盗賊の闘い
死人注意
女院のもとに控える領子の父、内大臣の顔色は紙のように白かった。
「重ねがさねの失態、取り繕う言葉さえありません」
「よい。狙い方があまりに巧妙だ。避けることは難しかった。ともあれ姫が無事でよかったとしよう。それにしても、馬に乗って逃げるとはなかなか肝の太い姫であるな」
「お恥ずかしいことです」
「幼い頃、なかなか活発であったことを思い出した。廊を駆け抜けたり円座を遠くまで投げたりしておったな。近頃はだいぶ大人しかったゆえ忘れていた。亡き大姫とは違うな。むしろあの姫に似ているのは…」
女院は苦笑して一度、言葉を止めた。
「それより問題は刻限や道筋が漏れていたことだ。これはこちらとそなた側のごく少数の者しか知らぬ。ということはどちらかもしくは双方に、兄上か右大臣の手の者が潜んでいると思う」
内大臣は顔色を変えた。
「なんと! まさかそのような」
「いや、確実にいる」
「すぐに新参の者を調べ上げましょう」
「古参の者のほうに潜んでおるのかも知れぬ。このたびの刻限を知る者は少ない。長く使う者どもだけだ。上手く聞き出したとも考えられるが」
「素性の確かなものしか近づけてはおりませんが、どのように策をめぐらしたものか」
「なんにしろ姫はこちらに留め置こう。さすがにこの宮に攻め入ることも出来まい。入内の日までこちらで世話をしよう」
内大臣は謝意を示した。女院はそれにただ頷いた。
右大臣の怒りを受けて鬼菱はかしこまって拝礼した。
「確かにその命を奪うことは出来ませんでした」
「そこまで追い詰めながら何たる不手際! 口ほどにもない奴!」
「梁の上にまで昇った時点でたばかれたとは気づいたのですが、まさかそこに得体の知れぬ者どもが現れて姫を守るとは不覚にも考えもせず」
「ぬぅ……」
すでに几帳を蹴立て、高欄から身を乗り出して相手を睨む。
「内府(内大臣)の手の者であろう。無頼の者どもを使いだてるとは公卿の風上にも置けぬ。さっそく暴き立ててやろうではないか」
自分のことは棚に上げて吠え立てる。僧形の男はそれに答える。
「左府(左大臣)殿の郎党どもは把握しており利用したのですが内府殿のそれまでは存じておりませんでした。さっそく探索に入ります」
「何か手はあるのか」
「心細いほどの糸ですが」
「聞かせろ」
「はっ。われらを狙った弓の者が近隣の百姓にも珍しいほど日に焼けておりました」
「ほう」
「以前に同じような色の者どもを見かけたことがあります。そのあたりを洗ってみるつもりです」
そう言って凄みを利かせた表情を浮かべた男に気圧されて、右大臣はしばし黙った。
「必ずやご期待に添う働きをお見せいたしましょう」
「うむ。全て調べ上げることを待っておる」
薄い笑いを浮かべて冷たい白砂の上の男は平伏した。風がその上を吹き上げていった。
そこは洛外だ。都の北の方角で雲林院とさして離れぬ場所にある荒野だ。日中こそ稀には人の行き来があるものの、夕暮れともなるとそれは絶える。ましてや今は戌の刻(午後八時頃)で人の影さえ見えぬはずだ。が、四方に灯された立て明かしによってあまたの影が映る。
師走も押し詰まっているが今年の雪は薄い。朝がくればはかなく消えるはずの淡雪を踏みしめて男たちは集う。太刀を握る者もあれば棒を振り回す者もいる。
電の千虎は巨漢だ。けして小さいわけではない夜烏よりも頭一つほど丈高い。身体もそれに見合って大きく、筋張っている。三十路半ばの年の頃だ。
「来やがったな、小わっぱ」
「来てやったぜ、デブ猫」
「ぬかしやがる」
千虎はにっ、と笑った。引き連れた五十を越えるほどの数の手下どもも憤りはしない。数を頼みに余裕を見せる。一方、海賊たちを加えてさえ四十には全く満たない夜烏の手下たちも意気盛んである。
「いきなり大将戦でいくか?」
夜烏の問いに千虎は首を横に振った。
「うちはてめえン所と違って数が多いでの、手柄立てたくてみなうずうずしとる。ある程度手合わせるまでおれは出ねえ」
