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都の流行

 父が寝殿を去っても領子の凍てついた胸の氷は溶けなかった。近寄ってきた侍従(じじゅう)は自分を射抜きそうなその瞳に驚いて和歌の草子を落としそうになった。


「そこに置いて。後で見るわ」


 声を荒げてはいない。それなのに侍従の体は震えそうになる。

 目の前にいるのはあの不出来な二の姫なのだ。意味の分からぬ恐れは似つかわしくない。自分にそう言い聞かせるが唐国にいるという猛った虎の前にいる気がして身がすくむ。


 入内(じゅだい)を前にしてやっと気が入ったのか、最近は彼女にしては、あくまでも彼女にしては目覚ましく学を進ませ女院のすむ弘徽殿(こきでん)殿舎(でんしゃ)にも招かれた。事情は知らされていないが敵である左大臣の愛娘、藤壷中宮とも親交を結んだようである。説明を求めたが「必要ありません」とひとこと告げられただけだ。


 反抗的になったわけではない。普段は素直に侍従の言葉に従っている。乳母子(めのとご)日向(ひゅうが)とたわいもない話をして笑いあっている姿も見かける。

 それでも、この姫は絶対に譲らぬと決めたことはもう二度と女房ごときに左右されることはないだろう。


 里に下がった少将(しょうしょう)は亡くなった姫に心酔するあまり時がたっても二の姫を主として認めることができなかった。その態度はさすがに目に余るものがあり、時に忠告したが変わることはなかった。それも無理はない。目の前で最愛の主をくびり殺されたのだ。この姫に罪はなくとも彼女には受け入れることはできないだろう。すでに心を病んでいるのかもしれない。


 最後まで主人の足にすがりついて許しを乞うた自分でさえ夜ごとうなされるのだ。何もできずに手をこまねいてしまった少将がその罪から逃れることはないはずだ。

 その(とが)を領子に着せることは間違いだが、そうしなければ立つこともできないのかもしれない。それほど主人は恐ろしかった。憎むことさえためらわれる程に。


「他の者にまかせぬことをせめてもの慈悲と思え!」


 彼はそう叫んで自ら娘を手にかけた。すがった侍従は蹴り飛ばされて殿舎の外の白砂まで飛び、打ち所が悪く片足を損なった。そのことよりもあの悪鬼のような目の方がよほど心を(むしば)んだ。そして二の姫の瞳は気づいてみれば彼によく似ている。


 おろおろと揺れそうになる自分の体を必死に止める。

 怯えなど言い訳にはならない。力を身につけた二の姫が自分たちにその恨みをぶつけようとも、彼女を磨くための手だては最後まで尽くさねばならない。己の責務から逃げてはならない。不興を買って少将のように里に戻されるまでは仕事に励むべきだ。


 侍従はそう考え「いえ、今開いてください」と押した。

 領子はわずかに目を細め冷たく見返したが、すぐににっこりと笑って「そうね」と草子を手にした。その様は昔のままに愛らしい二の姫でしかなかった。



 夕餉(ゆうげ)(夕食)までの間を和歌と琴の修練に使った領子は、下げられた膳や(つぼね)に戻った侍従と入れかわるようにやって来た日向に笑顔を見せた。今宵(こよい)は彼女が宿直なのでいっしょにいられるし、日頃の努力が認められたのか夜は学習を強要されなくなった。


「あまり疲れきった顔で入内させるわけにはいかないからじゃないですか」

「毎晩寝なかったら延期になるかしら」

「無理ですよ。入内の儀式中に寝落ちして恥をかくだけです」


 他の女房たちを端近にやって彼女だけを寄せて声を抑えて笑いあう。正直予定の変え方は未だ思いつかないが、帝と中宮の親密さを知ったことが胸に希望の光をともした。日向も必死に考えてくれる。


「好きな方と共に逃げることぐらいしか思いつきませんでしたが、姫さまはお好きな方っていましたか」


 問われてまず夕月を考え、そんな意味ではないと慌てて面影を袖で消した。次に五の宮を思い出し、いくらなんでも童形の親王さまに恋はできないと否定した。それから必死に考えるが誰も思い浮かばない。


「あの、海賊さんたちの中に素敵な方はいないのですか」

「どの人もお父さまかおじさまだったらいい方だわ」

「盗賊さんには?」

「若い人いるけれど、さすがにちょっと恐いわ」


 小声で語り合っていると日向がほんの少し恥ずかしそうに尋ねた。


「あの、女の人と見まがう程きれいな人は?」


 そんな人がいただろうかと懸命に考えるが思い出せない。乳母子にバレたことは海賊たちにも話したが留守を守ってくれるので彼らに会ったことはない。せいぜい夕月を見かけたぐらいだと思う。

 首を傾げていると消え入りそうな声で「......三日月さん」と囁かれた。そう言えば夕月の代わりに迎えに来たことがある。


「え? (わらべ)よあの子。五の宮さまより年下」

「でも素敵です......ええっ」


 左大臣にさらわれたときの礼を彼女にさせたので、五の宮とはまた顔を会わせている。領子の言ったことを反すうしたらしく遅れて驚いた。


「五の宮さまって十を少し越えたばかりではないのですか」

「十五ですって。三日月は一つ下だったかしら」

「信じられません。あ、これは宮さまのことです。三日月さんは十四ですか。二つも下なんですね」


 ちょっと残念そうな日向に「年下彼氏もいいと思うわ」と言うと夜目にもわかる程赤くなり「そんなんじゃありません!」と応え、それから急に真顔になって「でしたら姫さまあの方はどうでしょう」と小さく尋ねた。領子は首を横に振った。


「お父さまから直接命じられたとしても考えられないわ」


 自分の感情など平気で後回しにする乳母子に優しい目を向けた。彼女は困ったようにうつむき、それでも彼のことを語りたかったらしく「声も夕月さんに似てますけどちゃんと男の人の声ですね」と呟いた。


「誘ってみたら?」

「いえ、とても無理......でもやっぱり仏さまに祈ってみます」


 全身赤いまま急に素直になった。つられて領子もわずかに心を弾ませ「朝になったら持仏堂(仏ハウス)に行ってらっしゃい」と告げた。日向はうなずいて「早朝なら空いてますね」と応えた。


「え、いつでも開いているでしょう」


 内大臣家の持仏堂は自邸の池の中島にあり、大雨や風の強い日以外は扉は閉じられてはいない。しかし日向は違います、と首を振った。


「姫さまはご存じないですね。実は最近高貴な方の邸の持仏堂を拝むことが流行っているんです」

「仕えている人が?」

「それもありますけれど邸に関係のない庶民も来ますよ。なんでも、仏さまは一切(いっさい)衆生(しゅじょう)を救ってくださるのだからできるだけたくさんの人に拝んでもらう方が仏像の格が上がって本当の仏さまに近づくんですって」

「初めて聞いたわ」

「言われ始めたのはわりと最近ですね。でももうあちこちに広まって昼間はけっこう人が来るんです。一応侍所(さむらいどころ)の人が見張ってますけど」

「お父さまは許しているの?」

「左大臣家だって右大臣家だって許してるのにダメだと言ったらケチ呼ばわりされて笑い者になりますよ」


 でも女院さまはそれでもかまわぬとおっしゃって不許可だそうです、と教えてくれた。あの方らしいと領子は思った。


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