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土佐日記

死人注意

 女院側の仏事の手伝いを頼まれて、身近な女房の数が減っている。日向もなんだか忙しげに行き来している。そこへ里へ帰っていた少将が戻ってきた。その母の弁のおもとは先月の騒ぎで体調を崩し下がったままだ。

少将は他の者を下がらせた。


「おや、和歌を開いてもいらっしゃらないのですね。お手伝いいたしましょう」

「ええ。でもその前に聞きたいことがあるわ」


 薄ら笑いを浮かべて隣に座った彼女に、領子はきっぱりと告げた。脅えた様子に慣れていた少将は鼻白んだ。


「終わった後のほうがよろしいかと」

「なぜ、おじ様についたの」

 言い放つと相手は顔色を変えた。しかしすぐに、面憎いほどの平静さを保って言葉を返した。


「おっしゃる意味がわかりません」

「あなたは私と父を裏切り左大臣の手先となった。そして、ここに来る際の刻限と道すじを売った。お金のため? それとも恋人の身分を上げてもらうため? あなたの父は私の父の腹心だから親の出世のためではないわね」

「生まれたときからこちらに仕える私を信じていただけないとは。それに、あの時姫さまに付き添ったのは私の母ですのよ。その母を危険に陥れるわけがありません」


 つらつらと道理を述べる彼女に向かって領子はふいに笑いかけた。


「わかったわ。疑ってごめんなさい」

 少将の顔がわずかに緩む。そこへ言葉の刃を突きつける。


「でも嬉しいわ。私はお姉さまに一つだけ勝てるものがあったのね」

 相手が凍りつくのをかまわずに刃の数を増やしていく。


乳母子(めのとご)の情よ。それだけは誇れるわ。日向はたとえ母が質に取られようとも私を裏切らないと言ってくれたわ。この絆だけは私たちのほうが上ね」

 わなわなと女は震えだす。気づかぬ風にその喜びを語り続けると、引き裂くような声で止めた。

「大姫さまのほうが上です!」

 不思議そうに見つめ返す領子を憎々しげにねめつけると低い声で告げた。


「確かに私は道筋などを伝えました。ですが裏切ってなどいません。私の仕える方は大姫さまだけです」

「………父と私に背いて、姉が喜ぶとでも思うの」

 少将は口もとを歪めて薄く笑った。


「何もご存じないのですね」

「え?」

「何も知らずに大姫さまの衣をまとい、大姫さまの(しとね)に座り、大姫さまの御帳台(みちょうだい)に眠るのですね。その足元にさえ寄れぬほど不出来なあなたが」


 恨みや憎しみが焔のように燃え上がる。身分も立場も忘れて女は叫ぶ。


「あなたのせいで大姫さまは亡くなったのに!」

 声も出せず身じろぎ一つできぬ領子を言葉の矢で射抜く。


「あなたがいなかったら死なずにいられたのです、私の姫さまは」

「どういうこと………?」

「大姫さまの病をご存知ですか」

「いいえ」


 別邸に出かけていたおりに急に発熱し、そのまま状態が悪くなったと聞いた。手厚い看護も高僧の祈祷(きとう)も実らずに会えないまま亡くなった。


痘瘡(もがさ)です。姫さまはあのお美しい顔に醜い痕を残してしまった。けれど、生きてらっしゃったのです!」

「それなのに、なぜ」

「神託によれば生き残ることのできる女は一人だ、この顔では主上のもとには侍ることはできない。そうおっしゃってあの方は、あなたのお父上は………」


 目の前の領子がその人であるかのように睨む。


「姫さまの息の根を止めたのですっ」

「…………まさか……」

「何も知らずに与えられたものを甘受するだけの方は楽ですわね。侍従(じじゅう)は、あなたを一人前に育て上げることが供養になるといいましたが、そんなわけあるはずがないっ。こんなつまらぬ女が大姫さまの立場につくなんて! おまえなんか死んでしまえばいいっ」


 打たれたような衝撃が全身を苛む。身体が震える。

 野分のように感情をぶつける少将を前に、失った姉を思った。優しく美しく賢かった姉。たとえ醜い痘痕(あばた)を残そうとも、生きてさえいればきっと自分を支えてくれたはずだ。

