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乳母子の危機

 夜の(とばり)の落ちる頃、あまたの殿上人を従えて女院の唐車(からぐるま)内裏(だいり)に向かった。隣に座らされた領子は少しも気を緩めることが出来ない。乗車の際も降り際も、人々に最上級の礼を示されるが落ち着かない。せめてと夕月の姿を目で探すが、今日は下がっているらしく見かけない。


 案内された弘徽殿(こきでん)は、高貴の人の住まいたるにふさわしく整えられている。自分程度がこの殿舎の主人になることなど想像すらできないと彼女は思う。(しとね)一つをとっても贅を尽くした錦で、座ることさえはばかられる。前栽(せんざい)に敷かれた白砂さえも磨かれていて、松明(たいまつ)の光を映して濡れるように輝いている。


 供を務めなかった公卿(くぎょう)たちも、次々と機嫌伺いに訪れる。女院は御簾(みす)越しにそれを眺めるが、直に言葉を与えられるものは数少ない。大抵は女房たちの取次ぎでねぎらわれる。ただ、物忌みの最中の帝の使いに現れた典侍(ないしのすけ)は丁寧に遇された。


「明日には忌みが明けるのでご挨拶にいらっしゃいます」と告げる彼女に、女院はこちらから伺う、と応えた。


 領子の父の内大臣も現れるが、この日は御簾内を許されずに兄の左大臣ともども言葉のみを与えられる。この二人が互いに陰険な腹の内を隠して礼を示しあっている時に、右大臣が訪れた。


「女院様はご機嫌麗しゅうございますか。何かご不自由でもありはせぬかと駆けつけましたが杞憂であったようですな。頼りになるご後見がお二人もいらっしゃるこの場に、とんだ無用の長物が参りました」

「いや。気持ちはありがたく頂こう」


 落ち着きのない様子で向上を述べる右大臣に、女院は重々しく応えた。


「お受け頂きましてまことに光栄に存じます。それにしても仲がよくていらっしゃってうらやましいことですな。私など、頼りにならぬ脇腹の弟が一人二人いるだけで、同腹のものは亡くなった姉のみでした。助け合う兄弟は実に素晴らしい」


 敬意に見せかけた皮肉に、左大臣も内大臣も苦虫を噛み潰したような顔になる。だが女院は余裕ありげな笑いを響かせる。


「血が近ければ近いで意見を違えることもままあってな、傍目よりは難しいものよ」

「ご冗談を。世に名高いご兄弟でいらっしゃいますのに。最近では更に絆を深め合ったと噂を聞きましたぞ。今日はその血筋の濃い姫君のお披露目でもあるとか」


 右大臣は口もとに薄ら笑いを浮かべる。左大臣たちは思わず彼の男をを睨みつけた。が、女院は御簾越しから落ち着いた声を放った。


「耳が早いな。さすがは右大臣。だが、確かに身内の姫を連れてはきたがただの物見だ」

「さぞや美しい姫君なのでしょうな。中宮様に似ているのではありませんか」


 露骨な煽りに苛立った内大臣が立ち上がりそうなのを抑えるかのように女院が応える。


「そなたの美しい姫君には到底かなうまい。そちらの方はいかがかな。最近調子を崩されていると聞き心配していたが、かえって障りになることもあるのでまだ見舞いは控えておった」


 声に凄みが加わる。右大臣の顔から薄笑いが消えた。


「大事にな。まだ安定の時期ではなかろう。くれぐれも養生するように」


 聞きようによっては脅しにも聞こえる言葉に青ざめた右大臣は、もごもごと謝辞を述べて立ち上がった。女院は更に言葉を重ねる。


「ああ、東宮様にもよろしくお伝え願う。あの方も大そう蒲柳(ほりゅう)(たち)でいらっしゃるから、いまだ寒いこの季節は特に気を配って差し上げねばならないであろう。まあ、私などが口を出すまでもなく充分承知のことであろうがな」


 そそくさと弘徽殿の東面(ひがしおもて)を去る右大臣の背が消えると女院は顔をしかめた。


「中途半端な喧嘩は仕掛けぬがよかろうに。よほど舞い上がっておるのだな」


 左大臣が口もとに冷笑を浮かべた。


「小者めが」


 内大臣がその兄に視線を向ける。


「その小者の娘が孕んだのは確かでしょう。帝に御子が生まれるまでは絶対に避けたい事態でしたのに」


 声に非難の色がある。左大臣は苛立った表情を見せた。


「生まれるのは男とは限らん」

「運に頼るわけですか」

「そういった訳ではない」

「しかし」

「わが殿舎で言い争いはやめてもらおう」


 女院がぴしゃりと決め付けた。二人は頭を下げて礼を尽くすと次々とその場を去った。


「まったく、男というものは子供の頃と変わらぬな」


 苦笑する女院を領子は几帳(きちょう)の影から感心して眺める。未だ胸の奥を揺らし続ける父さえも、彼女にとっては童子と変わりない。


「これ、そう物の端に引っ込むな。そなたはこの場の主となるのだぞ。明日、色々と案内してやろう。例年よりも雪が降らぬので趣には欠けるが、それでも見所は多いぞ。帝のお暮らしになる場も垣間見せてやろう」


 領子には緊張を強いる敷居の高いこの場は、女院にとってはもう一つの住まいであり闘い慣れたいくさ場でもある。その暮らしを継ぐことを求められてはいるが、とてもなじめそうにない。彼女は意を奮い立たせようと(ひさし)に目をやった。控えている日向(ひゅうが)が視線で励ましてくれる。こちらも、目元だけで微笑む。


「夜も更けた。そろそろ休むがよい。すぐに寝所の用意をさせよう」


 華やかな色合いの大袿(おおうちき)高麗縁(こうらいべり)の畳の上に敷かれる。少し離れていく人もの女房が囲むようにまろび伏す。日向が片隅に場所をとるのを視界の端で捕らえる。


「灯りを落とせ」


 女院の命に従って大殿油(おおとなぶら)(灯り)が全て消された。それでも、部屋続きの廂の間に灯されたものが一つ、二つ残されているため完全な闇ではない。

 宿直(とのい)の役以外の女房たちは静かにこの寝殿の間を辞した。辺りに静けさが満ちた。


 領子は目を閉じて眠ろうとするが眠れない。それでも辺りの寝息に飲まれて浅い眠けを感じ始めた頃合に、西廂のふすまがするりと開くのを感じた。意識を尖らせていると衣擦れの音が領子にも女院の休む御帳台(みちょうだい)にも近寄りもせず端の方に回っていく。女房に用があるのだと納得して目を閉じるとようやく眠りが訪れた。


 静けさが特に深くなる()の刻(深夜十二時頃)の頃合、習慣で領子の眠りは浅くなる。そのとき再びふすまが開かれた。

 忍び寄る女房らしきものは今度はそのまま領子ににじり寄った。目を覚まして声を上げようとする口をふさぎ、押し殺した声で囁いた。


「お静かに。騒ぐと姫さまの乳母子(めのとご)が辛い目にあいますよ」


 驚いて日向のいたあたりに目をやるとそこに人影はない。青ざめて見返すと女は薄く笑って扇を一つ取り出した。

 かぎなれた淡い香の匂い。薄闇の中で絵柄や文字は確かめにくいが日向のものであることは間違いない。


「どうすればいいの」

「私についていらしてください」


 拒否したら日向の命が危うい。領子は黙って頷いた。


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