失われた琅玕
ひょう、と唸って矢が飛んでいく。それはまっすぐに苧麻の袋にわらくずを詰めた的の真ん中をびしりと穿った。
うおおおおっ、と男たちは歓声をあげる。夕月はそれに動じず二本、三本と矢を打ち込んだが、全てその周辺に刺さった。歓声は更に高まる。
「ほんと、おまえは凄えなあ」
千虎が黒の水干姿の夕月に声をかけると、彼女はわずかに口の端を上げた。急に男たちは息を呑む。
「数はこなせないわ」
「いや、並の男じゃこうはいかん。太刀をとっても敵わねえし、直に組んでもこの俺をぶん投げやがったじゃないか」
「コツがあるのよ」
夕暮れの洛外の寂れた神社に普段は神職も参る者もいない。しかしこの日千虎の率いる武張った一団は、身が凍る寒さの中熱を生み出している。
先刻まできっちりと布で顔を覆っていた彼女は、目元の布だけを残して口元を晒している。それだけで充分に男たちは浮き立ったが、教えを乞うた千虎にいくつかの武技を見せた彼女に今は更に熱い視線を向けている。
夕月が、弓懸を外してその白い手が現れると彼らはほう、といっせいに息を漏らし、すぐにいつもの手の革袋をつけると今度は残念そうな声が出た。
「今日も誘いがあったのじゃなくて」
「ああ。三回に一回は断るようにしている。俺ら新参はいざという時に少しでも手柄をあげんとな」
夕月は千虎の目を覗くように見た。争いに長けたこの大柄な男がほんの少し赤くなる。
「後から入った人も多いから、もう新参とは言えないわね」
「気がまえとしてな。それに夜烏の兄貴も最近はあんまり楽しんでもいねえしな」
「そう? うちの手下も行くけど存分に遊んでいるらしいけど」
千虎はちらと歯を見せた。ないしょ話をするように少し声を潜ませる。
「口にゃあ出さんがさっさと戻って家の女としっぽりやりてえんじゃないのか。ああ、お前さんのとこの女だってな」
「弥生のことね」
「そうさ。べっぴんだそうだな。おまえさんにはかなわんだろうが」
夕月は意外なほどやわらかく微笑んだ。千虎は少し息を呑んだが、彼女は気にせず目を細めた。
「赤子の頃からいっしょの私の乳母子よ」
大事にされているのならよかったわ、と続けて少し遠くに目をやった。男ばかりの暮らしの中、さすがに寂しいのだろうと考えた千虎が窺うように見ると、急に顔を引き締め、取り戻そうなどと思っちゃいないわと強い調子で言った。
「彼女の命が第一の約定。あの子は目に見える形の約束なのよ」
「そんないい約束、俺も結びたかったな」
いつもより動いた相手の唇を見ながら大男がこぼすと、夕月は面白がるような顔をして、一番の男としか結ばないわと言ってのけた。
「夜烏はまあ悪くはないわ」
「女の好みは絶対俺の方がいいぜ」
思わず口走ると、どうかしらと軽くかわされた。傾いていく日の逆光を浴びた姿が光輪をまとったように見えてそれ以上言葉が続けられない。それを気にする様子もなく夕月は千虎から目を離し、愛馬を呼ぶために口笛を吹いた。
日向から、無事であったと知らせを受けて五の宮は胸を撫でおろした。万が一間に合わなかった場合を考えて近場に潜んでいたが、軒下に警備の者を置かれて間近には行けなかった。
中宮の元に忍び込んだのは賭けだった。いくら人柄のよさが評判の方でも父と対立する相手の駒を救ういわれはない。なのに彼女は慣れない様子で走ってくれた。
————何か礼はしたいが、金は一切使いたくない
実に正直な気持ちで考えるが、相手は何不自由のない暮らしであるから、半端な物では目に入れることさえしてもらえないかもしれない。
————梅の花がわずかに残っておる。あれを一折り届けよう
凝花舎(梅壷)のものと較べると小ぶりだが香りのいい花の咲く古木が自邸の庭にある。そう決めて宿直帰りの者を捕まえる。湿気って寂れた右京だが、それでも内裏近辺に住む者は多少いる。その一人に送ってもらった。
花はもう終わりかけている。乗せてくれた役人をしばし待たせて一枝渡してやり礼を言った。
庭から戻ろうとした時に隣の敷地からくぐもるような声がわずかに漏れ聞こえた。五の宮はとっさにそちらを向きかけ、努力して顔を背けて階に向かった。
いつものことだ。最初のうちは驚き、止めに行った。検非違使に訴えたこともあるが改められることはなかった。
「ちょっとしたお楽しみを求める方に、対の屋や雑舎を貸してらっしゃるだけのようです」
報告に来てくれた検非違使が言葉だけはていねいに整えながら頬を歪めた。鼻薬の一つも嗅がされているのかもしれない。
「確かにそのご身分にしては恥ずべきことでしょうがこれもご時世ですよ」
違う、そんな時もあるのだろうけれど本当に悪事が行われる日もあるのだ、と言いつのってもその男は子どもを見る目を向けて「宮さまはそんな品下れることを気になさらなくともいいのですよ」と優しく諭した。
