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和歌嫌いの姫君

 磨き抜かれた鏡の前で領子(りょうこ)は困惑していた。映る姿は自分自身である。けして派手な美貌ではないがそこそこに感じはいいと自負している。

 惜しむらくは髪の長さだ。さすがに背の半ばは越えているが同じ年頃の姫君としては珍しいほどに短い。量は十分にあり癖のない美しい髪だが、下の身分の女房よりも心許ない長さだ。

 しかしそれもあきらめる。年を重ねればもう少しは延びるだろうし、そのことをそしられることはそれほど辛くない。

 ため息をつきかけて慌てて辺りを見渡す。運よく仏事の後始末に忙しく、女房たちは身近にはいなかった。

 あきらめて文机に戻り、古歌を読み始める。さして進まぬうちに眠気が走り、ついまどろみかけると冷たい声が響いた。


「お休みになられるとはよほど身に付けることができたのでしょうね」


 飛び上がりかけて声の主を振り向くと、乳母子(めのとご)日向(ひゅうが)だ。からかうように笑いかける。落ち着けば、鼻のいい彼女は匂いでわかることだった。肩を落としてそれに答える。


「脅かさないでよ。声色が上手すぎるわ。それでなくても気が休まらないのに」

「でも真面目な話し少しは進みました? 無理です、じゃすまないのでしょう」

「それで困っているのよ………無理。絶対に私じゃ無理!」


 領子は拳を握り締めた。人には不可能なことがあると彼女は思う。日向は声を潜めて尋ねた。


「で、どの程度覚えました」


 領子は泣きそうな顔でそれに答える。


「とにかく一気には無理だから、三つずつ覚えることにしたの」

「はあ。それくらいなら姫さまでもどうにかなるでしょう」

「と、思ったのだけど三つ覚えると必ず一つ忘れるの」

「そりゃいけませんねぇ」

「でも仕方がないからとにかく必死に覚えたの。だけど十覚えると七つ忘れてるの」

「最初より酷くありませんか」

「そうなの。負けるものか、と歯を食いしばってもっとがんばったのだけれど、全部目を通したのにやっと二十くらいしか覚えていないのよ」


 日向は呆れて領子を見つめた。


侍従(じじゅう)がさぞや怒るでしょうねぇ…...あわわ、泣いちゃだめですよ。琴はどうですか? 筝か和琴かどちらか一つでも上達すれば和歌の覚えが悪くても見逃してくれるのではないでしょか」


 涙を耐えていた領子は握り締めた拳を上に突き上げた。


「全然出来ないのよっ! 私には大納言の姫としての才能がないのっ」


 まあまあ、と日向がなだめる。先の人と比べれば全ての女は才がない。


「なぜ死んじゃったのよ、お姉さま。あんまりだわ。私が代わりになれるわけがないじゃないの」


 同腹の姉が急な病で別邸で亡くなってから、昨夜で四十九日が過ぎた。父は七日目の法要がすんだその時から、涙も見せずに入内(じゅだい)の用意を彼女に命じた。領子は青ざめた。全てのことに才を示した姉と違い、当然身に付けるべきたしなみさえ欠いていた彼女にその資質はない。


「それにしたって古今集さえ全然覚えていないというのは珍しいのではないでしょか」

「私にはそれなりの人生計画があったのよ。姉の七光りで世を渡るという」

「はあ」

「お姉さまは何でも出来たでしょう。古今なんか序の句から完璧に暗唱していて忘れるものなどなかったし、和琴も筝も吉祥天女を思わせるほどの腕前だし、髪の長さときたら車に乗っても髪の先は母屋の柱のもとにあるほどだし、絶世、といってもおかしくない程の美貌なのに愛らしささえ具えていて見る人全てが微笑むような容貌だし、声も素敵で落ち着きがあって賢くて教養は深くて、およそ欠けることのない方だったじゃない」

