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死にかけの男

 目の前に現れて行く手をふさぐ男には格別の意図はない。ただ、女の反応を楽しむだけだ。

 馬鹿らしい、彼女は思う。艶めいた態度を生業(なりわい)とする女や逆におぼこな小娘相手なら判る。前者は職業的な笑みを、後者は嗜虐心をくすぐる怯えを充分に与えてくれる。が、自分がそのどちらにも属さないことは自明の理だ。


「……あの、死にかけの所へ行くのか」


 答えずに不愉快そうな視線を向けると、馴れ馴れしく手を伸ばしてきた。触れられる前に払いのける。

 相手は別に機嫌も損なわず、にやにやと笑いを浮かべる。


「やめとけ、やめとけ。何の役にも立たないぞ」

「自分にしとけ、とでも言いたいの」


 上目遣いで見返す女の視線には嘲りがある。夜空に月は無く、背を向けた館からこぼれる灯りのみしか光は見えないが女の瞳の色は強い。


「あいつよりはましだろ。建前こそ兄貴だがもともと親父の子でもなし、馬にも乗れなきゃ太刀も使えねえ。船にのせりゃ半刻もたたないうちにげえげえ戻すし、その辺のガキより泳ぎも下手だ。その上病で死にかけている。おれは次の頭だぜ。比べられるほうが馬鹿らしいや」


 胸もとや腰に嘗め回すような視線を這わせながら口だけはよく動くその男を無視して歩き出そうとすると、再び両手を広げて道をふさぐ。


「……なあ、親父に抱かれてきたんだろ」


 答えずに見返すと妙に裏返るような声で口説き始める。


「おまえがあんな年寄りで満足できるとは思えねえよ。どうせいずれはおれのものになるわけだし、来いよ。極楽に連れてってやるぜ」

「巌六は当分跡目を譲る気はなさそうよ」

「急に気が変わることもあるさ。おれが上についたらおまえを正式に披露してやるよ。ただ女、って扱いじゃなくおれの片腕として使ってやる」


 そんな人生ごめん蒙る。だがこの単純な男に何を言っても通じそうになかった。女がなびくこと、それを当然と決め込んで疑うことすらしていない。くだらない。抱きさえすれば情が移って自分に従うと思っているのだろう。

 別に巌六に義理は感じていない。しかしこの安い男よりはまだしも利用価値がある。強い眼差しで脅し、怯んだ男の脇を行き過ぎていく。


「今におまえのほうから泣きついてくるさ、抱いてくれってな!」


 何一つ得ることのない無意味な言葉が、潮風に乗って消えていった。



 入り江を見下ろす高台の上にある館から少し離れて松林があり、その陰にいくつかの萱葺き屋根の家が散在している。手下や漁民たちの住家はそれよりも下で、入り江を囲むようにある。いくらか手近な数件は通いの多い従者と女たちのものだ。

 他に外れた一軒に入ると、ごく小さな明りが灯されていた。

 薄い明かりにやつれた顔が浮かぶ。眠っているように見えたが、枕元に座るとゆっくりと目を開いた。


「夕月」


 か細い声が女の名を呼ぶ。答えずに置かれた手ぬぐいを手桶の水で湿し、顔とうなじを拭いてやった。


「来なくてもいいといったのに」


 口もとに笑いを含んでいる。弱々しい声は意外に芯が強い。向ける視線もはっきりとしている。


「いつ死ぬか判らないんだから確認しときたいだけよ」

「言うねぇ。期待に応えておまえのいる時にくたばりたいもんだ」


 苦笑の中にごくわずかな甘さがある。本音なのだろう、と彼女は思った。顔から目を離し見回すと、先の訪れの際より部屋の様子は暖かい。

 充分に掻き立てられた炭火が初秋には不似合いに火桶の中で燃えている。病んだ男の休む下には畳が敷かれており、上には真綿を贅沢に使った大袿(おおうちき)が掛けられている。言葉は充分に効果をもたらしたようだ。


「………ありがとよ」


 礼など聞きたくなかった。醒めた視線を男にあてる。


「別に。いいきっかけだからそう言っただけよ。あんたが死んだら都に行くって」

「おかげで待遇が良くなった。引き伸ばしたいんだろな」


 男は目を閉じた。整った顔が病に削がれたせいで生気を失い、いっそう人形めいて見える。そのままぽつり、と言葉をこぼす。


「………行ってみたかったな」

「あんたを捨てた場所でも?」

「ああ。それでも、だ」


 静かな声だ。恨みも憎しみもそこにはない。全て洗い流されたように聞こえる。


「代わりに見て来てくれ。おまえの目を通して、俺もどこかで見ている」

「死んじゃったら見えないわよ」

「おまえが死なない限り、俺はほんとには死なないさ」


 青白い顔に唇だけが薄赤い。そこがゆっくりと動くのを見ていると怒りがこみ上げてくる。


「死んだらそれまでよ。巌彦は極楽に連れてってくれるそうだけど、あんたは勝手に一人で行くのね」


 義弟の名を聞いて眉を片方だけ少し持ち上げる。


「あいつまだ口説いてるのか」

「性懲りもなくね。父親に逆らうことも出来ない腑抜けのくせに」

「まあ、そう言うな。俺も同じだ」

「確かにね。抱いてくれって言ったのはあの時が最初で最後よ。後悔しながら死ぬがいいわ」


 夕月の白い指先が男の髪にそっと触れる。膚は熱いのにそこだけはひんやりとしている。


「そうする。おまえのことを思いながら死ぬ。あの時のおまえも今のおまえも子供の時のおまえも全部持っていく………もちろん、布巻いた姿も」

「それは置いてってかまわないわ」


 群れになって遊ぶ子供の中で、この二人は違う膚を持っていた。日に晒されると真っ赤になって痛むのだ。ひどい時は熱を持つ。自然と男はこもる生活を選んだが、勝気な夕月は目だけを出して布で身体を覆い、全ての遊びをこなしていった。都人だから、といたわられることは苦手だった。

