不機嫌な男
見た目よりずっと狡猾な夜烏は、小家での暮らしを変えてはいない。近隣の男には機嫌よく声をかけ、井戸端の女たちにも愛想の一つを見せる。遊ぶ時にはしかるべき場所へ身を移す。
金はある。闇に住む男たちは噂を漏れ聞いて次々と傘下に加わった。あらかじめ組んでおいた形と適切に配置しておいた人のため、彼自身は指一本動かす必要はない。他に設けた別邸に出向いて、見所のありそうな新参に声の一つもかけてやれば『あの夜烏の兄貴に直々に口をきいてもらった』などと感激される。視線一つ向けるだけで男たちは勢い込む。
女も選び放題だ。舟で身をひさぐ女たちをまとめて買って悠々と川を下ったり、殿上人さえ訪れる有名な遊び女のもとを気取った格好で訪れたりする。
すぐに飽きた。仕える男たちや弟に振る舞ってやったりもしたが、媚びた女たちにだんだんいらついてきた。
その日も平気ですり寄る女たちになんだかうんざりし、銭だけ払って先に出た。手下どもは鼻の下を伸ばして遊んでいるし、明烏は最近来ようともしない。
ガキの頃、頭の使いのために扱い慣れた馬にまたがり、自分の小家の近場まで来るとその辺りに住む手下の嫁に馬を預けた。この女は元から小器用に商いをこなすたちで、最近は三頭ほどの馬を人に貸すことで夫に頼らず暮らしを立てている。
「ほんと、おまえは恵まれてんな。女、こいつに飽きたら俺のとこに来いよ」
「あいよ。宿六がおっ勃てなくなったら駆けつけるから待っててくんろ」
「かんべんしてくだせえよぉ。おまえも俺が誘いにも乗らねえでこうしているのに、なんてことを言いやがる」
なさけない顔をして見せる手下にきへへと笑い、嫁には触らずその男の肩だけをぽんぽん叩いた。見送りも断ってそこを出た。
星の瞬く夜である。周りの小家に住む者は日が暮れるとさっさと眠りにつことが多いから、夜烏も自然と足音を抑える。盗賊稼業も慣れているので全く音なしの足取りで自分の小家の前に来た。
そこに灯りはない。が、隣からは小さな光が漏れている。真面目な弟のことだ必要な文でも書いているのではないかと板目に開いた穴から覗いてみると筆など取らずに笑っている。無表情なあいつが珍しいなと視線を動かすと、口元を抑えて女も笑っている。弥生だ。
二人は寄り添っていたわけではない。女は板間に腰掛け明烏は離れた所に立っている。触れあったりもしていない。だが何やら楽しそうに語り合っている。
しばらく眺めていた夜烏は顔を引きしばし思案していたが、また音をたてずに元来た道を少し戻りそれから改めて足音をたてて小家に向かった。
途端に隣から弥生が走り出てきた。
「お帰りなさい。さっき三日月が干物を持って来たからこっちに届けといたわ」
「ん」とうなずき女を見た。天空の光を浴びたその顔はいつもほど寂しげには見えなかった。
黙ってそのまま小家に入り火種を掻きたたせた。火影を映した女の横顔はもう、いつもと同じに見える。夜烏は顔を背けていたが、ふいに遊び女の話を始めた。
「......で、そいつがいい女でよお。腰の辺りにみっちりと肉がついて、こう、抱えるとたまんねえわけ」
「そう」
「で、いい声で鳴くんだな、これが。内裏にいるヤツらが時鳥がどうの、ウグイスがどうのって言いやがるらしいが、女の鳴き声にかなうわきゃないよな」
「そう」
従順に答えるだけで否定もしない。
夜烏はふいに腹が立った。黙って押し倒すと女は抗いもせずに瞳を閉じる。その受容が憎くて、いつもよりひどいやり方で抱いた。途中背中に視線のようなものを感じた気がしたが、かまわずに女を貪った。
健やかな眠りから覚めた女院は御帳台から出て仰天した。領子の姿がないのだ。
————右か、左か
業物の刀より切れ味のいい脳裏がすぐに失点を挽回すべく様々な仮定とその対処法を浮かび上がらせる。
————少々傷がついた程度ならかまわぬが殺されていた場合はどうすべきか。親族の者からしかるべき養女を迎えるがよいであろう。が、その場合実の親が図に乗る可能性がある。親のない娘はいたか? いや、適切な者はいない。とすると先に親を排除して、それから迎え入れるべきか......