「確かに」

「だからきっと天子様にこよなく愛されてきっと男御子をお産みになり、その子は東宮(とうぐう)(皇太子)になること間違いなしだったはずよ」

「まあ、可能性としては」

「だから中宮(ちゅうぐう)(天皇の后)にも選ばれて、とすると出世を目指す若公達(わかきんだち)がその身内である私に山ほど寄って来るはずだから、権謀術数に長けたお父様がその中で最も将来性のある男を婿に選んでくれたはず。まあ相手は他に女を作るでしょうけど、中宮の同腹たる私を当然正妻とするでしょうし、ほどほどに大事にしてもらえるはずだから、子供の一人でも生めば生涯安泰、苦手な和歌や楽などを無理に学ばなくても人生、勝ったも同然と思ったのよ」


 言い分を聞いてもっともだと日向も思う。それほど、亡くなった大姫は完璧だった。


「お父様もお父様だわ。私なんて小さい時から目に入ってなかったじゃない。今更ほこりを払って内裏に据え置こうなんてあつかましすぎっ」

「他に玉があればよかったんでしょうがね、男はともかく女の子は姫さまの他には脇腹にさえいらっしゃらないようですよ」

「あれだけ用心深いのに基本のそんなとこに手を抜くのがいけないのよ」

「そうおっしゃいますな。姫さまのお母上のことがそれほど忘れがたかったのでしょうよ」

「その気持ちを胸に秘め、次の北の方をもらってその方との間に他の姫をもうけてくれていればどれだけありがたかったことか」


 深くため息をつく。十年以上前に亡くなった母は姉に似て優しく美しかった。忘れがたかったのは確かだろう。だが、それは冷徹な父には不似合いだ。そのことを訴えようとした時に少し乱れた衣擦(きぬず)れの音に気づいた。

 侍従(じじゅう)と呼ばれる姉の乳母であった年嵩(としかさ)の女房が、権高な顔で傍に控える。足の動きはいくらか不自由だが、見せ付けるように優雅に一礼すると薄い唇を開いた。


「古今はお進みになられましたか」


 思わず日向にすがりつくような視線を向けるが、彼女も逃げ腰になっている。


「お手伝いいたしましょう。冬の歌をお開きください」


 容赦なく、冊子がめくられた。



 ようよう休むことを許されて、疲れきった身体を御帳台(みちょうだい)に横たえる。食事の時さえ真横で和歌を朗詠されてすでに躬恒(みつね)友則(とものり)も嫌悪の対象でしかない。特に憎いのが貫之(つらゆき)だ。


――――自分の歌ばっかり入れるんじゃないわよ


 散文のよさは認めるが、和歌の響きは従兄以下だと罵倒する。それなのに編者であるため大量の自作を投入しているので名を見るだけでいらいらする。

 しかし貫之にあたっても仕方がない。何とか人並み程度にごまかすすべを身に付けなければ毎日地獄だ。


 思えば姉が亡くなった当初は、後を追いたくなるほど辛くともまだ他人事だった。それがどんな事態を招くかに気づきもせずただ泣いた。その当時は姉の女房たちは悲しみを共にする仲間だった。侍従など、それまでは不自由のなかった脚さえ引きずっていた。よほど嘆いてその拍子に損なったのだろう。


 暗転したのは七日目だ。僧侶の誦経(ずきょう)の名残も尽きぬうちに部屋換えを命じられた。西の対の小さな部屋に慣れていた彼女は突然、姉の暮らしていた寝殿に据え置かれた。姉に仕えていた女房たちはそのまま領子に与えられた。


 ある程度日が過ぎてからならば、周りの者もそれが必然であることを呑み込めたかも知れない。しかし、父である大納言のやり方は性急過ぎた。悲しみの真中にいた女房たちは新たな主人を受け入れることが出来なかった。それどころかやるせない気持ちのはけ口を、もとの女主と比べるとひどく劣る彼女に求めた。まるで彼女自身がたくらんで姉を失わせたかのように冷たくあしらった。


