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帝の思惑

 朝の光が御簾越しに差し込む。領子は薄く目を明けてぼんやりとそれを眺め、不意に気づいて身を起こした。

 見慣れない部屋だ。けれどその室礼(しつらい)(平安インテリア)は趣味もよく、高価な品をふんだんに使ってある。だが人の気配はない。


――――確かに誰にも会いたくないわ


 おそるおそる自分の身を探る。昨夜身に付けていた(うちき)をまとっている。しかしここは弘徽殿(こきでん)ではない。


――――きっと私、ひどい目にあったのね


 なだめるように自分の体を抱きしめる。涙が一すじこぼれる。


――――だけど、傷ついたのはきっと私だけだわ。五の宮さまも日向(ひゅうが)も無事なはずよ


 それは誇ってもよいことだ。領子は腕を解くと拳で涙をぬぐい顔を上げた。


――――自分の身が無事でもあの人たちが乱暴されたら、その方が嫌だわ


 噛み締めた唇を解き、無理やり微笑んでみようとする。それには失敗して情けない表情になった。気を紛らわせようと豪華な屏風(びょうぶ)を眺める。


――――雪を載せた松の絵がとても綺麗。


 そう思えるうちは大丈夫。領子は自分で自分を慰める。思っていたのよりは大分ましだ。辱めを受けた記憶はなく、身の痛みもない。気を失ってしまったことが幸いした。


――――これならそんなことはなかったと言い張れるわ


 強気になろうと決意するが、再び涙が瞳に宿る。しかしそれが流れ落ちるより早く、奥の方から声がした。

「目が覚めたのね」


 しっとりと落ち着いた優しい声だ。だが聞きなれたものではない。目を向けると鮮やかに紋の浮き出た深紅の表着(うわぎ)を身に付けた人が近づいてくるのが目に入った。驚いていると声の主は優しく微笑んだ。


「私を覚えている? 領子さま」


 さして美貌ではないが品のある顔立ちの女性だ。自分よりかなり年上に見える。

 首を横に振った領子に女人は目を細めた。少しいたずらっぽい光が宿る。


「私は覚えていてよ。姉君と違って大そう活発な姫君で、私に円座(わろうだ)の投げ方を教えてくれたわ」


 そんな記憶はない。しかしそれは間違いなく幼い頃の自分だと納得のいく行動で、この上品な方にそんな真似をしたのかと血の気が引く思いがする。が、傍らのその人に責める様子はない。


「お会いしたかったわ。あなたは姉君を亡くされた。私はそれよりずっと前に妹たちを失っていたから、お気持ちがわかるような気がしていました。お慰めしたいと思っていたの」

 失礼を省みず思わず尋ねた。


「あなたは………どなたですか」

 たしなめるような女房の声が部屋の端から響いた。


「………中宮様でいらっしゃいます」

 左大臣の娘のその人だ。慌てて頭を下げると優しい声がそれを止めた。


「かしこまらないで。お互い姉妹を失った身。私のことを姉だと思っていただけると嬉しいわ」

 口を開けたまま答えられない領子の手をやわらかく温かい手が握る。


「あなたの実の姉君ほど美しくも賢くもないけれど、あなたをお守りしたい気持ちは同じだと思うわ」

 藤壷中宮はそっと手を離すと頭を下げた。


「私の父が怖い思いをさせてごめんなさい。二度とこのようなことがないように気を配るわ」


 領子は驚いて顔を上げた相手の目の奥を見た。自分の立場は確実にこの方の位置を危うくする。それなのに中宮は温かな視線を投げかける。その戸惑いに気づいて彼女は寂しげな笑みを浮かべた。


「妬いていないわけではないのよ。あなたは愛らしくうら若い姫君だわ。主上の心を捉えて離さないでしょう。私はきっとこれから先は省みられることはないわ。でも………」

 優しい声に凛とした響きが加わる。


「私は誰よりも主上をお慕いしているの。あの方がお幸せであればそれでいいわ。知らない女人ではなく、やんちゃな妹のようなあなたが、私には無理な御子を主上に抱かせて差し上げるのなら忘れられてもいいの」


 この女人の強さは夕月を思い出させた。まるで違う立場で正反対の性格だ。それでも領子には濁りを含まぬまっすぐな視線と何者にも犯されることのない意思が似ているように感じた。


