夜明けの牛車
人気の少ない右京のはずれの邸の北に設けた局の一つで、ねずみに似た貧相な学者は優秀な弟子である女海賊に軽い調子で説明を始めた。夜は更けていて他の海賊たちは眠っている。高杯をひっくり返した上に銅でこしらえた皿をのせ、盗賊たちから分け与えられた油を入れて灯をともしている。
「都は意外に脆いので、要路をふさげば七日で庶民は飢え始めます。以前賑給という制度を説明しましたね」
「毎年五月雨《さみだれ》(梅雨)の頃に貧窮者に米などを配る行事ね」
「そうです。しかし本来の役割は、慶事の祝いや災害時に人々を救うことにあるのです。承和の変(842年の謀反事件。藤原良房の陰謀と推定される)の折りに都の要路がふさがれましたが七日後に賑給が行われ、民の一部が施しを受けました。流通を断てばこんなものですよ」
まだ夜気は凍りつくようだが火桶一つなく円座の上で学者は身を縮めている。だが夕月は寒さなど感じていないかのように平然としたまま尋ねた。
「その時みたいに封鎖するように持ちこめばいいの?」
「いえ、多少は増えたとはいえ対処するにはこちらの数がたりませんよ。海賊仲間を呼ぶこともできますがそうするとせっかく手を結んだ盗賊たちが気を悪くするでしょうし。それよりかはむしろ津(港)で力を持つ者をもっと取り込みたいですが、利にさとい難波津や山崎、淀、大津の人間はなみなかのことでは動かない。検非違使も廻ってきますしね」
米の運搬は陸路より水上輸送に頼る。中でもこれらの津は物資の集積地でもあり、公式な米価を左右するほどの力があった。
「盗賊たちで向いた者を多少商人として入れ込んだりしていますが新参者が動かせる程甘い世界じゃありませんから」
「それではどうするつもりなの、先生」
貧相な男は夕月に向けてにやりと口元を歪めた。人のよさそうな顔にふさわしくない暗い笑みだった。
「簡単なことです。京を燃やし尽くしてやればいいのです」
夕月は切れの長い目を学者にあてると「なるほどね」と呟いた。男は熱に浮かされるように視線を宙に向けすぐに彼女に戻した。
「通常ならそれでもすぐに鎮圧されますが、海はもうつながったも同然です。もともと海人は縦の支配を好まない傾向にありました。同質の一族に分かれた機能的な群れの集合体でいたいんです。だから国の下部組織として扱われることに潜在的な不満を抱いているのです。ただしその癖が災いして互いにつながろうともしなかった。食料輸送を担う大きな力でありながら、それを支配力として使おうとは考えなかった。もちろん島の位置や潮の流れを地図もなく経験と一族の情報交換のみで把握する人々だから、対等が一番性に合うのでしょうね。だからそれを保ちながら横につながるこの形は受け入れやすかったのでしょう」
もっとも広範囲に力を持つ海賊の首領である巌六でさえ、国を取り巻く全ての海を支配しているわけではない。他はそれぞれの頭領を持ち時には競合する。
「しかしそれができたのは圧倒的な畏怖と敬愛を集める巌六がいるからです。これは他のどの首領も代わることができません。それに彼は家族を持たない。いや実の息子だっているがただの手下にすぎませんからね。家族は海人みんな、いや海そのものであるとさえ言える彼は別格の存在です。巌六に代わることができたのは亡くなった彼だけでしょうが......残念です」
もう一人の愛弟子を思って学者はしばし黙祷した。
舟に乗っては船酔いで吐き戻し、縄一つまともに結べない男だったのに妙にみなから愛されていた。その上ああ見えて観察する目は確かで、切迫した状況で口にする指示は不思議な程適切だった。巌彦以外はみな次の首領として受け入れていた。
「死んだ人間など塵と同じよ」
