氷雨
その日、雪にはならず氷雨が降っていた。
収奪に成功し手下たちと祝いの酒を呑む夜烏を残して、明烏は早めにその場を切り上げた。
自分の小家の前に立った時、何かの気配を感じてふと上を見た。すると隣の夜烏の家の屋根に動くものがある。見定めようと近寄ると、その影がふいに滑り落ちた。
とっさに動いて受け止める。その重みで少しふらつく。
「………助かったわ」
柔らかな物体が口をきいた。弥生だ。
「何をしている」
「雨漏りがするのよ。せっかくの絹が濡れそうだったので、穴をふさごうと思ったの」
片手に板切れを握り締めたままだ。明烏は女をおろしてやった。
「そんなものは誰かに頼め。女が屋根などに登るな」
「あんたたちの手下は私のものじゃないし。出来ることは自分でやるわ」
「布はおれたちのものだ。命じてかまわん」
「慣れないのよね、人に頼むの」
少し眉をしかめて困ったようにつぶやく。
「海賊でなければだめか」
「あの人たちだって私用に使う気はないわ」
無表情に男は言った。
「おまえほどの女の気を惹きたいやつはいくらでもいるだろう」
弥生はわずかに微笑を浮かべた。
「そういうの苦手だわ。自分でやる方がまし」
女を初めて見るかのように明烏は凝視した。
欲得抜きで女に惚れられたことはある。だがそんな女も、媚びることと甘えることをおのれの情の証に使った。嫌いぬく相手に啖呵を切る女なら見たことがあるが、無償で示さされた好意を拒む女は周りにはいなかった。
視線を避けて弥生は続けた。
「父親がいないからね、そっちに慣れてるのよ」
「早死にか」
「違うわ。最初からいなかったの」
細く冷たい雨が女の身体を濡らし続ける。気づいて明烏は自宅の戸を開けた。弥生は素直にそれに従う。床の端で寝ていた老婆が寄ってくるのを片手で払い、安い油の灯りをつける。女は土間との境目に座った。彼は立ったままで話を続けさせた。
「私は春に生まれたけれど、夕月は冬生まれなのよ」
「乳母子だと言っていたな」
「そうよ。私の母も夕月の母の乳母子なの。その人が孕んだ時、母は男を漁って私を宿したの」
「…………」
「子さえ得られたら誰でもよかったのよ。だから私に父はいないの」
暗くもならずに淡々と語る。
「母はね、夕月の母のためだけに生きていたの。どんな無茶だって聞いたわ。海賊にさらわれてしまいたい、なんて世迷いごとまで」
驚いて女の瞳を覗くと、相手は笑って見返した。
「夕月の母は高貴な方の召人(愛人)だったけれどね、なんだか辛いことがあったらしいの。で、死にたい、とか言い出したのよ」
それを止めると先の言葉を言い出した。通う男の弟の妻がそんな目にあったことを聞いていたらしい。
「普通だったら止めるでしょう。いや、母も初めは止めたけど強く言われて従ったみたい」
「今もそうなのか」
「ううん。乗った船が襲われた時にその人をかばって矢に当たって死んだの」
「………気の毒にな」
「まさか」
弥生は噴きだした。
「あんなに幸せそうに死ぬ人はいないわ」
そのままくっくっ、と笑いを含む。その様を明烏はいつもどおりの表情の無い顔で見つめ、言った。
「おまえが、だ」
女は笑いを止めるとほんの一瞬、泣きそうな顔をした。だがすぐにそれを抑えた。
「ありがとう。でも別に辛くはないわ。………夜烏はけっこう優しいし」
「そうか」
弥生はすっと立ち上がると戸口に手をかけ振り返った。
「つまらない話してごめんね」
「いや、いい」
薄い戸が軋みながら閉まった。
配下の一人が六条のあたりに小さな別邸を持っている。日の暮れた後、右大臣は忍んでそこを訪れた。
捕らえられた老婆は縛られてはいなかった。床に座り目を閉じている。さらわれた時も抗うことはなかったらしい。
「おまえが添い伏す巫女か」
問いかけに動じた様子もなく頷く。ありふれた老人にしか見えないが、貴人を敬う様子はない。
「内府(内大臣)のために符呪(まじない)をなしたか」
「頼る者のためには祈る」
しわがれてはいるがよく通る声が応えた。右大臣は少し驚いたが脅すような声で続けた。
「内府の敵たるこちらのためでもか」
「必要とあらば」
さすが下々の者は利に聡い。そう思い、侮りの色が濃く滲む。
「ならば祈れ。験があるようなら報いよう」
「何を祈る。人の死や不幸ならば断る」
存外にまともな言葉を聞いて驚くが、巻き添えを恐れるゆえであろうと考えた。
「わが裔の繁栄を」
「託宣によるな。それが無駄なこともある」
「内府は何を祈らせた」
「………女の命を」
右大臣は鼻で笑った。
「それだけでは栄華は望めぬ。他にもあるはずだ」
「われは一人に対して一つしか祈ることは出来ぬ。それも必ずしも事をなすとは限らない」
「今のうちから乏しい呪力の言い訳か」
老婆は苦く呟いた。
「確かに何の力もない。良かれと思うてしたことさえ害をなすこともある」
「まあいい。符呪を試みよ」
「おまえが望むならそうしよう。ならば共に寝なければならぬ」
顔をしかめて頷く。通らねばならぬ道らしい。
用意のなされた帳台の中で寄り添うと、巫女はすぐに寝息を立て始めた。実の母以上の年の老人が傍らにあることに慣れなくてしばらく起きていたが、やがて眠った。
夢を見た。起きた今は思い出すことが出来ない。だが右大臣は自分の頬が濡れていることに気づいた。
横にいたはずの老婆はそこにいない。薄い帳の向こうに透き影が見える。頬をぬぐって帳台を出た。
巫女は茵に座った右大臣に静かな声で告げた。
「無理じゃな」
息を呑んだ彼に優しく続ける。
「程よい程度の幸せではだめか。それならばすぐに叶うであろう」
「いらぬ!」
怒りが身のうちを滾らせる。次の間に控える鬼菱を呼んだ。
「殺れ!」
命じると男は巫女を立たせた。この場に穢れを持ち込むことを恐れたのだろう。引きずるように歩かせる。
逆らいもせず従った女は御簾の間際で振り向いた。
「恨みはせぬ」
張りのある声が響いた。
「ただ、このような手段でのみ進もうとするおまえが案じられる」
驚いて見返すと老婆はこちらを見ている。幼い孫を見るような目だった。
引き立てられて老婆の姿は消えた。何かを失ったような思いがわずかに胸をよぎった。




