邸の隣人
死人注意
寝殿の階を駆け上がろうとした瞬間、何かが領子の髪をかすめて飛んできた。それはそのまま廂の間に突き刺さる。追いすがろうとした男たちも思わず立ち止まって振り向く。
「その方を渡していただけませんか」
さえざえとした声が妙に丁寧な口調で話しかける。僧形の男だ。
「誰でえ、おまえは」築地塀から駆け込んだ男の一人が問いかけると、男は片頬を歪めて答えた。
「無常の鬼菱、と呼ばれております。どうぞよしなに」
言うなり鉄菱を投げつける。一人の男が倒れ、もう一人は肩を砕かれて太刀を取り落とす。
「てめえっ!」「何がよしなにだっ!」先の男たちが叫ぶ。太刀を構えて切りかかると、七、八人の男たちが鬼菱を守る。
その機会を逃さずに、五の宮と領子は邸の中に駆け上がった。
「先に行くのでまろの踏んだ後だけをついて来てください!」
理由はわからないがとにかく従う。走る二人を追って男たちも中に駆け込んできた。
「うおっ!」「ひやっ!」
叫びの後に、人が重なり合って転倒するような鈍い音が響いた。少年は振り返らずに西の対まで走り塗籠(室内倉庫的な部屋)の中に駆け込んだ。
「な、何?」領子の問いに五の宮が答える。
「邸が古いので下手に走ると床が抜けるのじゃ。まろは慣れておるので平気じゃがな」
「仕える人はいるの? 検非違使(平安警察)の所まで走ってもらえば…」
「いないことはないが年寄りばかりじゃ。気配を感じて震えておるのであろう。使うことは出来ぬ」
ばたばたと邸を駆け回る音が響く。時たま床を踏み抜く鈍い音もする。
「こうしてはおれぬ。姫、すまぬが脱いでください」
思わず領子はずり下がった。
「えええええっ」
「ああ、いや、そういう意味ではなく」
また耳まで染めながら五の宮は端的に言葉を続ける。
「衣を取り替えるのじゃ。そなたの髪はあまり長くない。どうにかみずらを結える」
背を向けて雲鶴の紋様の袍と袴を脱ぎ、領子の方に押しやる。彼女は首を激しく横に振った。
「必要ないわ。あなたが殺されちゃうかもしれないし」
「そなたの命が奪われるよりもそのほうがましじゃ」
「助けてもらってもさっきの話を受けるわけにはいかない。だからあなたはそんな危険なことをしなくていいの」
「それとこれとは別の話じゃ。助けられるかもしれない女人を出来れば見捨てたくはない。それにまろはこれでも皇子じゃ。詮議がうるさいであろうし、さすがに殺されることはないとみた。それより姫、時間がない。お脱ぎにならないのならば少々強引な手を取るがよろしいか」
「……わかった。もう一度後ろを向いて」
互いに互いの衣をまとう。五の宮は自分の髪をほどき単衣の中に着込めた。すっかり少年めいた姿になった領子の髪をみずらに結う。
「いつも自分でするの?」
「人手がないのでな。おお、なかなか愛らしい」
少年はほんのわずかの間見惚れ、それから顔を引き締めた。
つっかえ棒と錠とで閉ざされた扉が激しく叩かれる。見つかったらしい。
「これを!」
唐櫃の中から砂金の詰まった袋を取り出すと領子に押し付ける。
「どうにかして北側の邸に行くのじゃ。そこの者は金次第で何でもする。これを手渡して馬を用意してもらえ!」
五の宮は床板を引っ剥いだ。
「まろが引きつける。すぐに行けっ!」
領子は床下に飛び込んだ。
埃と蜘蛛の巣だらけの中を這いずって進む。ところどころ床に穴が開いているので気を使う。
五の宮はどうにか悪人の手から逃れ、かく乱に勤めているらしい。離れたところから騒ぎが聞こえる。と、思いきや凄まじい足音が集団で近づく。
脅えていると音は再び遠ざかる。気を取り直して這いずると、指先が硬いものに触れた。床の穴から漏れる淡い光にかざすと鉄で作られた棘のある歪んだ球体だ。いざという時は武具にしようとそれを袖に入れた。
「どこへ行ったっ?」「あっちだ!」「門を固めろっ!全部だっ!」
叫びが聞こえる。門をふさがれたら隣にはいけない。領子はしばしその場に留まって考え込んだ。
――――鉤のついた紐さえあればよじ登れるけど
そんなものは手元にはない。悩みながらまた、北に進む。
床下には時おりごみが現れる。半分に欠けた青磁の椀、漆のあとさえ見えぬ壊れた文箱。古びた御簾の破れたもの。
