左大臣の陰謀
年を重ねた海賊は旅姿も解かずに夕月の前に膝を付いた。
「奴らと話がつきましたぜ。のりました。大頭は、和人は好かねえがおまえらは別、と言わせました」
「そう」
「まだ港とも言えねえほどの場所だが話に聞くにはいい所ですぜ。こちらは口を出さずに便宜だけ図るってことで手を打ちました」
「ここを抑えれば大宰府に頼らずに他国と通ずることが出来るはずよ。行くにも帰るにも適する潮があるから。蝦夷たちはなんと呼んでいるの」
「トサ……とかなんとか」
「土佐と紛れてわかりにくいわ。でも勝手に変えるのも嫌がるでしょうから、字面だけ変えて十三。湊を加えて十三湊と呼ぶことにして」
「へえ」
「そこから常陸の国までは扱えるの?」
「いえ蝦夷の範囲はその近辺までで。それからは陸奥の塩竈湊の辺りの奴らがのしています。ですがもともと付き合いもあるし、そこそこ扱いやすい奴らですぜ」
「その先のはすでに子分格の領域だから海はそれなりに見えたわ。出来れば琵琶湖も得たい所だけれどさすがに目立ちすぎるし無理ね」
「筑紫は捨てるのですかい」
少し不安そうに尋ねた海賊に夕月は微かな笑みの影を見せた。
「まさか。一つしか手がないと動きが取りにくいから別の場所を作り上げるだけよ。それも他人の手でね」
海賊を下がらせて弟を呼ぶ。黙って面白そうに聞いている自らの師には振り向きもせず、呼ばれた少年に指示を下した。
「それなりに技能を持った商人を手に入れたわ。学ばせたいから目端の利く者を下につかせるわ。こちらの者は決めてあるけれど夜烏に言って何人か用意させて」
「あいつのこと信用するんだ」
「この位はね。……巌彦と比べれば大分ましよ」
「そうかなあ。まあいいや」
「用がすんだらその商人は殺すように言っておいて」
三日月は目を見開いて姉を見た。
「………どうせずっと姉さんに夢中だと思うからほっておいてもよくない?」
「多少なりともましな暮らしをしている者は信用できないわ。いずれ里心がつくでしょうし」
自分自身すら信じない夕月に少年は小さく息を吐いて頷く。日常的に道端に骸の転がるこの時代、死体程度に動じないのはあたりまえだが、夕月はそれを増やすことにも躊躇しない。以前、三日月が巧みに探りだした鹿丸という男も全ての話を吐き出させて殺した。
「そういや、あの時お姫さんをさらったのは誰の命だったの」
その問いに夕月は短く答えた。
「左大臣よ」
座って円座をもてあそんでいた少年の動きが止まる。すう、と血の気が引いていく。が、それはほんのわずかの間ですぐに普段の顔色に戻った。けれど唇の色だけがいくらか薄い。
「つまり、われらが父上ってわけだね」
「そうよ」
簡潔に答える姉の表情は変わらない。彼女にとってそれはただの情報に過ぎない。
「殺すつもりだったの?」
「汚すだけでいい、という話だったらしいわ」
三日月の唇の色は戻らない。普段の気ままで明るい態度も見せない。その弟に夕月は冷たい視線をあてる。
「そういえば領子は未だにあなたに興味を示さないわね」
「努力はしてるんだけどね、調子狂うんだあの子」
甘く囁いても、戯れかかっても童としか見なさない。それどころか、まっすぐに見つめられ「寂しいの? 私のこと母上って呼んでもいいわ」と告げられた時など二の句が継げなかった。
「確かに変わってるよ。おれの恋人よりお母さんになりたいらしい」
夕月の口もとがわずかに緩んだ。背後の学者は盛大に吹いた。
「姉君より年下の母上は困りますね」
「うん困る。極悪人の父も困るけど。いっそ先生がおれのお父さんならよかったのに」
「光栄ですね。でも私には子がいませんので扱いを間違えそうですよ」
師の言葉に三日月は首を傾げた。
「あれ、娘さんがいたんじゃなかったっけ」
男は静かな微笑を含んで答えた。
