花咲かぬ頃
左大臣は激怒していた。この自分を邪智暴虐の男としたあの娘を除かなければならぬと決意した。左大臣は政にたけている。彼は政治家なのである。人をあざむき偽りと遊んで暮らしてきた。けれども自分に向けられた悪意に対しては人一倍に敏感であった。
いやそれは悪意とは言えなかったが、彼は事実を無視してその心の選ぶ真実をとった。
————あの、いまいましい小娘めッ
可憐に見せかけた性悪女、入内前にすでに男をたぶらかしていいように操りおるわ。さすがあの腹黒弟の娘だけある、奸悪の極みだっ。
吐き捨てるように考え続けるが表面に心のうちは出ない。はた目には自邸の未だ咲かぬ桜の木を見つめる秀麗な面差しの貴人である。憂いを含んだ瞳がことのほか美しいと、通りかかった女房などが思わず見とれる。
————惑わされる小僧も小僧だっ。仮にも皇子に生まれていながら金にひかれたか色香に目がくらんだか、あの程度の女に迷いおって
貧乏親王にも怒りが向けられる。あの童は、こともあろうに尊く清らかな中宮の寝所に忍び込み、やくたいもない戯れ言を彼女の耳に吹き込んだ。後になって調べてぞっとした。帳台の下が切板(床の一部で開閉できる)になっていて危険な状況だった。もちろんすぐにふさがせたが。
中宮たる娘のことを考えると左大臣の目は憂いを通りこして涙目になってしまう。自分のことを素直に慕っていた可愛い娘が一切口をきいてくれない。更にその上、泣きながら女房に背負われて突入してきたあの夜のことを思い出すのだ。
いつもつつましやかなのにあの時は顔さえ隠していなかった。とっさに廻りの男たちに顔を伏せさせたが、中にはあの美貌を見て懸想の心が消せなくなった者もおるかもしれぬ。今年の県召の除目(人事異動)は遅くてまだなので、あの場にいた全員を遠国に飛ばしてやろうかと考えている。そうすればいまだに怒りをとかない娘の心も癒されるかもしれない。
ささやかな希望を見出して左大臣は少し気を取り直した。少々使いやすい程度の男たちと最愛の娘は比べものにならない。この男たちを遠ざけたら彼女もまた自分と話してくれるかもしれない。
左大臣は辛かった。ここしばらく、どんなに気をつかっても地方の珍しい産物を届けても見事に染められた絹を渡しても目さえ合わせてくれない。辛くて辛くてやつれそうだ。それというのもあの娘がいかんのだっ。左大臣の怒りはまた繰り返す。
弟である内大臣の娘領子姫は目下左大臣最大の敵である。汚しつくしてやりたいが、中宮にさんざん泣かれたのでどうもその手はとりにくい。かといって二月末に入内が決まったのにほっておくわけにもいかぬ。
————いっそ殺すか
盗賊の跋扈する時代である。ひどく運の悪い姫君がいたとしても別におかしくはない。だが、この姫を失うと次世代に継ぐ玉がない。してやったりと右大臣が笑うに違いない。
ぐぬぬ、と彼は妙な声をたてた。正妻はすでになく中宮の妹たちも亡くしてしまった。今思えば召人の娘も惜しかった。生きていればいかようにも使えたのにみすみす海賊らの獲物にしてしまった。
今娘さえあればどのような容姿であろうとも磨き立て、権謀術数の限りを尽くして東宮(皇太子)の元に入れる。右大臣側は必死に抵抗するだろうが、荒仕事をする下の者を失ったとの知らせが来ている。強引な手はとれまい。弟と違ってそのくらいの手腕はある。右大臣の娘が孕んでいるとの話だが、なに、無事に生まれるとは限るまい。
しかし残念なことに今自分には他に娘はいない。
左大臣は激怒した。いや本来なら虚無を味わうべき状況なのだが、左大臣は複雑な男であった。おのれ自身にもおのれの娘にも怒りは向けないが別の相手に罪を背負わすことは平気であった。だから彼は弟の娘をなんとか陥れようと策を練り始めたが、ほどなく配下の者が駆けて来て離れた場所にひざをついた。目を向けてうなずくとすぐに近寄り高欄の下の白砂に控えた。直答を許してやる。
「......託宣(お告げ)がありました」
「なんのだ」
「左府(左大臣)様の姫君が生きておられると」
目を見開きたいのを我慢してかえって細め、鼻先で嗤った。左大臣は神仏を信じぬ。民心を安定させるための方便だと思っている。だがなぜここでそのような話が持ち出されたかは気になった。
「話せ」
「はっ。とある下位の神職の者がそういった神託を受けたと報告に参りましたが、お耳に入れるほどではないと判断して戻しました。するとほどなくまったく別の社に仕える者が同じことを告げにきて、話を聞いている最中にまた別の者がやって来て同じ話を...」
左大臣は困惑した。しかしすぐに、右大臣か内大臣の仕掛けたいやがらせなのだろうと考えた。
「まあいい。でその娘はどこなのだ」
「そこまでは告げられておりません。ですが姫君はすでに京に戻られ、とある貴人に仕えておられると」
自分の口があんぐりと開いていることに気づいて慌てて閉じた。神にしろ人にしろあまりに唐突すぎる。都合はいいがうかつに信じることはできない。