それらの横を通り過ぎる時ふとひらめいた。
――――無いなら作ればいいわ
御簾に絡んだ古ぼけた紐を外す。手近な石を結び付けようとするがどうも不安定だ。
思いついて袖から先刻拾った鉄を取り出して結ぶ。棘がいい具合に歯止めになって上手くいった。
ついに北の対の外れにまで来た。ここから北はすぐに隣家で通用門はない。慎重に見つめ、まず最も北に位置する雑舎の床下にもぐりこんだ。それから様子を確かめ、塀に近づくと鉄をくくった紐を投げた。
紐は古い。切れてしまったらどうなるかと、不安に駆られながらも他に手段はない。領子は紐に自分を預けて登りきった。
「ガキが塀の上に!」「男はほっとけ!」「姫を探せっ」
叫びで肝が冷えるが何とか登りきった。いったん腰掛け、それから飛び降りる。そこにはやはり古びた邸がある。駆け寄って人を呼ぶ。現れた下人に叫ぶ。
「お金は渡すから馬を用意して!」
下人は厩舎(馬小屋)らしき方角に駆けていった。領子は辺りを見回した。
――――この邸は……
あの時は興奮していたが間違いない。自分が最初にさらわれた場所だ。邸の裏にはあの時の蔵があるはずだ。
馬を連れた下人と整った身なりの初老の男が現れた。
「馬をお買い上げくださるようですな。事情は問いませんがこの馬は高いですよ」
安っぽい馬だ。が、彼女の皇子姿についてさえ尋ねようとはしない。
「これで充分のはずよ」
砂金を渡してやると頷いた。
「よろしいでしょう。また、ごひいきに」
飛びつくように馬に乗って手綱をつかんだ瞬間に男たちの一団が築地塀の上に顔を出す。
「いたぞ!」「こっちの方が姫だ!」
かまわず走らせるがいきなり飛来したものが馬の横腹に当たった。
馬は崩れ落ちるように倒れ、領子は投げ出された。
体が痛い。が、命に別状はなさそうだ。無理に身体を起こすが、囲まれる。
僧形の男が邸の者に声をかけた。
「少し騒がしいでしょうがご勘弁を。これは些少ですがお受け取りください」
「待って!邸に帰ればいくらでも支払うわ!」
初老の男は酷薄そうな笑みを浮かべた。
「その場でいただける物にしか興味がないので」
「大そう賢明なお考えです。きっとあなたは長生きしますよ」
銭の袋を渡しながら鬼菱は男を誉めた。彼らはさっさとその場を離れた。
「さてと、鉄菱で始末するのは気の毒ですね。なるべくご希望に沿いたいのですがどのような死に方がお好みですか?」
「老死っ!」
「残念ながらお聞き入れすることは出来ません」
手下の一人が太刀を渡そうと近寄る。
「私の腕は悪くありませんよ。目を閉じていてください。さして苦しみませんから」
必死に後ずさるがぐるりと囲まれている。僧衣の男は太刀に手を伸ばした。その時。
風を切って矢が飛んできた。
鬼菱はとっさに避けたが、代わりによろめいた太刀を持った手下の顔面に矢が刺さった。
ぞっとする気持ちを抑えながら、男たちが仲間の叫びに気を取られている隙に矢が飛んできた方に向かって走り出す。
すぐに気づいた男たちが追いすがろうとするとまた、矢が飛んできた。しかも今度は別の方向からだ。狙いは正確で、足を撃たれた男が転倒する。
「邸の上だ!」「屋根だっ!」「塀にもいるぞっ!」
鬼菱に向かっては特に激しく矢が降る。拾った太刀で払っているため領子に鉄菱を投げられない。
それでもしょせん姫君の足、あっという間に一人の男が追いついて飛びついた。
と、思いきや男の背には太刀が突き刺さる。物陰から凄まじい勢いで黒い馬が飛び出す。
馬上の人物は投げた太刀とは別の太刀を手にすると馬から身を乗り出して手近な男を切り裂いた。
血を噴いて男は倒れる。馬はぐるりと半円を描くと別の男を蹄に掛けた。
降り注ぐ矢の雨の中、鬼菱がわずかな隙をついて鉄菱を取り出し領子に投げつけた。
遮ったのは馬の体だ。それが何であるか判別のつかぬ間に鉄菱をその身に食い込ませてどう、と倒れた。
「夕月!」
黒い水干を着けたその人は目元だけを出して布で顔を覆っているが、領子には一目でわかった。
彼女は瞬時に飛び降りると同時に刃をひらめかせた。
また、一人の男が倒れる。すでに鬼菱を守る男たちは二人だけだ。
「今は引きましょう」