「いえまさか。みな未だに懐かしがって話しますよ。自分じゃ泳げないくせに誰がどれだけ泳げるとか、速さと持久力どちらに長けていたとか全部知っていたな、とか色々と」
「無駄な話ね」
「そうでもありませんよ」
先程の狂気じみた熱が嘘だったかのように、貧相な男は穏やかな視線を彼女にあてた。
「意見の相違ね」
「そういうことにしておきましょう」
温かな微笑は父性を感じさせるものだった。そのことで思い出したのか夕月は学者に尋ねた。
「他はともかく娘はいいの。燃やし始めたら助ける暇はないわよ」
男はわずかに逡巡する様子だったが、傍らに置かれた板の上の土器を取って中の水を一息に飲み干し激しい音を立てて戻した。
「............かまいません」
「そう」
わずかに目を細めたがそれ以上は尋ねない。学者は急に寒気を感じたように貧相な狩衣の左右の脇をかき集めるように握りしめ、それきり黙り込んだ。
内裏近くの道はまだ明けきらぬ早朝こそ込み合うものだが右京側はさほどでもない。五月雨の頃になると泥濘で大変だが、一月末の今はまだ寒いだけで道は乾いている。それにおっとりと座っているとはいえ童形の親王が牛車に同乗しているためか息も白くはない。
「ではそちらの被害はさしてないのじゃな」
五の宮の言葉に阿蘇の少史うなずいた。
「ええ。山崎も淀もその他も盗賊の害が増えたとは聞きません。都の方が増える一方なので、検非違使もそちらは刀禰(現地を管理する地方有力者)にまかせて当分津めぐりは中止だそうです」
「それがよかろう。租税の差し押さえだの供御物(高貴な方のご飯系)の召し上げだの仕事は山積みじゃ。おまけにこう連日連夜盗人を追いかけておればヘトヘトじゃろ」
納得した様子の無品親王に少史は感心したように目を向けた。見た目の幼さに不似合いな賢さはとうに承知だが、官吏の職能まで把握しているとは思っていなかった。だがさすがに世慣れた年頃の男と違って体験的な違和感には気づいていないらしい。都に盗賊が多い時期に津にほとんど出ないのは妙なのだが、そのことは言わずに目立つ話だけを続けた。
「まあ苦労は尽きないでしょうね。なにせ盗人たちは妙に統率された動きでなかなか捕まらないし、ようやっと捕らえた下っ端も何も吐かない。放免(犯罪者の再利用)にしてやるとつろうとしても引っかからないし、日にちをかけてようやくなびきそうになった者もいつの間にか殺されていたんですよ。もちろん犯人はわからずじまいです」
昨年から治安は悪化する一方だ。しかしその頃はまるで競い合うような動きだったが、昨今は少史の言うように統率された動きに見える。五の宮しばし考え込んだ。
————領子姫の友達の海賊は盗賊と手を結んでいた。が、荒野で大量に死んでいたとされる男たちも賊だったらしい。忌みごとを気にせず死者の顔を見に行くべきだったか
口の端をかんで黙り込んでしまった少年を見て少史は穏やかに微笑んだ。それに気づいた五の宮が「なんじゃ」と尋ねると、更に目を細めた。
「あなたより年下の娘がいるのですが、見ていたら思い出してしまって」
「まろに似ておるのか。なら相当に愛らしいのじゃな」
「口をおききになると皆目似ておりません」
顔立ちが似ているわけでもなく、いとけなさが思い出させたとはさすがに言えない。
「あー、世話になっておるが、そなたの娘の元へ通うつもりはないぞ。思う方がおるのでな」
「あたりまえですよ。娘には幸せになってもらいたいのです。もっと金と権力のある男を狙いますよ」
「言いおるわ」
まんざら不愉快そうでもなく五の宮が口元を緩めた。少史もニヤリと笑い、それきり黙って牛車の揺れに身を預けた。鶏の声が響く。夜は明けつつあり、すでに内裏は目の前だった。