃいいのにずっとこっちだし、どこにも行かせずあんなちっちゃい家の中だけなんてかわいそうだろ。海だとか松林だとかは言わないけど都にだって見るものあるじゃん。一度市に連れてってやっただけでそれ以来散歩さえさせてやらないじゃないか」


 怒っていたので相手が妙に無表情に見返していることに気づかない。更にまくしたててやろうとかまえると、夜烏が低い声で「おい」と言った。


「......市に行ったっておまえたちとか」

「連れ出しちゃいないよ。俺、家にさえ入ってないからね。いつも戸の所でちょっと話すだけだよ」


 空はいつしか陰鬱な色合いがまさり雲が低くたれ込めている。そのせいか小家の影はわずかに息苦しく、三日月にはこの気にくわない男が急に大きくなったように感じられた。


「......おまえらじゃねえんだな」

「だから違うって。あんたじゃなきゃ弟? 銭あるんだろ。コトを起こす前にもっと連れ出してやってよ」

「わかった」


 気圧されそうになるのを耐えて必死になった少年に男はへらりと笑う。なんとなく底の知れない笑みだ。


「気ィつけるわ。女の扱いは難しいな」

「弥生はちょっとしたことで喜ぶじゃないか。大事にしてよ。夕月好きになったヤツなんかもっと地獄だよ」

「違えねえ」


 今度はまた人好きする顔で笑われて、しかもそれが呼び止めた時とわずかに違って苦みの走る大人びた様子なのが少年には気にくわない。「本当に気をつかえよ!」と言いおいてさっさとその場を逃げ出した。

 だが夜烏はそのままそこに、薄い影が闇に溶けるまで立ち尽くしていた。



「え、いいわよ別に。ほしいものないから」


 いささか不思議そうに弥生は小首を傾げた。夜烏は苛立ったように、板間に座って縫い物の手を止めた彼女の前にいざり寄った。

 低めの切灯台(きりとうだい)の明かりがその器用な手を照らしている。火影を受けて淡い桜色に見える。肩に掛けた紅色の小袿(こうちき)の反映かもしれない。


「なわけないだろ。紅とか菓子とか手箱とか」

「いらないわ」

「香とかどうだ」

「扱い方知らないわ」

双六(すごろく)はどうだ。買ってやろう」

「そんな暇あったらもっと縫い物するわ」


 小家に戻ってだいぶたった。舌をかみそうになりながら明日市に連れて行ってやると言ったのに、弥生は不思議そうにしただけで断った。夜烏はうろたえて女の気を惹きそうな品をあげてみたが全く興味を示さなかった。


「あんたが何かほしいのなら私が一人で行ってきてもいいわ。忙しいんでしょ」


 優しい声に胸が激しい音をたて始めたがふいに気づくと鼓動が一瞬止まった。ちゃちな板天井を打つ降り始めた雨の音だけがうるさい。


「............道、知ってるのか」

「ええ」

「誰と行った」

明烏(あけがらす)と」


 悪びれずに答えた弥生はまた縫い物の手を動かし微笑んだ。


「さすが都の市は違うわね。人も店も多いし品物もたくさんあって......え?」


 夜烏は弥生の胸元をつかみ上げた。驚いた女はただ呆然と男を見上げる。地を這うような声が響いた。


「なぜだ。言え!」

「......針が二本も折れてしまって、婆さまの所へ借りにいったらちょうどいいのを持ってなくて、困ってたら連れてってくれたのよ」

「買いに行かせろ!」

「頼もうと思ったんだけど、どういうのがいいかあの人よくわからないらしくって」


 あの人という声が耳に入って心の蔵を突き刺し、もう、たまらなかった。腕に力を入れて無理に立たせると紅の小袿が床に落ちた。


「来い!」


 無理に組み敷かれることも気まぐれのように優しさを与えられることも女は慣れていた。そんなことではだめだ、この、何が罪なのかまるで理解していない女に厳しい罰を与えなければならない。煮え立った頭で男はそう考えた。


 きしむ板戸が凄まじい勢いで開かれた。桜にはまだ少し早い季節の夜だ。しかも雨が降っている。連れ出された女はすぐに濡れそぼり体を冷やす。


「......なんなの」

「うるせえ!」


 逆に夜烏の体は熱い。降り続ける雨を受けてさすがにじう、と音をたてるわけではないが白い気を全身から立ち昇らせている。

 胸元をつかまれたまま弥生は引きずられるように歩かされ、幾件かの小家が共同で使う井戸の前まで連れてこられた。そこはほんの申しわけ程度の四本の柱と板屋根で囲まれている。夜なので誰もいない。

