姫君の危機
その時刻より時を遡ると、内裏には困惑の態の少年の姿があった。
阿蘇の少史を捕まえて牛車に同乗させてもらおうとしてあてが外れた。急な物忌みで職を休んでいる。慌てて内裏に来る時乗せてくれた親切な六位蔵人のもとに行ってみたが既に帰った後だった。
五の宮は思案に暮れた。日中いる場所には事欠かない。愛らしく賢い無品親王を可愛がる女房は多いからだ。しかし夜はそれぞれの女房も自分の主人の元での宿直があったり局に恋人を引き入れたりと忙しい。日中はなじんでいても夜は近寄れない場所もある。
それでも不自由に耐えれば泊まる所がないわけではない。母に仕えていた古い女房がいく人かは内裏で働いているし、縁続きのものも多少はいる。少し考えて今宵は遠縁の者が貞観殿で宿直をすることを思い出した。
――――そこにしよう。ついでに弘徽殿の前を通っていこう
先刻聞いた噂を思い出して胸を弾ませる。女院が入内すると評判の姫を連れてそこに戻ったという話だった。
「愛らしい姫君でしたけれど髪が短すぎですわ」
「亡くなった姉君の髪は大そう長かったらしいのに」
女房たちがそんな会話をしていた。
――――長くはないが、艶があって美しい髪じゃ
みずらに結い上げた時手にとった感触を思い出す。滑らかで領子によく合っていた。
宮中にいることが多い五の宮は美女には慣れている。また、機知に富む女も何らかの才を持つ女もよく見ている。が、領子は誰にも似ていなかった。
貧窮した暮らしから抜け出すために勝手に候補として考えていた姫君の中に彼女の名があったのは事実だ。その姉が亡くなって入内の可能性が高くなったため一度は外した名だった。しかし、今では彼女以外の姫のことなど考えられない。
権威ある殿舎の弘徽殿は蔀の全てを下ろして堅牢だ。もちろん扉も固く閉まっている。それでも幼い頃から内裏全てを渡り歩いた五の宮には内部に通じる行き方を知らないわけではない。だが無理なやり方で入り込もうとは思わない。ただ、その端くれにでも近寄ってみたいだけだ。
――――今はだめじゃ。まだ人通りがあるので目立つ
少年は未練がましい目を無理に外すと、内裏の北端を目指して歩いていった。
そうして深夜になる。与えられた寝床を抜け出した五の宮は目を疑った。一人の女房に先導されて夜更けの廊を歩くのは確かに自分の思う相手だ。
――――まろは幻を見ているのであろうか
だとしたら不要な女房までは見えぬであろう。そう考えて高欄の下に隠れた。
床下で衣擦れの音を追っていく。事情がつかめないまま後をつける。
二人の女はそのまま左大臣の直盧(内裏にある高位の人の部屋。執務室としても使う)に姿を消した。
――――随分と直接的な手に出たものじゃ
床下で耳を澄ます。音は聞こえにくい。五の宮は板の隙間を探し、明かりがわずかに漏れるその場に移った。
「なかなか、女房思いの主人だな」
ゆったりと構えた左大臣に領子は厳しい目を向けた。
「日向を返して。傷つけたりしていたら許さないわ」
部屋は他に人影はない。案内の女房も下がった。しかし別室に何人も控えていることは気配でわかる。
「ほう。どうしようというのだ。無力な小娘が」
嫌な笑いを口もとに浮かべる。
「女院にでも泣きつくか」
そのつもりだった彼女は唇を噛み締めた。わざわざ口にするのは、既にそこを固めているからに違いない。けれど目を背けることなく相手を睨みつける。
「それも考えているわ」
「無駄だな。たとえあの方であろうとも、事が終わった後はどうしようもない。乳母子を気遣ってこの場まで来た時点でおまえは負けたのだ」
形のいい目が残忍な光を宿す。
「女は無事だ。早朝には戻してやろう。おまえもその頃には帰そう。だが、無傷で帰すわけにはいかない」
