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「ですから、男の仕掛ける懸想に対して女は切り返す。女が仕掛けることはあくまでその先、上級者の手法ですっ」


 侍従(じじゅう)はいらだって舌打ちをせんばかりだ。


「まずは男の気持ちを汲み取る。すなわち読まれた和歌が何を引歌(ひきうた)としているか素早く察知してその本歌を使用する。しかし、けして許容しないっ。とにかく受け流す。情を汲み取る優しさと安易に従わないその知性が男心をそそるのですっ」

「わかったわ」


 こくりと頷く領子を見てようやく息を継ぐ侍従は、続く言葉で再び凍った。


「でもたぶん、何を引歌にしているのか私にはわからないと思うの。その時は適当に返してもいいの?」


 侍従が頭を抱えて突っ伏した。横にいた少将が氷のような声をだす。


「引歌に気づかないとは想像外の事態ですわ。何とか努力なさってお察しください」


 努力だけでどうにかなるのならすでにどうにかしている。領子は内心ため息をついた。本当に自分は姫君としての才がない。


――――これはただの手段よ


 ふと、忘れていた姉の言葉を思い出す。

 全てが得意だった姉に羨みの言葉を向けたとき、彼女は微笑んで続けた。


――――本当に必要なのはこんなことじゃないわ。歌自体は好きだから手段にするのは残念だけど


 彼女はそう言って領子の手を握った。その手はひんやりとしていて、今思えば夕月にわずかに似ていたかもしれない。

 姉はここまで妹の水準が低いことを知らなかったのだろう、領子はそう思って胸の中の言葉を切った。気を取り直した侍従の読み上げる和歌に耳を傾ける。が、心の内は逃げようとしている。


――――私だって全く何の才もないわけではないのだけど


 たまに夜中に抜け出して夕月にいろいろなことを習う。教え方が上手いのか、領子に意外な才があるのか、不思議なことに易々とそれらを身に付けていく。今では一人で馬に乗れる。自分の足で走ることも出来る。(かぎ)のついた縄を使って築地塀(ついじべい)をよじ登ることも出来る。そして酒が強い。大男の海賊さえ敵わないほどだ。

 しかし、一つとして姫君として役に立つものはない。相変わらず和歌は壊滅的で、和琴も筝も聞くに堪えない。


「………聞いていらっしゃるのですか!」

 侍従の叫びににっこりと微笑んで見せる。


「もちろんよ。何とか歌を返せばいいのね」

 疑わしげに侍従は見つめ、言葉を繰り返した。


「それでは和歌を読みますので、それを送られたつもりでお返しください。

  筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」


 陽成院の歌である。領子はしばらく考えた。やがて思いついて愛らしい声で詠みあげた。


「淵ならばあきらめてしまえもう来るな 水面(みなも)におみなの影映るまで」


 唖然とする女房たちの前で領子は得意そうだ。解説まで始める。


「私がおみな(おばあさん)になるまで近寄るな、という拒絶を表しているの。ちゃんと韻も踏めたわ」


 ぐう、と妙な声を出す侍従の脇で少将が(まなじり)を吊り上げた。



 女院は弟を前にして機嫌よく話を切り出した。


「何事もなくとは言えぬがともあれ立后(りっこう)の儀もすんだ。次はそなたの娘の番じゃ」

「はっ」大納言はかしこまる。それに向かって女院は威儀ある態度で宣言する。


「そのために力を与えよう。帝に大臣の地位をお願いする」

「で、では」さしもの大納言の声が震える。

「うむ。今の内大臣は長く患っていたが、こちらの手の者の勧めで出家なさることになった。そこにおまえの名を刻む」

「なんとかたじけないことか。姉上様のこの御恩、けして、けして忘れませぬ………」


 床に頭を擦り付ける弟を満足そうに眺めるとそのまま言葉を続けた。


「亡くなったそなたの姉姫ならば他者は口が挟めなかったであろうが妹姫はそうではあるまい。入内の際に親の格は大きな差異となる。すぐに臨時の除目(じもく)をおこなおう」