その後五の宮の使いが検非違使の元に向かっても動いてさえくれなくなった。無用な心配などなさらぬがよいでしょう、と返されるばかりだ。
初めてこの邸に家移りしたとき隣人は、礼を守ってあいさつに来た。尊いご身分な上お年若でいらっしゃるからこんな辺鄙な場所では日々の暮らしに何かとご不自由な点があるやもしれません。どうかこの私を頼ってください、恐れながら多少なりとも同じ皇の血を引いておりますのでどうかご遠慮なく。そう言って歓迎してくれた。
五の宮は純粋に嬉しかった。両親を亡くし乳母を亡くし後見を亡くして皇子とはいえ非常に頼りない状況の無品親王は温かい言葉に飢えていた。彼が宮家筋の者であることも心強かった。何かとあって本邸を手放して心細い自分を支えられたような気がした。
すぐにその甘さに歯噛みすることになった。隣家には得体の知れぬ者どもが多数出入りする。そのこと自体を責めようとは思わなかったが、確かな悲鳴や度を超えた嬌声が響いた日についにたまりかねて使いの者をやった。
なんだかんだと言いくるめられ、検非違使も役には立たず隣家の気配に気を尖らせているだけで不信の念は消えない。そんなある日半裸の女が逃げて来た。
「助けてください! お願いします。どうかお救いください!」
あまりに哀れで衣を与え粥を振る舞っていると隣人が雑仕を連れて訪れた。思わず身を以てかばおうとすると穏やかな声で尋ねられた。
「その女をいくらでお買いになります」
「人の売り買いは禁じられておる」
「公にはね。訴えても誰も動きませんよ」
「この人が証じゃ。ほっても置けまい」
「ほう」
隣人が女に目を向けると彼女は必死に首を横に振った。
「言いません、絶対に言いません!」
「だそうですよ。どうしますか」
しばらく説得してみたが女の意見は変わらなかった。とうとう五の宮は言い値を呑んだ。
残り少ない財の一部を運ばせると隣人が、老婆心ながらご忠告いたしましょうと薄く笑った。
「あなたはあまりに幼すぎる。こんな女が必要なわけではないでしょうに」
「ほって置くわけにもいくまい」
「いきますよ。ただ私に返してくださればいいのです」
「しかし」
「すぐに後悔いたしますよ。善をなしているつもりで無意味な偽善をなしているわけですから」
思わず睨みつけた少年を様々な色を含んだ目で眺めると、あなたは私の父のようですね、とつぶやいた。
「育ちが良くて清らかで優しい方でした。残念なことに」
驚いた顔の少年に初老の男は多くを語らなかった。
「私には子も孫もいます。極悪人と呼ばれても彼らが温いなりをして充分に食べてくれる方がよほどいい」
「周りから軽侮を受ければその者どもの今後の出世にも関わるであろう」
「権門からの寵は金で買えます。それさえあれば後はどうにでも」
鋭いまなざしのままの彼から目を離し、男は冷めてしまった粥を見る。
「その一杯はあなたがあなたの子どもから奪った一杯です」
「まろには子などおらぬ」
「いずれ女を愛し得ることができるでしょう」
「拒否すると言ったらどうする」
「どうもしませんよ。出家でもしますか。存在さえ不確かなものに一生を賭けるほど愚かには見えませんがね」
仏徒を侮辱する言葉を平気で投げつけると肩をすくめて帰ろうとした。待て、と五の宮は止めた。
「女の価は払ったが、逃げ込まれた迷惑料はもらっておらぬ。四分の一ほど置いて行くがよい」
男は少しの間黙っていたが、やがて微笑んだ。
「その調子で」
雑仕に顎をしゃくり、控えていた五の宮の白丁に言われた分だけ返却させた。
救った女が行き場がないというので、下働きとして雇ってやった。五日ほどたってなじんだかと思った頃、女は残されたわずかな宝物を盗んで逃げた。
暗緑色の美しい琅玕も、小指の先程であるが本物の竜涎香も奪われた。
「だから言ったでしょう」
捜索のために訪れると隣人は口の端をわずかに上げた。
「人よりも金の方がよほど信じられますよ」
「同感じゃな。しかしこのように盗まれることもある。そなた自身はともかくそなたの身内の者などはこのような不手際はないのか」
「家族は左京の方で平穏無事に暮らしていますよ。まあ悪人に対する策は多少教えてありますが」
この男自身もまだ甘いな、と少年は考えた。こちらの幼さと甘さで見くびって貴重な情報を気軽に提供してくれた。さっそく探りに行かせよう、使うことはないだろうがつかんでおいた方がいい。そう思いつつ、ついでに互いに行き来できる門を塗りつぶすことを提案した。隣人は了承し互いに不干渉を貫くこと、それを破る際は金銭の授受を伴うことを約束した。
ーーーーあちらのことは口も手も出せぬ
階を上がるともう声も聞こえない。五の宮はひどく陰鬱な顔ですり切れた茵を引き寄せた。