 女房たちも辛いのだろう、と領子は思う。姉は崇拝の対象たるにふさわしい姫君だった。その死の際、出家を望む者も多かった。もちろん大納言は許さずに、そのまま次の娘につくことを強要した。


 領子自身にもともと付いていた女房は数も少なく、身分も大いに劣る。乳母子である日向を残して全て傍付きを解任された。そのため庇ってくれる者はいない。自分と同じ十六の小娘でしかない日向にもその力はない。せめて、乳母である日向の母がいてくれたのならよかったのだが、新しい夫の任地である淡路の国に行ってしまっていた。


 日向も一人なのだ。自分が守らなければいけない。そのためには他者にそしられない立派な姫君にならなければいけない。志だけは高いがそれをなすべきすべを持たない。果敢な努力で課題に立ち向かってはいるが、どんなに焦ってもたしなみはなかなか身につかない。

 それなのに、明日は女院のもとに挨拶に向かわなければならない。気が重かった。いや、それどころではなかった。眠ってる間に世が滅びて内裏(だいり)も都も消えてしまえばいいと思うほどだった。


――――全て、貫之が悪い


 怒りを、不安を、悲しみをいにしえの歌人にかぶせるとほんの少し楽になった。その隙に眠った。疲れた頭はその逃避を大いに喜んだ。



 牛車の中で繰り返し教え込まれた挨拶の言葉を迫力ある視線でねめつけられた瞬間に忘れ、しどろもどろにつぶやくと御簾(みす)越しの(ひさし)に座る侍従の苛立ちが痛いほどぶつけられる。が、今はそれより目の前のこの恐ろしいほど威厳のある着飾った女のほうがよほど気になる。


 几帳(きちょう)さえ取り払ったその座の脇に父の姿もある。実の娘にあてる視線は冷たい。届けられた唐物(からもの)の価値を測る時のような目の色だ。

 頭から髪の先まで全てを見つめていた女院は、領子の言葉など一顧だにしない。顎の先の動きでそれを止め、末の弟である大納言に振り向いた。


「姉よりか大分見劣りがするな」

「お恥ずかしいことですが、数に入れておりませんでした」

「亡くなった者の資質を考えれば無理もない。だが、今はこの娘を使うしかなかろう。他に適切な脇腹も無いとなれば」

「申し訳のないことです」

「昔、奪われた者は娘であったろうか。だとしたら惜しいことであった。しかしいた仕方ない。この者も髪さえ伸びればなかなか愛らしい。好みが合えば帝を喜ばすことも出来るであろう」


 大納言は深く頭を下げた。女院の支持は取り付けた。これでこの不出来な娘を入内させることが出来る。

 それでも歯噛みする思いだった。誰よりも優れた亡き娘は、大納言の兄である左大臣のけん制によりなかなかそこにたどり着けなかった。優れすぎていたからこそ全力で阻止された。そのため十八までの歳を無駄に過ごさせてしまった。ようやくその運びに向かうことになった途端の災難である。


 さぞかし兄はほくそ笑んでいるに違いない。怒りが心の奥に燻る。だが、その兄の(かしず)く一人娘は石女だ。一族の繁栄を願う氏の長者としては身内の入内を認めざるを得ない。かてて加えて女院は過去の確執から長兄である左大臣を憎んでいる。そして自分はこの姉に気に入られている。


「これからはたびたび来るがよい。内裏(だいり)の様子を伝えてやろう」


 いきなり自分に言葉が向けられ、領子は内心の怯えを隠し切れなかった。女院手ずから渡される菓子を受け取る時に肩が震える。その様子を冷たく二人は見据えている。

 このような所に来たくはなかった。今まではどんなささやかな外出でも嬉しかった。が、物よりも見測られるこの視線を受けるよりかは慣れた邸に引きこもっていたい。


「おお、それは有難いこと。すぐにまたお伺いさせていただきます」


 父の声が耳を打った。自分の意思など誰も気にしていないことを思い知らされた。


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