 険悪な表情の男に驚いて寒ささえ感じていない様子の女を井戸にもたれかかるように押しつけて、そのまま握った箇所を大きく開いた。


「やめて!」

「黙れ」


 悲鳴が女の口から漏れた。板屋根を叩く雨の音にまぎれてさして響かなかったが、耳聡く聞きつけて自分の小家から飛び出てきた男がいる。


「おい、何をする気だ!」


 明烏の詰問(きつもん)に夜烏は動じない。女を押さえつけたまま振り向きもせず「ナニだわな」とひとこと答えた。

 驚愕のあまり一瞬黙った明烏は「よせ!」と兄の手を取ろうとしたが凄い勢いで振り払われた。


「......俺の女をどうしようがかってだ」

「だからってこんな所で! こいつは遊び女じゃないんだぞ。人に見られたらどうする気だ」

「だってさ。なあ、声出すなよ。出したら見られたいってことだよな」


 かまわず動き出す夜烏を明烏は殴ろうとしたが、少しの動きで軽くかわされた。すぐに飛びのけばよかったのに女を気にしてわずかに視線を流した途端、拳を返された。重い。

 吹っ飛んだ体を起こすと泥だらけだ。だがすぐに横なぐりの雨に洗われていく。


 平気で背をさらす夜烏に隙はなかった。小家にとって返して得物を手にしても同じだろう。どんな時でもこの男は甘くはない。


「逃げる気か? 見てけよ」


 肩を落としてその場を去ろうとすると鋭い声が飛んだ。夜烏は振り向いてはいないが気配を読んだらしい。その声に脅えたように弥生は身を震わせた。


 板屋根はかりそめの物で風雨は容赦なく吹き付けてくる。雨の中濡れそぼった女が白い燐光を放つように浮き上がって見えた。だがすぐに夜烏の背に隠される。投げ出された白い脚と顔だけが見える。


 見てはならないと思った。水を飲ませることさえ恥じた女が耐えられるとは思えなかった。

 だが女は泣き濡れた目をさまよわせ、明烏を捕らえるとすがるように見つめてきた。


 救えない。女一人救えない。

 絶望で負け犬のように尻尾を巻いた男に、女は視線を深く絡みつけた。


 栗色の髪が雨に打たれて額や頬に張りついている。自分の髪に似た赤味がわずかに見て取れる。

 そう思った瞬間、みなぎる物を感じて明烏は目線に力を込めた。


————そうだ。俺を見ろ


 吐息が耳元で聞こえる気がする。性急な動きの下の女はまるで魅入られたかのように明烏を見つめる。彼は一つうなずき、強い視線だけで抱きしめる。女はそれがわかったようだ。


 声もかわさない。膚の温もりも知らない。そもそも大人の男の背丈三つ分ほど離れた位置にいる。


————そいつじゃない。俺を見ろ!


 言葉にならない叫びをあげると女の瞳がわずかに緩んだ。わかっていると応えてくれるように見えた。

 ざあざあと雨は降り続ける。男たちと女一人を濡らして未だやまない。動かぬ男も動く男もどちらも白い湯気を立てていた。



 薄曇ったままで持ちそうだった空が泣き出して、狩衣どころか下に着た(ひとえ)までびっしょり濡らした三日月はぶつぶつ言いながら右京の海賊邸に戻ってきた。湯を使って体を拭き上げ乾いた衣に替えるとようやく人心地ついた。

 学者の隣が自分の場所だ。気を抜いているといきなり戸が開いた。夕月だ。


「声ぐらい掛けてよ」

「弥生はどうだったの」


 抗議には返事もしてくれない。いつものことだからあきらめて答えた。力関係が違いすぎる。


「変わりないよ。ああ、帰りに夜烏に会った」

「そう」

「相変わらずへらへらしてて気にくわない。暇あるなら弥生をどっか連れてってやればいいのに」

「言えばいいじゃない」

「言ったさ。まあそうしてくれるってさ。そのくらい自分で思いつきゃいいのに」


 ふ、と姉の口元が動く。珍しいなと思いながらも気がおさまらずに更に毒づく。


「弥生だったらどこ連れてっても喜ぶだろうに気が利かない」

「私やあんたにはそうよね。だけどあちらにはそうでもないでしょうよ」


 嬉しくなったが同時に少し心配にもなる。あの弥生なら遠慮しすぎるかもしれない。


「......弥生はいい子だからなあ。ちゃんとわかってるのかな、あの兄弟」


 珍しいことに姉は笑った。くくっ、と声までたてた。驚いてしげしげとその顔を眺めると、妖しく美しいが開き直った悪党の笑みに見えた。


「いい子ほど恐いものはないのよ」


 目を見据えてそう言うと、真意を問う前にさっさとそこを出て行った。

 残された三日月はなんだかわからないまま、体が急に冷えていくのを感じていた。

 その夜の雨はうるさいほど強く降り続けた。



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