領子は眦を吊り上げた。
「それに何の意味があるの」
「辱められたものとして、一生苦しむがよい」
ぞっとするほどの呪いを込めた言葉を吐く。
「入内するがよかろう。子を産むがよかろう。国母となることさえ許そう。思うままに栄華を貪ればよい。だが、汚れきった女としてその位置につけ。帝にその最初を与えられなかった責を生涯胸に抱え続け、無垢な中宮の足元にさえ近寄ろうと思うな。彼女に礼を失するようなことがあれば容赦なくこのことをばらす。たとえ、わが一族の血が絶えようとも」
「卑劣だわ」
「なんとでも言え。見の程知らずの小娘めが」
ねめつける視線に身がすくむ。それでも領子はその脅えを表そうとはしなかった。
「苦しまないわ!」
彼女は叫ぶ。
「どんな目にあおうともその罪はあなたのものだもの。確かに私は無力な小娘で逃げることさえ出来ないけれど、どんな傷だって絶対に忘れるわ。ばらされたって、そんな妄想を抱くほどおじ様は追い詰められた気分なのね、って笑ってやる!」
左大臣は口元を歪めた。
「その決意がいつまで持つかな」
愛用らしい檜扇を鳴らすと、次の間の襖ががらり、と開いた。
数人の男たちがそこに控える。領子は息を呑んだ。
「さて、その強気がどれほど続くか試すがよい」
全身の血の気が引くのを感じた。
が、その時はやての勢いで何かが飛び込んできた。
子供のように小さな人影だ。それは左大臣の前に立ちはだかり、両手を広げて領子を守ろうとする。
「何やつ?!」
さすがに左大臣が驚く。控えた男たちがざっ、と囲んだ。
小さな相手は大声を上げた。
「さがれっ!」
なおも詰め寄る男たちに名乗る。
「まろは先の帝の五の宮、成貞親王である! さがりおれっ」
人々の顔に困惑の色が広がる。事情を察した左大臣は片頬を緩めた。
「これは宮さま。突然のお越しですな」
軽侮の色が濃く滲む。
「先触れさえなくおみ足を運ばれるとは、高貴な方にふさわしい様とは思えませんが」
「そなたこそ、立場に合わぬ不遜な態度。すぐに姫から手を引くがよい」
「どうやら誤解なさっていらっしゃるようですな」
声だけは穏やかに取り繕う。
「内裏における様々な助言を少し驚かすような形で行おうとしただけですぞ。通常の形で申し入れても、入内で浮き足立った姫君が聞いてくださるとは思えませんので」
白々しい言葉を述べる相手に五の宮は鋭い声音をやや落として応えた。
「そうか。それは失礼した。しかしそれでも深窓の姫君には重荷に過ぎると思う。今宵はまろに免じて説諭は許してやっていただけないだろうか」
左大臣は満面の笑みを浮かべた。
「もちろんですとも。すぐに厳重に護った上で送らせていただきます」
「そうか」
五の宮も笑みを返す。
「ならばまろもその護りに加えていただこう」
「いえ、私どもには充分な数がございますので」
なおも言い募ろうとする少年を制して尋ねる。
「五の宮様は何故にこの場までいらっしゃったのでしょうか」
「たまたま落とした扇を猫が咥えて床下に入り込んでしまったのじゃ。日中は人目につくゆえ今頃取りに来たところ、なにやら不穏な気配を感じてねじ込んできてしまった。そのような深い配慮がおありであるとまるで気づかずに申し訳ないことをした。未だ元服前の子供のしたことじゃ。許してたも」
少年はぬけぬけと言い放つ。対する相手は笑みのままで感情は見せない。
「さようでございますか。しかし先の帝の御子たるお方がそのような振る舞いをなさるとは感心しませぬな。これ」
手近な男に目配せをすると、すぐに砂金の包みを掲げてきた。
「ご身分にふさわしいお振る舞いの助けになるようにと、些少でありますが用意させていただきます」