「さすがに娘のことは気になって、手下の方に見に行ってもらったのですが、もともと私の子ではなかったのかもしれません」
慌てる三日月を片手で気にしないようにとなだめて、男は微笑を絶やさない。
「よくある話ですよ。自分のものと思っていた女に別の男が通っていたなんてね。ただ、それが実の弟だったのはいくらか珍しいですがね」
ねずみのような男は自分の貧相な髭をわずかに震わせた。
「どうりで時が経っても身代の用意がないわけだ。全て好都合だったのですよ」
「…………」
「私の立場は弟に譲られていました。確かにあいつには学才はない。が、力あるものに擦り寄る才はないわけではないらしい。私が消えても誰も問題にはしなかったようですね。…ああ、すみません。つい愚痴ってしまいました」
苦い色を呑み込んで学者は弟子たちに温かな目を当てた。
「だから私に帰る場所はありません。骸になるまであなたたちに仕えるつもりですよ」
夕月は無表情にそれに答えた。
「死ぬまでこき使うわ」
「望むところですよ」
今度は晴れ晴れとした笑みを見せた。
自堕落に横たわり片手に顎を乗せた夜烏は、傍らで筆を取る明烏に増えた手下の名を書き取らせた。特色のあるものはその様も書かせる。
「あと、覚えのよさそうなヤツらがいるって言われてたな。あいつらがいいっけ」
名前を指示し、急にそれを取りやめる。
「待て、そういやあの二人は相性がわりぃ。片方残してもう一人は新しいヤツでちょっと気の利いた男がいたからそいつにしよう。古いやつらと変わりなく使えば新人さん方も機嫌よく働くだろうし」
「もとからのヤツが気を損ねないか」
「まあ、上手くやるさ。うるさ方には下っ端付けてやりゃいいだろう。十人一組ぐらいにして競わせる。手柄を立てなきゃ古株でもそこの小頭はそのうち交代。どうだ?」
「わかりやすいが三組にも足りない」
「ばぁか、これから増やすのよ。目下評判の夜烏一派、ただ今人員募集中、だ。名は上がってっから、もう一押しすれば来るぜ、俺の時代がよ。そのためにもわかりやすい仕組み作っとく」
「鬼菱はどうする?」
「今んとこシカトだ。も少し手軽いとこで雷の千虎ってヤツが先だ。海賊たちにもそう伝える。だが様子は探らせろ。ああ、そっち中心に使うやつも揃えなきゃな。探索組か。夕月のとこはあの坊がよくやってんな。誰か若ぇのつけさせて学ばせるとするか」
「あのチビに? あいつ、俺たちのこと気に喰わないようだ。そんな顔をする」
「ガキだからさ。そんくれぇ気にすんな。弓は引けるヤツ増えたか?」
「手隙のやつは海賊たちのとこ行かせているが根気が続くのは少ないな。俺も多少は慣れたがまだ的に確実に当たるまではいかない」
「おまえは器用だからそのうち上達するって。それに別に上手いやつがいなくたって、飛び道具持ってるだけで脅威だ。ま、当分はやつらが手伝ってくれるわけだし。もっともあいつらも全員が得意なわけでもないようだな」
「二人ほどえらく上手いのがいて、後はどうにかできるって程度だ」
「万が一やつらが敵に回った時を考えて、これからもなるべく探っとけ……ん? ああ、飯か」
立て付けの悪い戸が軋みながら開いて、弥生が現れる。折敷(平安お盆)とも言えぬ板切れに強飯と菜の汁、塩漬けにした鰯を焼いたものなどが載っている。
夜烏は身を起こしてそれを受け取り汁を一口すすった途端、その椀を土間に投げつけた。
「…………まずかった?」
不安そうに弥生が声をかける。夜烏はその手をふいに掴み、一瞬眺めるとそのまま板敷きに突き飛ばした。呆気にとられる明烏の前で怒鳴りつける。
「ババアの仕事に手を出すな!」
「大したことはしてないわよ。菜を切ったり、汁を作ったり米を炊いだりした程度で……」
「それが余計なお世話だってんだよ。あの婆はそのために雇われてんだ。第一その手はなんだ。あかぎれで醜いっ。ここに来た時はそんな手じゃねえ。おまえは女として連れて来られたんだぜっ。萎えるじゃねえかっ」
