貧乏な皇子
その日、月の出は遅い。闇に紛れて暗い色合いの衣を身に付けた男たちが静かに集まる。
数は河原での会合ほど多くはない。夜烏、明烏を含めて五名ほどだ。
そこへ三人、海賊たちが加わる。中の一人は、目だけを出して布で顔を覆っているがその美しさは顕著だ。
「仕事姿でもそそるねぇ」
夜烏の軽口を聞き流して、夕月は腕を組んだ。
「ここに呼んだということは、仕事帰りの官人狙いね」
「わかってんじゃないの。まあお手軽な仕事だよな」
鬱蒼と木々の茂るこの場所は帝や公卿のための巨大な庭園、神泉苑だ。尽きることのない泉を中心に自然が広く残されている。ここは狩りのためや野遊びなどの遊覧にも雨乞いや御霊会(怨霊などを鎮めるための祭)などの祈祷にも使われる。内裏のすぐ南に位置し、普段は民草が入ることを許されない禁苑だ。
禁忌をものともせずに盗賊たちはそこに潜む。薄気味悪い闇さえ日常の眺めだ。
宿直ではない官人たちの帰りには遅い時間だ。が、常とは違う頃合に帰る者たちもいないわけではない。
見場のいい網代車が二条大路を西に向かい、美福門の辺りに差し掛かった。途端に盗賊たちがその車を囲んだ。
手の早い男が車の轅(先端の二本の棒)に取り付いて牛飼い童に殴りかかる。童は牛車を見捨てて凄まじい速さで逃げ出した。車の後ろに従っていた下人たちも、蜘蛛の子を散らすように走り去った。
悠々と盗賊たちは近づいて、優雅に垂れた下簾(牛車用平安カーテン)を引き上げた。
彼らはどよめいた。そこには予想とは違う人の姿があった。手下どもをかき分けて夜烏が前に出る。構えた太刀を振りかざすがその必要はなかった。
「………いったい全体どういうこったい」
呆れた声で牛車の主に声をかける。その男は笏を握ったままうやうやしく答えた。
「はあ。東の大宮を通った折りにあなた方のような方に身ぐるみ剝がれてこのとおりでございます」
頭に冠、足に襪(足袋のようなもの。平安靴下)だけを着けた裸の男が敷かれた畳の上に座っている。寒さに鳥肌をたててはいるが落ち着いた様子だ。
夜烏は太刀を取り下げた。
「何だ。先客か」
苦笑して離れようとすると夕月が声をかけた。
「その畳を取って」
「おいおい、そんなもん重いだけで大した銭にはならねえぜ。田舎じゃ宝かもしれんけどよ」
盗賊の一人が笑いながら言う。が、夜烏は目を細めた。
「引っ剥がせ」
明烏が黙って男の載ったままの畳を引いた。牛車の主は転がり落ちる。
「おおっ」
手下どもが叫んだ。そこにはきっちりとたたまれた装束が揃えて置かれてあった。
「こいつっ!」
「ごまかす気だったなっ!たたっ切ってやる!」
「ひ、ひぃっ」
牛車の主が叫ぶ。明烏が静かに太刀をかざした。
「よすのじゃっ!」
突然、まだ幼い声が太刀よりも早く闇を切り裂いた。盗賊たちは気味悪そうに動きを止めた。
「その者に罪はない。まろが思いついた策じゃ」
声は牛車の奥から聞こえる。夜烏が覗き込むと先刻は気づかなかった小さな人影が奥に座っている。
「……おまえは誰だ」
夜烏の問いに小さき者は答えた。
「控えおれ。まろは先の帝の息である五の宮じゃ」
人々はどっと噴き出した。口の端を緩めたまま夜烏が更に尋ねる。
「で、なんだってそんな高貴なお方が裸の男の後ろに座ってたんだよ」
十を二つ三つ超えた年の頃に見えるみずら髪の少年は、胸を張って答えた。
「そんなこと、聞かなければわからぬのか。牛車を持たぬからに決まっておる」
笑いが止まらなくなった盗賊たちは互いの肩を叩き合って収めようとしている。が、一人だけ冷ややかな声がそれを静めた。
「……嘘ではないようね」
牛車に近寄ると夕月は童の腕を掴んで外に下ろした。わずかに星だけが光る暗い夜だが、盗賊たちは夜目に長けていた。