「うむ。これはありがたい」
五の宮は頷いた。後に立つ領子は少し青ざめた。
「麗景殿にいる古女房に届けてほしい」
左大臣は青筋を立てたがどうにか自分を抑えた。
「お持ちにならないのですか」
「何を言う」
心外だ、と顔をしかめてみせる。
「まろはやんごとない身の上じゃ。このような品下れる物に直に触れるわけにはいくまい」
配下の者が一人、二人くぐもった笑い声を上げかけたが、左大臣に睨まれて途端に石のようになる。
「さっそくそのようにいたしましょう。お帰りにも相応の者を付き添えましょう」
「それは不用じゃ。姫をお送りしたあと勝手に帰る」
青筋が濃くなる。
「ですから、それはこちらの者がおりますので」
「兄上のもとに入内する大切な姫君じゃ。見届けねば申し訳が立たぬ」
ついに左大臣が堪忍袋の緒を切らした。
「あつかましいっ。下手に出れば付け上がりおって。さっさと金を持ってこの場から去れ!」
五の宮は動じない。
「どうなさったのじゃ、左府殿。まろは至極まっとうにお願いしているだけじゃぞ」
「やかましいっ、貧乏宮。立場をわからせてやる。そこの男、この者を殴れっ」
指名されたものはさすがに躊躇している。
「逆らうなっ、ばか者。どうせ無力な無品親王。たとえ死んだとしても誰も詮索などせぬわ」
「やめてっ」
領子が叫んだ。
「私に何をしたっていいわ。この人に乱暴するのはよして」
五の宮は両手を広げたまま顔だけ彼女に向けた。
「まろのことなどお気になさるな」
「違うわ。小さなあなたじゃこの多人数には勝てない。あなたを打ちのめしたあと私に手を出すだけだわ」
声に必死の思いを込めた。
「だから逃げて!絶対に恨まないから」
五の宮は一瞬考えると「すまぬ!」と叫んで部屋を飛び出た。追おうとした者どもを左大臣が留める。
「ほっておけ。害はない」
「ですが」
「女院のもとは固めた。猫の仔一匹近寄れぬ」
「帝のもとへ直接訴えに行くかも知れません」
「それも考えた。今日は物忌みでお一人で休まれているが、手の者で厳重に囲んである。問題はない」
一人がなおも不安を口にする。
「内府(内大臣)殿は所用で自邸に帰られましたが、右府殿(右大臣)は内裏にいらっしゃるようです。そこに訴えに行かれるのでは」
「右府など恐れるに足らん。たとえ伝え聞いてもこの姫の格を落とすためにわざとゆるゆると現れるだけであろう。こちらもそんな事実はないと答えるだけだ。無理に押し入る権限もない」
それから思い出したように付け加える。
「その上右大臣はなにやら取り込んでいるようだ。息のかかったものが伝えに来たが、何でも使いだてる者の事で怒り狂っているらしい」
「さすがは左大臣様。完璧とはあなたのためにある言葉ですな」
追従を無言で流すと、こっそりと逃げようとしていた領子を捕らえさせた。
――――助けて夕月
心の中で名を呼ぶが、無駄なことだとわかっていた。今日は内裏に夕月はいない。それでもこの、見た目だけは整えた卑しい男たちを前にして、残酷だが浅ましさの欠片もない美しい鬼を思うと恐怖がわずかなりと静められる。
「もう助けは来ぬようだな」
男たちの一人が薄ら笑いを浮かべる。その言葉で少年の姿が浮かび上がる。
――――ありがとう、五の宮さま。あなたがいるから男の人すべてを恨まなくてすむわ
自分と同じ無力な彼が立ち向ってくれたのは尋常のことではない。結局はかなわずに引くことにはなったが、その気持ちだけはしっかりと受け取った。
――――あなたが殴られたりしなくてよかったわ
以前二人で逃げ回った時、繋いだ手のぬくもりが心の内によみがえる。
「覚悟はいいな」
左大臣が冷たく言い放った。