「それでかまわねえぜ。いくか」
千虎の手下が口を出した。
「頭は双方下がって、それを選ばれたやつら五名が守る。残りは総力戦だ。カタがつかないようなら今度はタメで頭同士がやる。それでいいか」
「こっちに不利だな。ま、仕方ねえ」
了承すると夜烏は古参に加えて新参を一人と海賊を一人守りに選んだ。
「退屈させて悪いな、おまえら」
「なぁに、たまにゃ高みの見物も乙なもんですぜ」
軽口を叩く男たちが下がると、残りの男たちが向き合った。
野は冬枯れだが背の高い茅はわずかに緑を残して山鳩色に茂っている。その上に粉雪が降り積もる。
ほんのひとときの間、全ての音が消えた。まるで凍りついたように張った空気は、双方どちらからともなく上がった叫びで裂けた。
明烏が太刀を構えて敵の群れの中に突っ込んでいく。遅れるものかと男たちが従う。
千虎の手下も迎え撃つ。鋼と鋼がぶつかり合う。
明烏の動きは的確だ。けれど夜烏と比べるとやや柔軟さに欠け、強さと鋭さの割には辺りを圧する気配はない。海賊たちも善戦はしているが、状況を覆すほどの差は見出せない。
だが、何の心配もいらなかった。闘いはたった一人を軸として繰り広げられている。
黒い水干、長い髪。この夜は顔を覆っていないため闇の中でもその美貌が妖しく映える。彼女の前ではいかなるものも抗い抜くことは出来ない。
太刀は血と脂に汚れる。強い衝撃で玉鋼も欠ける。その夜の夕月は隙さえあれば他者のものさえ奪った。
「あれを見ろよ」
夜烏は手近な男に声をかけた。
「男にとって太刀は女だ。一度握ればしばらくは共に寝ようと思うじゃねえか。だが、あいつ自身がとことん女だ。ためらいもなく敵娼を変えやがる」
鮮やかな軌跡が描かれていく。刃に呑まれる男たちは自ら望んで身を投じるようにも見えた。
棒や刀を交わすとき男たちは互いの力量を意識せずに見測る。無言の敬意や共感、或いは軽侮がそこにある。が、夕月の太刀にそれはない。道具であるだけだ。
ざくり、と男が切り捨てられた。
いつの間にか明烏側の数は相手とさして変わらない。形勢不利と見て千虎を守る男たちが大声を出した。
「やめっ! 大将戦だっ!」
叫びが上がってもしばらくは収まらずに打ち合う音が響いた。
やがて、二手に分かれて男たちが下がる。夜烏はひょいと立ち上がって前へ出た。
「泣いてお願いするんなら見逃してやってもいいぜぇ」
「逆だろ、そらぁ」
千虎は苦笑して、むき出しの太刀の柄を掴んだ。そしていきなり打ち掛かってきた。
瞬時に夜烏は飛び退る。千虎は続けて踏み込んだ。夜烏は右手に持つ鞘のままの太刀で受け、その間に左の刃を抜いた。
膂力に勝る千虎が満身の力を込める。上体を反らせてそれに耐えた夜烏が、左手を突き上げた瞬間、相手はさっと離れた。
雷の名を持つだけあって、この巨漢の動きは素早い。稲妻の勢いで再び突っ込む。しかし夜烏はすでに鞘を抜き払った太刀でそれを受ける。
剣戟の音が響き渡る。身にしみるような寒さを誰も感じてはいない。
巨漢の動きで夜烏が左に握ったものが弾かれた。ちっ、と舌を鳴らして後ろに下がると、駆け戻って高く飛んだ。
白刃が煌めく。続けざまの猛攻に千虎の太刀が堪えかねて折れた。
見守る男たちが沈黙した。さしもの大男の顔色が変わる。が、夜烏は不敵に笑うと自分の太刀を投げ捨てた。
「来いよ、デブ猫」
「わっぱっ、後悔するなよ!」
地響きを立てんばかりの勢いで飛びついていく。
大木のように太い腕が相手に向かって振り下ろされる。夜烏はそれを片手で止めた。すかさず千虎は蹴りを放つ。細身の体ははね飛んだ。
「立て、小わっぱ」
「ったりめーよ」
地に伏した際に擦ったらしい頬の血が細く流れるのを舌先でちょろりと舐めると立ち上がる。
殴打の数は数え切れない。共に、死力を尽くして打ち合った。双方の荒い息が、固唾を呑んだ男たちの耳元まで届く。
夜烏は何度も倒れた。だがそのたびに、誰の助けも受けずに立ち上がる。ぼろ布のような姿になってもその目だけは爛々と輝いている。