 彼女は器用な性質だった。木に登れば誰よりも高く、遠くまで泳ぎ、走れば男よりも速い。裸馬さえ乗りこなし、面白がった海賊たちの教える実践的な武術さえ軽々と身に付けた。


「いや、持って行く。何一つ忘れたくない」


 声を出すことに疲れたのか、そう言ってしばらく黙り込む。炭櫃(すびつ)の火がはぜる。女も黙ってその顔を見つめる。

 男の目が開かれた。見慣れた、悪戯っぽい光が宿っている。


「………どうやら望みが叶いそうだ」


 夕月が少し息を呑む。すでに覚悟はしていた。


「苦しいの?」

「逆だな。今、凄く楽だ。海が凪いで鏡みたいになることがあるだろ。あんな感じだ」


 見つめる女に笑みを向けた時、苫屋(とまや)(粗末な小屋)の戸が開かれた。

 戸口に手を掛けた少年は驚いたように二人を見つめた。その面差しは二つに切った瓜のように夕月に似ている。


「見舞いに来たんだけど、じゃまかな?」

「いや。上がれよ。ちょうど死ぬとこだ。見ていかんか?」


 少年は目を大きく見開き、慌てて首を横に振った。


「そんなに悪趣味じゃないよ。二人でごゆっくり」


 戸を閉めかけて再び開き、首を突っ込むと言葉を足した。


「ああ、言い忘れた。おれ、あんたのこと実の兄貴みたいに思ってたよ。だから残念だ。さよなら、頼兄。たまには思い出すよ」

「ああ。元気でな、三日月。夕月のこと頼む」

「頼まれるような女じゃないよ」


 少し微笑み、それから光るものを見せる間も無く戸を閉めた。

 魚油に浸した灯心の焔が揺れる。火影で男の頬の色が増す。無言で見ている夕月に男の眸が向けられる。

 風が吹く。粗末な家はわずかに軋む。潮のにおいが部屋を満たす。幼い頃より共にあったそのにおいを失う確実な予感がした。

 再び目を閉じた男はかすれたような声をぼんやりと聞いた。


「………あんたが死んだら、人をやめるわ」


 その意味を考える力はすでになかった。ただ確信を語った。胸が痛んだ。


「いつか、他に好きなやつが出来る」

「無理よ」


 この瞬間、女がそう信じていることだけでも大した幸運だと素直に思えた。


「いや。生きていくんだからしょうがない。俺は卑怯にも美しい思い出と化す」

「確かに卑怯ね。勝ち逃げじゃない」


 答えなかった。答えられなかった。ただ口の端に微笑のような影を宿した。



 男はそのまま二日生きた。夕月は少しずつ失われていく体温に触れ、逆に濃くなりゆく死相を見つめながら時を過ごした。


――――死に際の割りにしゃべりすぎると思ったわ


 人をくったようなとぼけた死に様。いかにもこの男にふさわしかった。

 疲れて傍らに伏し、ついまどろんでいた時に人の気配を感じた。仁王立ちになった巌六が見下ろしていた。

 その視線は女にはなく、死にゆく男に向けられている。

 血のつながった息子さえ傍に寄せなかった巌六にとって、唯一赤子の頃から見慣れた顔だった。


 その母は土佐の国司の娘だった。が、都に残り権門の子息の妻として不自由のない暮らしを送っていた。ところがその父が国元で病んだ。

 知らせを聞いた娘は孕んでいた。父のもとへ駆けつけることなど夫が許さないことを知っていた。文だけ残して牛車を走らせ、数少ない供を連れて船に乗った。そして海賊に襲われた。

 そのことを不快に思った夫は手を打たなかった。女は巌六のもとで子を産み、五年ほど生きた。


 母を失ったその子を売り飛ばすことも出来た。手下に与えて便利な手駒として育てることも出来た。が、巌六はどちらも選ばず身近に置いた。離れた島に置いた別の女が自分の子を産み扱いの違いに不満を述べたとき、さっさとその女を淫売として売った。息子は手下に預けて省みなかった。

 死んだ女の子供は身近にいると呆れるほど不器用だった。血筋のせいか、海の男として身に付けなければならないことは全て苦手だった。なのに不思議と人望を集めた。自分も周りも次の首領と目して外さなかった。

 軋みが響き始めたのは二年前だ。二人目の女が死んだ。そのせいだ。

 高貴な男の召人であったらしい女は、自分のことを語らなかった。捕らえられ奪われても妙に反応が薄かった。すでに心が死んでいた。連れていた二人の子供にさえも情を示す様子がなかった。潤んだ瞳で遠くを見ていた。

 巌六はかえって気楽だった。泣くでもなく騒ぐでもなくただ自分を受け入れる凄艶な美貌の女。だがその瞳の奥に残った悲哀の影は少しずつ自分を歪めていった。

 闇に呑まれるように女が死んだとき、喪失の虚を認めることが出来なかった。だからその娘を呼んだ。ただそれだけの話だ。

 そして育てた男は病んだ。逆らうこともなく。


 腕組みをして見下ろす巌六の足元で男は身じろぎもせずにゆっくりと死んでいく。

 躯の中で何かが吼える。存分に刃を振るって闘う時とは違う、冷えた怒りが身の内を占める。

 巌六は黙って腕を解き、見慣れた顔を睨みつけると荒々しくそこを出て行った。

 それからまもなく、男は死んだ。


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