ざっ、と駆けつつ鬼菱は叫ぶ。矢はそれを追うが届かない。手下とともに姿を消した。
倒れたままの領子に夕月が手を伸ばす。それを掴んで立ち上がる。
「………待たせたわね」
領子は首を横に振った。片方のみずらがほどけて肩に流れる。
「似合うわ、その格好」
その言葉で気づいて焦る。
「お願い、隣の邸にいる宮さまを助けて。私の姿で逃げているの」
すう、と夕月の目が細められた。
「そんな義理はないわ」
それもそうだ、と領子は思う。この美しい鬼に人の心を求めるのは間違いだ。
「わかったわ。助けてくれてありがとう。みなさんもありがとう!」
最後の言葉を海賊たちに向けると門を捜して走り出す。だが夕月に遮られた。
「止めても聞かないわね」
「気絶させたらあなたのことを恨むわ」
相手の行動を予測して、脅しにならぬ脅しを口にする。夕月の目に面白がるような色が浮かんだ。
「ついでだから行ってやりやしょうや。姫さんが気にしてるようですし」
「その程度なら朝飯前ですぜ」
近づいた海賊たちが口々に味方してくれる。夕月は少し考え、それから頷いた。
中に入ってすぐにいまだ五の宮が捕らえられていない理由がわかった。吹き抜けの天井の梁の上を小柄な人影が駆け回っている。それを最初の男たちが必死で追いまわしている。
海賊たちはさっさと手近な男を捕まえて切り捨てた。その悲鳴で他の男たちが集まる。
「な、なんだおまえらはっ!」「さっきのやつらか!」
血しぶきが上がる。領子は思わず目を閉じた。今までと違ってこの死体は自分の意思によって生み出されたものだ。胸の奥が痛みで震える。
たとえ悪人であっても死んだ方がいいとまでは思えない。だが自分への好意のせいで、運が悪ければ命を失いかねない海賊たちを止めるほど厚かましくはなれない。
――――犠牲に無神経であってはいけないけれど過敏すぎてもだめよ。たとえば私たち上の立場の者は平時であろうと下の者の犠牲によって成り立っているの。その自覚を持つべきだけどそれから逃げるわけにはいかないわ
遠い過去の姉の言葉がよみがえる。彼女さえいてくれたらこんな立場に陥るのが自分だったとしても明確な指針を与えてくれただろうと思う。
最初の男たちが半数を割った時、彼らは逃げ出した。下りてきた五の宮は領子を見て固く張り詰めた表情を解いた。
「そなたが無事でよかった」
そのあと視線を廻らせて怪しい風情の男たちを眺めた。
「もののふにしてはくだけた格好じゃな」
「私のお友達なの」
少年は見測るような視線を流したが、それ以上の疑問は口にしなかった。
迎えの車は女院のもとから遣わされた。乗っていた日向が床の抜けた寝殿の奥へ飛び込むと、涙をこぼして領子の手を握り締めた。女院の家司は五の宮に深々と頭を下げてあまたの品々を献上した。
「どうかこのことはご内聞に」
「無論じゃ。片づけまでしていただいてありがたい」
暴漢から馬を使って逃げた姫を追って悪人たちが入り込んだが、仲間割れの結果自滅した。そう告げてある。海賊たちは人を呼ぶ前に姿を消した。
領子はわかめのような几帳越しに礼を言うと五の宮は小声で答えた。
「そのことは気になさらずに。けれど先刻の話はぜひお考えください」
また顔を赤くしたのが布の裂け目からわずかに見えた。
女院自身が移動するかのように大仰な行列を引き連れて牛車はゆるゆると歩む。
「先刻の話ってなんですか」
日向の問いに少し赤くなる。
「気持ちが落ち着いたら話すわ。それより、朝の僧兵はなんだったの」
「以前に東宮であった方の仏弟子だそうです」
領子の祖父が現在の帝をその位につけるために強引に出家させたその方は、今は入道の一品宮として二条に住んでいる。彼を慕う僧兵たちはただでさえ荒くれ者と評判だった。昨夜そこに投げ文があった。『しょせん帝位につくべくもない臆病者よ、明日辰(午前八時頃)の刻に堂々と前を通ってやる』と記されていた。彼らが構えているところに通りがかったのが領子たちの車だった。さては女車にやつして通るかと襲いかかったのだった。
「道筋も時刻も牛飼い童さえ知らないはずでしょ。どうしてこんなことになってしまったのかしら」
「さあ…………不思議ですね」
日向がいつもの明るさを失った声で疲れたように答えた。