「はっ。ありがたき幸せにございます」

「これで兄も抑えられるであろう。入内の後に懐妊すればそなたが彼奴を越えることさえ可能である」


 女院は薄く笑った。鈍く光る鱗さえ持つかに見える女怪の笑みだった。



 童形の親王の姿を見かけて少史(さかん)は逃げようと腰を上げかけたが、果たせず捕まってしまった。五の宮は品よく笑いかけた。


「これ、そう脅えるでない。いつもどおり送迎の栄を賜ると申しておるのだ」

「え、遠慮いたします」

「そう連続して盗賊に会うものではなかろう。それに別にまろが呼んだわけではない。偶然じゃ。取られるはずの(あこめ)一枚残ったこともまろの手腕じゃ」

「確かにそのとおりだとは思うのですがね、だからかえって丸裸にされた奴らに目の敵にされましてね」

「小さい奴らじゃのう。気にかけるな阿蘇の少史」


 動じずそしてあきらめない少年に少史は肩を落とした。送り届けるまでは離れないに違いない。

 やれやれと思いながらもわずかな同情がないわけでもない。それに邸は近く同じ右京の寂れた辺りだ。


「わかりましたよ。この書を上げてしまいますのでもう少しお待ちください」

 うむ、と答えた五の宮は差し出された円座(わろうだ)に腰を下ろした。首を回して辺りを窺う。


「今日は人が少ないのだな」

「いやけっこういるのですがね、いろいろ噂が飛び交っているのでそれを集めに走り回ってますよ」

「ほう、どんな噂じゃ」

「盗賊話や中宮様のこととか、桐壺(淑景舎)の方の御懐妊のことや大納言殿がどうやら大臣に任ぜられるらしい話とか、その姫が入内なさるという噂だとか様々ですね。いつだって噂は多いのですがここのところ特に激しいですね」


「新たな方がいらっしゃるのか。兄上もお喜びであろう」

「それがそうでもないようですな」

「うむ。何故に?」

「思いもかけぬほど単純な話ですよ。帝は后を大事に思っていらっしゃって、それ以外の女御が入ることを心苦しく思っていらっしゃるようです」

 五の宮は驚いて目を見開いた。


「だってお子もおありにならぬ后ではご自分の血筋が残せぬではないか」

「そうですよね。もともと他の方が入内なさらなかったのは左大臣の今は亡き父君の強引な手腕によるものでしたので、てっきり内心ご不満があると思っていました」

「確かなのかその噂は」

「これは確実ですよ。帝の身の回りのお世話をする典侍(ないしのすけ)と付き合いがありましてね、直接聞いた話ですから」


「ほお」少年は感心して頷く。

「新たな方に寵が移ったとしたら素腹の后の立場など脆いものであろうしな」

「心は移さずとも立場上新たな方に通わぬわけにはいきませんしね。で、そちらにお子が出来たらどうしても扱いは重くなるでしょうし」

「兄上はお悩みなのか」

「そうらしいですね。新たなお話を持ち込んだのは大恩ある女院さまですし。今までもあったお話ではありますが、長く首を振らなかった左大臣殿もこの度はさすがに了承なさったということですから」


 手の動きを止めずに語ると五の宮は少し考えているようだった。その様は賢げで軽侮の的となるには不似合いに見えた。人気の少ないこともあいまってつい、高貴の人に向けるべきではない疑問を直接に問いかけてしまった。


「宮さまは何故このようなお暮らしを続けるのです?」


 五の宮は少史を見つめた。相手に悪意がないことを確かめると幼い容姿に合わぬ苦い自嘲の笑みをこぼした。


「見苦しいか」

「否定は致しませんよ。けれど少しお辛そうです。もう少し楽な生き方もあるでしょうに」

「いっそ源氏の名を賜って臣下とされたのであったらそうもできたのだがな。まろであれば何とか隙を突いてそこそこの身分に出世できたと思う。が、わが亡き祖父どのも母上もそれを望まなかった。だからこその無品親王(むほんしんのう)じゃ」


 少年は一度うつむき、それからしっかりと顔を上げた。


「ならばまろはその位に殉じようと思う」


 阿蘇の少史は不思議そうな顔をした。かえって名を辱めているようにしか見えないからだ。だが少年が並ならぬ覚悟で決めたであろう決断を軽い気持ちで否定しようとは思わなかった。黙ったまま筆の動きを少し早めた。



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