「着ている袍の雲鶴の紋様は皇のものだわ。色は浅黄だけど」
「おお。盗賊にも物のわかる男がいるようだな」
また笑い声が高くなる。その渦の中の五の宮はそれに気を取られずに袍を脱いで裸の男に着せ掛けた。
「すまぬ。いい手だと思ったのだが」
「なかなかお優しい皇子さまだねぇ。だけどこっちも商売、見逃すわけにはいかねぇな」
「重々承知じゃ。だから装束には手をつけずこうして自らの衣を譲っておるのじゃ」
「いい心がけじゃねぇか。じゃ、いただいていくぜ」
装束を抱えた夜烏に童形の少年は立ちはだかった。
「なんだ? 話は済んだぜ」
「そちたちは都にあまたいるただの群盗か」
「はぁ? ま、盗賊なのは見りゃわかるだろ」
「この辺りにたむろするありふれた盗人ならば、先ほどの策を見破ることはなかったであろう。それなりに上の立場を目指す盗賊だと思うがどうじゃ」
脅えた様子もない少年に夜烏は面白そうな顔を向けた。
「………だったらどうする?」
五の宮と名乗る少年はまっすぐに夜烏を見つめた。
「一枚衣を譲ってたも。これだけではこの男が風邪を引く」
「へっ」
鼻で笑う。
「何でせっかく手に入れた温そうな衣を譲らなきゃいけねぇんだよ。アホか」
みずら髪の宮はやわらかく微笑んだ。なるほどさすがに品のある風情だが、その黒目がちな瞳だけは小ずるい色を秘めている。
「名のある存在は民であれ帝であれ何か逸話を持つものじゃ。それが盗人であろうとも変わりはない。皇子に衣を恵んでやった盗賊、というのも面白くはないか。きっとその話だけで手下につこうと思う者も現れるであろう」
夜烏はしばらく考えた。それからふいににっ、と笑い、衵を一枚投げて寄こした。
「ほらよ。これ着て行っちまいな。噂になっても否定するなよ」
先の男は慌ててそれを着込み、宮を牛車に乗せると自らが牛のように轅を引いて走り去った。盗賊たちはどよめいてはやし立てた。
「追っ手を呼ぶまで間がありそうだ。ちゃちゃっと別口片付けようぜ」
夜はまだ闇が濃かった。
「近頃の群盗跋扈の凄まじさはどうも目に余りますな。衣を剝がれる者の多さに二条大路など裸通りなどと呼ばれる始末」
「なのに検非違使などを配置しても器用に避けてまた別のところが狙われる」
「目立たぬ道を通っても、抜けた所に待ち構えていたりするのでなんとも困り果てたしだいです」
殿上人たちの訴えを恰幅のいい右大臣は不機嫌に聞いている。
「それでも内裏の帰り道はまだいい。警備を増やすなり、それがままならぬ者どもは連れ立って帰るなり方策もある。が、もう一つの夜歩きばかりは如何ともし難い」
「特に、忍ぶ恋の道はうかつに従者も増やすことが出来ず、恨みばかりが重なることですな」
「………さもあろう」
右大臣は大きく頷いた。
「いかに人の尊崇を集める偉大な男であっても、この道ばかりは避けがたい。身をやつして味わう恋の情趣はなにものにも変えることは出来ない」
「だからこそ何とか彼らを捕らえるすべは………おや、これは五の宮様」
童形の無品親王が後涼殿に向かうのを見て、少将の一人が大げさに礼を示しながら呼び止めた。その顔にはなぶる様な色が濃く宿っている。
「親王様がわざわざ足をお運びくださるとはどのようなご用件でございましょう」
周りの者もいっせいに侮りの表情を浮かべる。五の宮は少将を見返して簡潔に答えた。
「御膳の毒見じゃ」
人々の嘲りの色が更に深まる。
「そのような仕事など尊きお方には似つかわしくありませんな。宮様に、万が一のことなどございましたら申し訳ない。私どもが引き受けますのでお引取り下さってもけっこうです」
ニヤニヤと口元を歪める殿上人に、五の宮は品のよい笑顔を見せた。