弥生は長い睫毛を伏せて悲しそうに答えた。
「…………じっとしてるの性に合わないのよ」
「肉の分際でナマ言うんじゃねえっ」
まくし立てる夜烏の横から明烏が口を挟んだ。
「あいつらといる時は何していた」
「お裁縫。縫い物は得意なの」
「なら同じことをやればいい。こちらもあいつらを通して遠くの国々まで品を売ることにした。都仕立ての衣があれば高く売れる。布はこちらで用意する」
女の顔がぱっと輝いた。
「まかせて。なんだって出来るわ。あんたたちのも作ってあげる」
「へっ」
鼻先で笑うと夜烏は片手をひらひらと振って追い立てた。
「とにかくババアに作り直させろ。他人に甘えて怠けるやつは野良犬に食わせてやる」
「わかったわ」
軽い足取りで外に走り出て行った。
よく磨かれた簀子を踏んで左大臣は高欄に近づき空を見上げた。凍てつくような雲が風に流れる。
弟である大納言の娘の入内は妨げられない。それならばせめてわが娘を圧する気など無くさせるために傷を与えようとしたたくらみも破綻した。更に大納言は内大臣の位に着くことが決まった。
――――このままではすまさぬ
秀麗な面差しに暗い陰が宿る。権門の長子として恵まれた立場だけを歩いているように見えるが、その実手を汚すことを厭ったことはなかった。亡き父は四男で元は兄たちの影さえ踏めぬ位置にいた。それが長兄が早世したことを手がかりに、二人の兄の面さえ踏みつけて強引にのし上がった。父譲りの豪腕で左大臣も人の謗りを受けつけない。その冷たい美貌は口さがない都人たちの否定をも許さず跳ね返すことに役立った。並みの者なら神仏を恐れて着手できない謀をもあまた行った。
たとえば現帝をその位につけるため、先の東宮を強引に出家させたのは彼だ。自分も後に従うと見せかけて、家内の者に別れを告げるとその場を離れ、力を失った元東宮の傍には戻らなかった。
晴れて手の内の帝の即位の際、こともあろうに誰とも知らぬ生首がいつのまにか玉座に置かれていた。怯え慌てる殿上人を前に自らの手でその髻を掴み、呼んだ下人の持つ高杯にそれを載せて下げさせたのは彼の父の逸話だ。穢れなど塩でもまいておけばよいと豪語した。それを目の当たりにした左大臣は政敵を葬るためにはかなりのことをやってのけた。
自分の父の死んだ後も、左大臣の威勢は揺るがなかった。が、女院と大納言の二人が彼の力を掠め取る。凡庸な小悪党としか思えなかった右大臣も日に日に勢いを増してくる。
はらわたが煮えくり返る。けれどその様は面に出ない。わずかに粉雪の舞う前栽に見入る公卿の雅な姿があるだけだ。
桜の咲く頃には例の娘が贅を尽くしたこしらえで内裏に乗り込んでくるはずだ。阻止したくともすべが無い。手を廻らすにも今は別の娘はいない。以前は正妻との間にも、他に二人の娘がいた。が、流行り病でどちらも亡くした。それよりも前に脇腹の娘も失っている。その際は、数あるものの一人だと思っていたが今になれば惜しい。その母に似て幼いながらに顔立ちの美しい娘だったが、容姿など関係なく今あれば利用できた。
世間では女は顔かたちであると言われるが、左大臣はそうは思わない。女に大事なものは腹と股だけである。孕む女が価値ある女でそれ以外に意味はない。
なのに素腹の娘には腹が立たなかった。妹である女院にはあれだけぶつけた怒りがなぜか沸いてこないのだ。ただいとおしかった。それは死んだ娘たちにも失われた娘にも感じなかった情だった。道具としての存在のはずが逆に心を縛っている。
自分の血筋を帝位に伝えることはもはやあきらめた。弟の娘の入内も認める。が、その存在に傷を与えることだけはもはや妄執ともいえる使命である。それだけが中宮に対して見せる気持ちのように考えて、左大臣はひたすら策を練った。