白馬節会
正月すらなかった。わずかに屠蘇が注がれ歯固めの儀があっただけだ。膳が下げられると途端に侍従がにじり寄って和歌を暗唱させた。
「………死にそう」
「姫さま、こちらも巻き添えです」
わずかな隙を見つけて傍らの日向に囁くと恨めしそうに応えられた。
「世の中に絶えて短歌のなかりせば私の心はのどけからまし。愚痴まで三十一文字になるわ」
「今、わりに上手く詠んだと思ったでしょう。あまりよくはありませんよ、それ」
「私じゃなくて世間のほうがずれているのじゃないかしら」
「残念ながら違います」
肩を落として息を吐くがからかうような日向の視線が心地よい。
先日、盗賊との宴の後の明け方にこっそり部屋に戻った。夕月が気を配ってくれたため誰にも見つからなかったが、御帳台にたどり着いて驚愕した。そこに人が休んでいるのだ。呆然として近寄ると、自分の声がそれを止める。
「気分が悪いの。しばらく一人で休ませて」
「えええええっ」
腰を抜かしかけてぺたり、と座り込むと寝ていた人物が顔を上げた。
「………姫さま」
「………日向」
そういえば声色が彼女の特技であることを思い出した。日向は素早く起き上がり、領子の手を引いて帳の中に入れた。
「汚れていますね。脱いでください。私が粗相をしたことにしてどうにかしますから」
言われるままに衣を脱ぐ。日向は衣をかついでいったん部屋から出ると、強く香を薫き染めた物を持ってきてくれた。
「なんだかお酒のにおいがします」
「……聞かないの?」
「聞きたいですよ」
泔坏から冷たい液体を髪にこぼすと梳いてくれる。
「でも、大方の予想はついています。盗賊の人たちと遊んでいたのでしょう。こんなに明け方まではいけませんよ。気が気じゃありませんでした」
領子は呆気に取られて彼女を見つめた。
「なぜそのことを知っているの」
「五の宮さまです」
意外な名を日向は答えた。
「あの方が文をくださいました」
みすぼらしい老人の文使いは五の宮の下人だったのだ。少年は事の起こった当日すぐに日向に文を届けてきた。あの時領子に飛びついた様子を見て信頼に足る人物と見なしたのだ。
「恥ずかしいわ」
領子は薄く涙ぐんだ。
「初めて会った宮さまですらあなたのことが判るのに、私はひとときでも疑ってしまった」
「たとえ母を質に取られたとしても私は姫さまを裏切りませんよ。乳母子ですからね」
そう言ってくれた日向の手を強く握る。彼女も握り返してくれた。胸に温かなものが満ちる。同時に脳裏に一つの解が示される。だがそれをそのままにして疑問のほうを口にする。
「宮さまはなぜ盗賊だと見抜いたの」
「会ったことがあるそうです。その、女の盗賊の方に」
以前出会い、なおかつその一人が女性であるとの疑いを持った。五の宮はそのときわざと男呼ばわりそして周りの反応を確かめた。
「身の丈も同じ女盗賊などそうはいないだろう、と書いてありました」
さすがに海賊であることまでは気づいてはいない。
「無理に止めるとかえって危ないので、露見せぬよう気を配ってほしい、と」
あどけなくさえ見えた少年の心遣いに胸が熱くなった。
そのことまでを思い出して領子はふいに頬を染めた。
「次は和琴のお稽古です」
女房の一人がそう告げに来た。二人は慌てて表情を引き締めた。
二十一頭の白い馬が走る。
年の初めの白馬節会だ。邪気をはらうため、毎年七日に内裏で行われる。帝以下、殿上人が集って眺める行事だ。貴人の妻や仕える者など、車で見物に訪れる者もいる。
だが今年は様子が違った。駆けてゆく馬の後ろを貧しい身なりの庶民たちが大声を立てて追っていくのだ。
身分の低い者たちが内裏の内にいないわけではない。殿舎には上がれぬが、様々な従者たちが自分の主人を待って目立たぬ場所に控えている。が、この日現れたのはもっと下層に属する者たちだ。
こともあろうに帝の視界を小汚い男たちがよぎる。清涼殿の東庭は、その威と趣を失った。
われにかえった人々は、警護の近衛を中心として狼藉者どもを追い回した。すると下郎どもは蜘蛛の子を散らすように分かれ、或いは紫宸殿の南庭へ、或いは後宮の壷庭へとわらわらと逃げていく。
大混乱となった。滝口の武士どもも参上したが、めでたい新年の穢れを忌む聖所で、まさか人を切り捨てるわけにもいかず困惑している。
女房たちも当初は脅えたが、相手が特に刃向うつもりのないことに気づき、御簾をくぐって様子を窺っている。
男たちが逃げ失せるか、もしくは捕縛されるまでにかなりの時を要した。
捕まった者たちに悪びれた様子はなかった。縁起のよい白馬を眺め、追いついて馬に触ればご利益があると噂になっていたらしい。長く据え置くほどの罪ではなし、多少身を打ってすぐに解放してやった。
異変に気づいたのはその後だ。縫殿に仕える下級の女官がそれを知らせた。
「大量の絹が盗まれました」
慌てて調べると染め上げたものがごっそりと消えている。
「市で売るつもりであろうがすぐに判るわ、愚か者め」
殿上人の一人が嘲った。
盗まれたものの大半は禁色中の禁色、麴塵の色に染められたものだった。これは帝の袍の色で、他は下賜された蔵人、内宴の文人や賭弓の射手に許されるだけだ。うかつに身に付ければすぐにばれる。
「一見地味な色合いに見えるからな」
「枯れ草にも見まごう山鳩色、しかし経は青、緯(横)は黄で実は大変に手が込んでおる。下郎どもにはわかるまい」
「もの知らずの盗人どもよ。さっさと追捕されるがよい」
「早く戻れば賭弓に間に合いますな」
さっそく市に人をやって見張らせた。しかしなぜだかその布は二度と現れなかった。異国か、遠い地方の分限者にひそかに売られたのだろう、と人々は噂した。