「それは光栄ですね」


 不意に男の声が響いて領子は飛び上がりそうになった。中宮も驚いて声が止まった。

 部屋の端にいた女房が声を震わせた。


「……主上」


 北の廊から入ってきた男は優雅な身のこなしで中宮のもとに近寄る。そのまま傍らに座ると彼女の手を優しく取った。


(いみ)()けで無性にお会いしたかったので前触れも出さずにすみません」

 中宮が恥ずかしげに目を伏せる。帝はその手を弄びながら温かく微笑んだ。


「だけど少しひどいですね。私はそんなに薄情な男に見えますか」

 赤くなった彼女を視線だけで抱きしめるほど見つめる。


「この身の全てはあなたのためにあるのに」

 早く帰りたいと領子は思った。中宮もそれを察したのかほんの少し身をずらした。それににじり寄った帝は、ふと思い出したように領子の方を見た。


「ああ。はじめまして、領子姫」

「はあ」


 世にも尊い人になんて返答をしているのだろうと自分でも少し呆れる。が、帝はかまわずに落ち着いた声で続けた。


「確かにあなたは大そう可憐だと思います」

「どうも」

 すでに取り繕うことをあきらめた。侍従(じじゅう)あたりがこの現場を見たらたぶん舌を噛む。


「けれど申し訳ありません。私の心はこの方に捧げてしまっているのです」

 肯定の意を表すために何度も頷く。無理にその間に割り込むことは自分の本意ではない。


「話が進んでしまっているのは事実です。しかし私は自分の血を継ぐことよりもこの方と添い遂げることのほうが大事なのです。あなたに失礼なことを言ってしまって心苦しいのですが、どうにか内大臣にあきらめてもらう手はないでしょうか」


 全てを統べる帝にさえ動かせない事柄が何の力も持たない自分にどうにかできるはずもない。そう言って断りたいが手を握り合う二人を見ていると拒否ができない。かといって何か適切な案が思い浮かぶわけでもない。

 それでも、領子は彼らに味方したいと思った。おそるおそる口を開く。


「あの、今は特に思いつきません。でも、ぜひお手伝いしたいとは思っています。だから、しばらく引き伸ばしに手を尽くしていただけないでしょうか。私もできる限り頑張ります」

 中宮がそれを止める。


「それはあなたのためにならないわ」

 領子は彼女を見つめた。

「かまいません。それと、助けてくださってありがとうございました」

 おっとりと中宮が頷く。

「それは、五の宮さまに告げた方がいいわ」

 きょとんとする領子に人柄のよさが滲むような笑顔を向けた。



「いくら元服前の宮さまであっても、中宮様の寝所に忍び込むなんて前代未聞でしたわ。切迫した状況は理解いたしましたが私は未だに納得いきませんの」


 別室に移った領子に、中宮に仕える女房は昨夜の様子を語ってくれた。共に助けられて(ひさし)の間に寝かされていた日向とそれを聞く。

 左大臣の直盧(じきろ)を去った五の宮はすぐに藤壺に忍び込み、なんと中宮を叩き起こしたらしい。彼女はそのまま信頼できるこの女房とともに父の元へ駆けつけた。


「歩く姿さえお見せになったことのない中宮様がなんと夜着のまま走られたのです。すぐに力尽きて私が背負ってお運びしましたが」


 人払いさえせずに男たちのもとに飛び込み、全身で領子をかばった。焦る左大臣に初めて激しい言葉をぶつけた。


「領子さまを傷つけようとするのなら、私はこの世に生きてはいません。そうおっしゃったのです。入内(じゅだい)すれば敵とも化す姫君を守るためにですよ」


 女房は嘆息した。領子は身を縮めた。日向も感動の面持ちで聞いている。


「でも、無事でようございました。間一髪でしたのよ」

 本当に彼女には生涯頭を上げられない。


「姫さまを運ぶための男手さえを疎んじて、私が中宮様をその場に残して藤壷まで駆け戻り、同輩をたたき起こしてみんなで運びましたの。ですから安心してくださいな」


 すみません、と何度も頭を下げる。女房は権高にそれを受けたが、すぐにその態度を崩して自分も深々と辞儀を返した。


「主上はああおっしゃいましたが、姫さまの入内は覆すことは出来ないと思います」

 受け入れざるを得ないことを承知している。


「中宮様の立場はひどく脆くなると思います。ですから、お願いします。なるべく傷つけないで差し上げてください。中宮様は本当に優しくて悪意など持ちようもないお方です。けしてあなたを困らせることなどありません。あなたのお立場が強くなってからも、どうかほんのわずかばかりの敬意を払っていただけないでしょうか」

 領子は焦った。


「もちろんです。いえ、何とか入内から逃れたいと……」

 女房は悲しそうに首を振った。

「これは(まつりごと)です。主上の意思さえ関係がないのです。まして中宮様やあなたのお気持ちなど」

 いっしょにうなだれていると別の女房がいざり寄って弘徽殿から迎えが来たことを告げた。




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