千虎が叫びながら拳を突き出す。が、相手は疲れ果てた身体に似合わぬ派手な跳躍を見せた。
一瞬見失って隙の出来た千虎に満身の力を込めた一撃を打ち込む。
どう、と巨漢は倒れた。
再び世の全てが凍る。男たちは息を止めている。
「う………」と千虎はうめき、瞼を開いた。どうにか立ち上がろうとするが軸が定まらずによろめいて、また転倒した。
口もとが苦笑で歪む。
「………てめえの勝ちだ、夜烏」
地を動かすほどの歓声が沸き起こる。夜烏側の盗賊たちは飛び上がって喜んだ。が、夜烏は醒めた眼差しで千虎を見つめた。
「わかった。で、俺につくか?」
その問いに巨漢は頷いた。途端に夜烏が頬を緩めた。
「きへへへへへへっ。ただのデブじゃねぇと思ってたぜ」
「ぬかせ」
手下に手伝われて立ち上がった千虎は、痛みに顔をしかめながら叫んだ。
「いいか、おまえら。おれはたった今からこいつにつく。不満があるやつは今すぐ前に出ろっ!」
誰も動かない。何の衒いもない素手での戦いは十分に男たちを納得させていた。
「よし。じゃあおまえら。意味は違ったが酒はたんと用意してある。呑め。こいつらはもう仲間だ」
「その前に俺たちは頭の仕事だな」
「ああ。呑んどけ! 酒で負けたら承知せんぞ!」
手下たちはわっ、と酒に群がった。
夜烏は後方に下げられた負傷者の方へ移った。歩けるものはほとんど、中には仲間に抱えられてまで酒に向かう者もある。が、その一角だけは異質な静けさに満ちている。
「何人だ?」
「二人。あと岩丸がもう……腹やられてるんで」
かすれ声が低く嗚咽する。片目の男が横たわっている。
「よお、岩丸。怖いか」
男がふらふらと声のほうへ片手を伸ばす。
「......死にたくねえ、死にたくねえ」
「死ぬよ、おまえ」
ひ、と岩丸が息を止め、それから泣き声を漏らした。夜烏はそれを聞き、肩を叩いた。
「みんな死ぬんだ。俺もおまえもだ。早いか遅いかだ。気にすんな」
「………おれ、極楽には行けねえ」
四方に立てた明かしの一つが死にかけた男を照らす。今宵の月は未だ出ない。夜烏は陰鬱な笑いを見せた。
「極楽なんてねえよ。地獄もだ。安心して死にな」
「………」
「仏なんてな、金のあるやつ専用の幻だ。そんなもんできる前から人は死んでんだぜ」
背後に人の気配がした。夕月が立っている。夜烏は振り返らない。
「で、どうする?すぐに楽になりてぇか、最後まで粘るか」
「……………楽に…」
「よし。あばよ、岩丸。おめえはよくやった」
白刃がひらめき、手下の男は逝った。夜烏はその目を閉じてやるとくるりと背後に向き直った。
「どうした? 酒ぐらい付き合ってやらないとあっちも負けた甲斐がねえだろ。さあ、行った行った」
女は無言で見返した。だが肩を押されると逆らいはせずに群れに戻った。男たちはまた歓声を上げて二人をそれぞれ取り囲み酒を勧める。
「本日の最大の功労者に酌なんてさせるなよ! どんだけ飲ませるかを競え! 海賊たちにも呑ませまくれ!」
夜烏の煽りに男たちは次々と夕月に土器を渡す。微かに口を付けるだけの夕月も、数が多すぎてさすがに頬を染める。千虎も大きな土器を突き出した。
「鬼をもあざむく使い手がこれほどの美女だとはな。呑んでくれ。近づきの印だ」
土器を傾ける女の姿に全てが見惚れる。男たちの熱が一人に集まる。
夜烏は自分ではあまり飲まずに負け方や海賊たちに勧めている。手下の盗賊たちも一部の者はそれに従い接待に勤めている。
さんざん騒いだ千虎たちは、最後は今日までの仲間だけで語り合うためにその場を辞した。後姿を見送って、夕月は仲間を集め始めた。
「気が早いねぇ。まだ子の刻(午前十二時頃)に入ったばかりぐらいだろ」
「明日も勤めがあるわ」
高く笑うと夜烏はふいに太刀を抜いて夕月に突きつけた。
「帰せねぇよ」
ざっ、と人が動いて海賊たちを囲んだ。
「もう少し、付き合ってもらおうじゃねぇか」