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逃走

 耳元で朗詠される和歌のせいで牛車に酔いそうだ。弁のおもとは自分の声に酔うかの如く長々と語尾を引く。辟易したらしい女房たちは別の車に乗っている。日向(ひゅうが)も離されて後ろの車の中だ。今日は侍従(じじゅう)は付き添わない。おもとの娘の少将も休日だ。


「では次を。白露も時雨もいたくもる山は下葉残らず色づきにけり」


 おのれ貫之。髪が逆立つ思いを抑えて復唱する。続けながらもおもとの目を盗んで視線を御簾(みす)の外に移す。今朝の東洞院(ひがしとういん)大路(おおじ)は人が少ない。

 以前の騒ぎがあってから女院のもとへ向かう道筋は変えられた。いつもはもう少し人気があるが、雪の舞い散る寒々しい朝であるためか時おり下人らしき人影を見かけるだけだ。それでも警護の数は充分に増やしているので不安はない。

 そのはずだった。二条大路にたどり着いた途端、見るも恐ろしい巨漢の僧形の一団が手に手に五、六尺ばかりの杖を抱えてこの大路を東の端から駆け寄ってくる。


 人々は慌てた。しかし連なった牛車を急に戻すことは不可能だ。領子の乗った前の車は急いで烏丸(からすまる)小路(こうじ)に入り込んだ。後ろの車はそのまままっすぐ東洞院大路を突っ走る。僧形の一団も二手に分かれて追いすがる。

 警護の武士は太刀を抜いた。が、僧形の者たちはそれを見て懐から大きな石を取り出すと次々とそれを投げつける。近寄ることも出来ぬうちに一人が倒れる。それを見て逃げ出す者どももいる。


 おもとは泡を吹かんばかりに驚き慌て、隅の柱にすがり付いている。領子もそれを真似た。牛は暴走ともいえる勢いで道を下っていたが突然止まった。

 御簾越しに眺めると馬がいく頭か路上に立っておりそれに遮られたようである。ほっとしたのもつかの間、わらわらと人が増え残り少なくなったもののふを難なく倒していった。

 領子は叫ぼうとしたおもとの口をふさいだ。


「うかつに騒ぐと殺されるわ。もし私に何かあっても、絶対に声を上げちゃだめ。」

 がくがくと頷くおもとを更に言いくるめる。


「たぶん目的は私だから、あなたは顔さえ見なければ助かると思うわ。気絶したふりで横になっていて」


 領子自身も身を伏せて目を閉じる。人影が、御簾を少しめくって様子を確かめる。倒れた女二人に安心したらしくすぐにそれは閉ざされる。

 再び牛車が動き出す。領子は起き上がり、唐衣(からぎぬ)表着(うわぎ)を脱いだ。それを裂いて紐を作り袴の裾を上げる。

 西の方に向かっているのは感覚的にわかる。とかく悪人は右京に行きたがる。領子は嗅覚に意識を集中した。朝方と夜では違う。それでも湿度の高い右京のにおいは違うはずだ。


――――そろそろ右京ね


 鼻による勘で見計らうと案の定、古びた邸の一つに入り込む。牛車は(きざはし)に寄せられる。外の人々がばたばたと出入りし始めた。

 脱いだ衣を人のように形作ると、ほんのわずかな隙を突いてするりと前から抜け出す。いったん車の下に身を潜め、手近な馬を探す。


「さすがに可哀想だから(しとね)ぐらい敷いてやれ」


 下卑た笑い声の中、そんな声が聞こえる。男たちの大半が中に上がっている。

 蹄の音がして一頭の馬が近くに止められた。乗っていた男が何か言いながら馬をそのままにして上がっていった。

 この好機を逃さない。領子は突風のような疾さで車の下から飛び出ると馬の鞍を掴んで駆け上った。


「あっ、こらっ、まさかっ!」

「馬鹿っ!乗れるわけねぇだろっ!」

 気づかれた。彼女は馬の腹を蹴り急速度で走らせた。


「待ちやがれっ!」


 誰が待つか。そう思いつつ門を越える。駆け寄ってきた男の一人が手にした小太刀を投げつけた。

 ひひひぃーーんっ。一声いななくや尻に刃を刺した馬は暴れだし、凄まじい速さで道を走り抜けていく。領子は命がけで馬にしがみついた。

 男たちは外に飛び出てきたが、荒れ狂う馬はあっという間に見えなくなった。



 ものすごい速度だ。振り落とされないように身をかがめて馬の首に手を回している。馬は領子が乗ることなど気づいてもいないかのように迷走し、やがて北の方に駆け上がった。

人の少ない右京でもさすがに通りがかったものは振り向くが、様子など見定めることも出来ぬうちに走り去っていく。

 必死ではあるが、その状態が続くうちに領子は周りを見回す余裕が出来た。


――――この辺りは来たことがあるわ


 馬も疲れてきたのだろう、いきなり道沿いの邸の築地塀(ついじべい)を跳び越し、その中をしばらく駆け巡ると不意に止まった。

 領子は視線を巡らせた。正面には寂れた印象の寝殿(しんでん)がある。その屋根は檜皮(ひわだ)()きだがあちらこちらが剥げている。地に敷いた白砂も薄く、ところどころに雑草が勢いづいている。