「御厚意は大いにありがたい。が、まろは後見の薄い身の上なので敬愛する兄上に示せる情など限りがある。だからせめて、このような形でご奉仕したいのじゃ」
可能な限りただ飯が喰いたい。そんな内心が読まれているのは百も承知で取りつくろう。少将は嫌な笑顔のまま言葉を連ねる。
「後見が薄いなどとはとんでもない。ここにいる皆は全て宮さまをお守りする覚悟ですぞ。それに主上は五の宮様の御心をないがしろにするお方ではありません。そのような目立たぬ配慮をなさるより、昼の御座で共に御膳に箸を付けようではありませんか」
――――兄上はともかく、おまえらと食う飯など味がないわ。ちょうどいいなぶり者として扱われるだけじゃ
「気持ちだけを受け取らせてもらう。が、すでに手配の通ったことを変えるつもりはないので、これで失礼する」
返事も聞かずに歩き出す。背後の軽侮が突き刺さる。
「…………貧乏宮めが」
聞こえる程度に抑えた少将の声が、少年の心をわずかに揺らした。
口を閉ざしたまま眺めていた右大臣は振り向いた少将に尋ねた。
「無品とはいえ御封(朝廷からの給料。地位、職、賞などによる)ぐらいはあるだろうに」
「いや受け取っていますよ。確かに小国の受領程度しか後見はいないのですが、さすがに前の帝の御子、暮らすに困らぬ程度の配慮はなされています」
「なら何故飯など食いに内裏まで来るのだ」
「金に汚いのです、あの宮は。だから牛車さえお持ちにならず、行きも帰りも適当な者を捕まえて同乗をせがむのです。最近など断るものが増えたと見えて、ひどく身分が下の者まで捕まえるあり様です。ありゃ、乗せてけお化けという妖怪ではないかとさえ言われております」
他の者も加わりそしる。
「あまりに金をケチるので、追い剥ぎにあったがかえって同情されて衣を一枚恵んでもらったという噂さえあります」
「なに、それは本当か」
むっとした顔で右大臣が尋ねた。
「偉大な男であろうとも時によっては奪われることもないとは言えないのに、あつかましい小僧だな」
「口だけは達者なので盗人も言いくるめられたのでしょう、きっと」
人々は薄ら笑いを浮かべ、遠くなった小さな背中を見送った。視線を戻すと、中の一人がさりげなく見えるように気をつかいながら右大臣に話しかけた。
「ところで藤壺女御が中宮となられることが決まりましたが、未だ御懐妊の気配もなく少々心もとないですな」
右大臣は顔色を変えずにそれに答えた。
「帝がお心を傾けていらっしゃる方がお助けする立場を明確にするのはめでたいことだ」
集う男たちの目の色が変わる。左大臣一族との仲の悪さは顕著だった。しかし先々を見越すことの出来ない殿上人たちはどちらの旗に集うか決めかねており、その動向や言葉はいつも注目を集めている。
「お血筋が残せていないことは残念ではあろうがいつまでもこのままとは限るまい」
その余裕。その言葉。人々は瞬時に理解した。現在の東宮(皇太子)は右大臣の姉の子だ。その母である女御こそ今はないが、右大臣は娘を東宮のもとに入れている。その娘が懐妊したに違いない。むろんその腹にいる者が男か女かはまだわからぬが、その娘は石女ではないことを示そうとしている。
東宮は病弱でいらっしゃるから、と近づくことを迷っていた男たちも耳をそばだてた。
「もしかして、いいお話をお聞かせいただけるのではありませんか」
気の早いお調子者がさっそく口に出した。鷹揚にうなずきながら大臣は答える。
「先のことは判らんよ。が、淑景舎の方は身体をいたわってお暮らしのようだな」
右大臣の娘は淑景舎(桐壺)に入っている。人々の間に緊張が走った。
すぐに何かが変わるというわけではない。が、中宮の儀式の供に現れる人数が今までの予想よりも減ることは間違いなかった。