それに貴人と言っても色々だ。自分や帝もそうだし世間からすれば大臣はみなそうであろう。諸氏王家の者を省いても帝の身内筋、たとえばあの生意気な五の宮でさえ貴人は貴人だ。
「どの貴人だ」
「わかりませぬ。また何か告げられたら来いと銭を渡して帰しました」
配下の者を動かして多少調べさせることにして下がらせた。狐につままれた気分だが、まあいい。そのうち仕掛けた者が行動を起こすに違いない。そう思いつつ左大臣は未だ咲かぬ桜の木に視線を戻した。
月のない夜は散歩に最適なのに新月の頃にはお誘いはなかった。夕月も忙しいのかもしれないが、自分の邸も落ち着かなかった。入内に向けてどの女房も縫い物に必死になっていて夜遅くまで明かりが漏れていた。
ところが最近また夜が静かだ。領子が理由を尋ねると日向が「油の価格が上がったんです」と実に単純な理由を説明してくれた。
「急に品薄になっちゃったんですよ。まさかお邸でススとかにおいのひどい魚油使うわけにもいかず、ぬいものも日中にやるか一箇所に集まってやるかになっちゃって」
「急になの」
「ええ。たとえば寒くなって炭の値段が上がるとか毎年ですけどこの時期に油の価格が上がるってのはあまり覚えがありませんねえ」
世情に疎い領子は日向に合わせてうなずいた。彼女が言うからにはそうなのだろう。油の元になる草木が不作とか、盗賊が多いので用心のために使いすぎたとか理由があるのかもしれない。
さすがに内大臣の姫である領子の部屋の油までは節約はしていないが、夜も更けてきたので手元の灯りを消した。いつものように廂に吊り灯籠の明かりが一つだけ揺れる。それを見ながら浅い眠りに落ちてしばらくすると、人の気配を感じて目が覚めた。
「......夕月?」
「行くわよ、領子」
慌てて日向を起こして彼女自分の御帳台に入れると、いつものように弓懸めいた革袋を手につけ、真綿を入れ込んだ温かな袿と指貫袴をつけ毛靴をはいた。
黒い水干の夕月が闇に溶けそうで不安になって早足で追うと、顔は前を見たまま手だけが領子のそれを捕らえた。
夕暮れに空にかかっていた細い月は今は見えない。右京に入るとすぐに夕月は位置を変えて領子に馬を駆らせ、自分は背後から彼女に腕を回した。触れられた部分が熱を帯びる。
明かりのほぼない小路をためらいなく西へと走っていく。夕月の指示は的確で、道の幅や長ささえ体に入っているようだった。彼女に従えば目を閉じていても目的の場所にたどり着けそうだ。
「上達したわね」
「ええ」
馬は素直に領子に従い望んだ速度で駆けていく。あっという間に海賊たちのねぐらについた。
————道で盗賊さんにあうことはないのね
神出鬼没の盗賊たちに検非違使も手を焼いているが、いつぞやの宴からすると海賊たちと完全な仲間であるとも思えない。それでもあの時焦った三日月の口から出た言葉からすると、ある程度の協力関係にあることは間違いない。
「よっ、姫さん久しぶり」
「すまん、今日は干物切れてますわ」
「夜烏の旦那食うからなあ...あわわ」
少し言葉を濁らせたのを小耳にはさんだが気にせず笑いかけ、小骨の多い雀の焼いたものを肴に酒を呑んだ。
海賊たちはみな領子に優しい。最初に出会った時の荒々しさはすっかり影を潜めて、みなわれ先に甘やかす。例の宴から更にその傾向が強い。
領子も居心地がいい。においだけは慣れないが、そのことは置いておいてみなと話すのが楽しい。
「だから、最近は和歌だってかなり覚えたのよ」
「お姫さん和歌より酒の方が得意だからなあ」
「そっちの方はあっしらが目を見張るばかりの才能ですがね」
ぷくんとふくれると「いいものやるから」と油で揚げた餅を出してくれた。『ふと』と呼ばれる唐菓子だ。美味しかったので喜んで食べたが疑問が沸いた。
————明かりの油だって高いらしいのに
もっとも彼らのなりわいを考えるとそのあたりは聞くことができない。少し考えて「こんな凝ったもの、誰が作るの?」と尋ねた。
すぐに一人が手をあげ「よその下仕えに作り方聞いたことあるっすよ」と答えた。
領子の日常の間食としても唐菓子はよく出される。「ありがとう、おいしいわ」と礼を言うとその海賊は照れたように笑った。
「姫さんを見てるとなごむよなあ」
「なんか懐かしいような気分になるよな」
ちょうど夕月が少し席を外していた時だったが、しみじみと言われて嬉しくなった。
「私もみんなが好きよ」と微笑むと、厳つい顔の男たちがいっせいににやけた。
その後は彼らの歌を聞いたり、手加減ありで廊を走る競争をしてみたり夜遊びを満喫した。帰り際にはすっかり体が温まっていて、一度脱いだ彼らの袿をまた着る必要を感じなかったほどだ。
また、右京の間だけ馬を駆る。ぴったりと身を付けた夕月が「楽しい?」と尋ねた。
「もちろん!」
「............」
彼女はそれには答えず、少し腕の力を強めた。
花咲く前の夜風は少し甘かった。