「こりゃっ、何をしておるっ!」

 突然の大声に驚くといつの間にか馬の傍に、小柄な少年が立っている。


「人の邸に無断で入るとは無礼であろうっ」

 声が尖っている。


「しかもそこはわが畑じゃっ!すぐにこの場から立ち去れっ!」

「ご、ごめんなさい」


 慌てて馬から下りると手綱を引いて片脇に寄せる。馬は素直に従った。

 領子は振り返り頭を下げた。


「馬を止められなかったの。本当にごめんなさい」


 また怒鳴られることを覚悟しながら謝ると、なぜだか声が続かない。不思議に思って顔を上げると、みずら髪の少年がぽかん、と口を空けている。


「あの………」


 途惑ってもう一度声をかけると、ふいに少年の頬が赤く染まった。それは留まらず耳まで色づく。

 見つめあったまま時が過ぎた。ようやく少年が再び口を開いた。声がわずかに震えている。


「そなた、名をなんと言う」

 その場の空気に呑まれるように答えてしまった。


「………領子」

 少年の目が驚きに丸くなった。


「なんと!内大臣の二の姫か!」

「え?」


 この時代の常として女性の名は人に知られていないはずだ。領子が驚いて見返すと少年が声を和らげた。


「まろは前帝の五の宮じゃ。ご覧のように元服前の立場なので、人が安心して思いもせぬ話を語る場に居合わせたりすることもある」


 まずい相手に名乗ってしまった。領子はうつむいて唇を噛んだ。逆に五の宮は意気揚々と彼女に近寄った。


「素晴らしい出会いじゃ。領子姫」

「はぁ」

「まろの北の方になってください」

「はぁっ?」


 驚愕した領子は少年の正気を疑った。宮さまであることも騙りなのかも知れない。不審の目で見つめるが澄んだ黒目がちの瞳が彼女を見返す。

 呆然と立ち尽くす彼女に五の宮は言葉を続けた。


「確かにまろには何も無い。が、一生そなただけを思い続け守ることを誓う」

「ちょ、ちょっと待って。まず私は入内(じゅだい)することになっているの」

「そのせいでこのような羽目に陥ってるのであろう? やめてしまえば安泰じゃ」

「一族の血が…...」

「東宮のもとに入った姫も藤原氏じゃ。後世の人からすれば大して変わらん」

 一族にとっては大いに違う。領子は困惑して彼を見つめる。


「大体あなたいくつなの?」

「十五じゃ」

「そうは見えないわ。もっと幼い感じよ」

「それがつけ目じゃ。この格好の方がいろいろな話が耳に届きやすい。それに元服は金がかかるでの。粘れるだけは粘るつもりじゃ」

 五の宮は愛らしい笑顔で俗な決意を述べた。


「でも、姫にだけは不自由させない」

「それ以前の問題でしょう。父は絶対に認めないわ」


 少年は領子を見つめ何か言おうとした。が、声がでない。何事だろうと言葉を待つ彼女の前で再び耳まで赤くなり、意味無く腕を振り回し、いったん目をつぶって自分の鼓動を落ち着けると目を見開いて一息に叫んだ。


「ま、ま、まろと間違いを起こしてくださいっ!」


 意味がわからず領子は首を傾げた。しばらく考える。そのあげくにふいに言わんとすることに気づき、やはり耳まで赤くした。

 以前、まだ気楽な女房に囲まれていた時代に彼女たちが教えてくれたことがある。『どんなさえない人でも一生に一度ぐらいは色々な人に求められる時期があるのですよ。それを私どもはモテ期、と呼んでおります』


――――今モテ期なのだわ、きっと


 少し気落ちする。


――――だとしても畑の横で泥足のまま申し込まれたくはなかったわ


 肩を落として断った。


「無理。それに父のことだからあなたの存在を消しかねないわ」


 五の宮は口を開きかけ、急に領子の手を引いた。驚く彼女を自分の背後に回し、両手を開いてかばった。


「何奴っ! ここを前帝の五の宮の邸と知ってのことか!」

「宮さまのうちにしちゃみすぼらしいな」

「ふかしてんじゃねえのか。ただのガキにしか見えねえ」


 築地塀に地味な水干をまとった男たちがよじ登り、顔を覗かす。領子を見つけると雄たけびを上げた。


「いたぜっ!やはりこの蹄の跡のとおりだ!」

 男たちは築地塀から飛び降りてくる。五の宮は再び領子の手を引いて走り出した。



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