「女院さま」
女房が膝元に寄ってくる。まず事実の確認をしなければならない。内心の動乱を見せずにうなずく。
「領子姫のことですが、中宮さまから使いが来ております」
ねめつけるように見ると彼女に慣れた女房さえ、わずかに脅えた様子を見せた。
「聞こう」
「はい。深夜遊び心が過ぎて領子姫とその乳母子を自分の殿舎に連れて来てしまったので、これからお詫びに伺いますと」
————左か
語られずとも女院は事態を正確に理解した。左大臣との関係性により藤壷中宮とあまり親しいとは言えない。それでもそんな遊びを企むような人柄ではないことぐらいは知っている。
————あやつが害しようとしたことに気づいて救ったか
思ったよりは骨のある女だと、中宮に対する評価を買える。だがそれ以上の怒りがその父に対してわき起こる。
————わが殿舎で守る姫を盗み出した罪は大きいぞ
にまあ、と大きく裂けた口は長年生きた女怪そのものだ。恭順な女房たちがなおさらに顔を引き締める。
「いや。こちらから伺おう。すぐに前触れを」
「はっ」と廂に控えた女房の一人がすかさず立ち上がり、品位を失わないぎりぎりの速度で出て行った。
身じまいを普段以上に整えて、着飾らせた女房たちを引き連れて飛香舎(藤壷)を訪れると、そちらの女房たちはしとやかに迎えた。中宮は上座に席を設えてそこに女院を座らせて礼儀を示した。
「わざわざ足を運んでいただきまして光栄ですわ」
少し固めにあいさつをするが中宮の瞳に他意はなく穏やかだ。だが女院の口元に笑みはない。形だけの礼さえなく射すような視線を彼女に向けた。
「いたずらですむようなことではないことはわかっていような」
「はい」
中宮は視線を受け止める。領子は慌てて話に割り込む。
「中宮さまは私を救って......」
「おまえに口を出す権限はない。黙っておれ」
領子は獰猛な獣のような声に思わず脅えて唇をかんでしまう。中宮は揺るがず女院を見つめている。
「もちろん今のはこの姫の言葉のあやで、おまえ自身が誘い出したのだな」
「その通りです。間違いありません」
「それはよかった。おまえの父がそうしたのだと聞いたら大事になる所であった」
「まあ、そんなことがあるわけがありませんわ」
中宮はやわらかく口元を緩める。それに合わせて薄く笑いながらも、細められた女院の目は獲物を狙う大鷲のように鋭い。
「だとしたら、この罪はおまえが背負うしかないな」
「はい。当然のことですわ」
藤壷中宮の言葉を止めようとして領子が口を開けた瞬間、ぎょろりと女院が睨んだ。彼女は息を呑んで沈黙した。
しばらく女院は二人をねめつけて、それからふっと力を抜き中宮のみに視線を戻した。
「子のない帝がどのような立場に追い込まれるかはわかっているか」
「............はい」
「恩を着せて息のかかった者を東宮に据え置けるのならまだよい。が、今そのような状況にないことを知っておろう。実の子ではないとはいえ私にとっても大事な方だ。しぶしぶながらおまえの父も認めた。おまえも理解はしているはずだ」
「............承知しております」
ずい、と女院は膝を詰めた。
「なら話が早い。この姫を二月の末までには入内させる。心得ておけ!」
言葉もなく彼女は頭を下げた。領子はおろおろと双方に視線をさまよわせていたが、女院が立ち上がると同時に彼女の女房が領子を両脇から挟んで立ち上がらせた。
「あの! ......本当にありがとうございましたっ!」
とっさに叫んだ言葉も中宮の耳に届いたのか心もとない。彼女は黙って頭を下げたまま、二人の方を見ようとはしなかった。
踏み出した廊の板目の冷たさに足先がしびれて行く。領子もうなだれたまま女院の歩みに従った。