 父の酷さに魂の緒が途切れそうになるほどの痛みを感じる。姉の喪失に身体を裂かれるような辛さを感じる。

 叫ぶことを領子は耐えた。瞳にたまった涙をそこから溢れさせぬために力を入れた。泣きたくはなかった。わめきたくはなかった。聡明で美しい姉の悲劇を、そんな俗なもので紛らわせたくはなかった。

 目の前で女が醜い言葉を吐き続けている。それは自分の大事な姉には不似合いだった。

 領子は静かに言葉を放った。


「じゃあ、あなたは?」

 意味を解さず見返す女に冷たく告げる。


「目の前で私の姉が殺されることを見過ごした人がなぜ平然と生きているの?」

 少将は目を見開いたまま声も出せない。


「そういえば侍従はあの頃から足を引いているわ。たぶんそのことを止めようとして傷を受けたのね。あなた、いえおまえは? 記憶にある限りその頃にさえそんな様子はなかったけれど」

「あなたにはわからないでしょう! 父の立場が下の私の気持ちなぞ!」

「ええ、わからないわ」


 冷然と見つめる領子の目がその父たる内大臣に酷似して見えて、女は息を呑んだ。


「私がおまえなら、たとえ相手が帝でもとびついて止めるわ。親の恥を晒すことになっても大声で叫んで人を呼ぶわ。たとえ殺されても、身内全てが身分を失おうとも止めるわ!」


 北風が心の中まで吹きつけてくるようだ。その冷たさが限界まで熱くなった自分を冷ましていく。絶叫したい気持ちをその風が抑える。

 しばらく相手を見つめた後、自分の中から醒めた声が響くのを聞いた。


「そんな情を他人に過ぎないおまえに求めるのは無理ね。謝るわ。ひどいことを言ってごめんなさい」

「……………」

「このことを知るのは二人だけなの? 弁のおもとは?」

「いえ。母はその時休んでいたので」

「そう」


 領子は微かな微笑みを浮かべた。優しいが諦めを含んだそれは、姉姫の笑みに重なる。少将は自分の身の内が震えだすのを感じた。


「しばらく里に下がっていて。父に余計なことは言わないから安心していいわ」

 呆けたようになった女を、凛とした声が促す。


「下がりなさい」

 女は無言で頭を下げ、その場から去った。


 御帳台までがひどく遠く感じた。帳を掲げて滑り入るとすぐに身を伏せる。

 脳裏に姉の顔が渦を巻いて廻っていく。

 姉に会いたかった。顔などどうあってもいい、声を聞きたかった。命さえあれば彼女は必ず立ち直っただろう。けれどその人はすでになく、道具としての自分を望む父だけが近親だ。


――――貫之の馬鹿。貫之の馬鹿。貫之の馬鹿


 小声で、何度も繰り返している自分に気づく。そしてふいに、その人の書いた日記の一節が頭に浮かぶ。

 『京へ帰るに、をんな子のなきのみぞ悲しびこふる』

 その途端、苦手なはずの彼の和歌がいくつも思い出された。


 あるものと忘れつつなほ亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける

 忘れ貝 拾ひしもせじ白珠をこふるをだにも形見と思はん

 むまれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ


 和歌の合間を言葉が舞う。『をんな子のためには親幼くなりぬべし』

 遠い時を隔てても色褪せぬ哀しみ。愛しいわが子を失った痛み。父親の深い情。

 止められない自分の涙に気づいた。


――――私は貫之に甘えていたのね


 心の底から娘を愛するただの父親を求めていた。無茶を言っても、わざと嫌ってみせてもひたすら思ってくれる人を。


――――そんな人は私にはいない


 涙と共に乾いた笑いが口もとに浮かぶ。なにもかも全て壊してしまいたい。和歌の草子を引き破り、硯箱を投げ、几帳(きちょう)を蹴り飛ばして転がり回りたい。


 けれど起き上がって御帳台を下りる。滑るように膝行すると文机(ふづくえ)の前に座り草子を広げた。

 父のことを口実に逃げたくはなかった。姉の死を無意味なものとしたくはなかった。

 一つ一つの和歌が見も知らぬ色を帯びているように感じながら、ひたすらそれを読み続けた。


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