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プロローグ

 青い闇の中でほの白い女の躯が揺れた。見上げる男の眉間には深い皺が刻み込まれている。

 五十路(いそじ)の半ばを越えた男の体は未だ頑健で衰えを見せていない。無数に残る傷跡も少しも彼を損なわない。何度も死線を超えた者に特有のふてぶてしい鋭さを保っている。

 が、男の顔色は晴れない。陰鬱な気配を湛えている。

 横に座った女が片方の手で男の顔に触れた。


「気が乗らないの?」


 男は苦い思いを噛み締めた。


――――止めても無駄だ


 それは判っていた。この女はけしてその意志を曲げない。たとえ手足を奪って閉じ込めたとしてもおのれの意思を変えることはないだろう。そして幾人もの男を操り、不自由な身体で思いを遂げるだろう。妨げるために、耳を削ぎ鼻を切り落とし二目と見られぬご面相に変えてやったとしても、惹かれる男は現れるだろう。


 女は若く美しかった。しかしその価値は見た目にあるのではなかった。この女の本質は焔だ。何もかも全てを燃やし尽くす。彼女に魅入られた男は火に飛び込む夏虫のようなものだ。


 ため息を呑み込む。子供どころか孫のような年頃の女に翻弄され、抗うすべを持たない。それどころかすがりついて、行かないでくれと叫びたくなっている。内海どころか遠い異国にまで手を伸ばす最も力のある海賊の首魁であることなど忘れたかのように。

 焼きがまわった。自嘲が胸に広がる。そこに痛みも重なる。けどそれ以上の陶酔で息苦しい。


 この女は三人目だ。一人目はとうの昔に死んだ。この女の母である二人目も二年前に死んだ。見た目だけは娘によく似ていた。けれど人柄は激しく違う。意思すら朧な捕らわれの女だった。それ以前にさらった一人目は、海ばかりを見つめて死ぬことのみを願っていた。その女を失い、求めて手に入れた二人目の女もそれほど長くは生きなかった。秋草ごと閉じ込めた松虫のように。

 手下どもは最上級の女はこの男に捧げる。大抵は売り物にするが、気を惹く女がいないわけではない。若く美しい女は多く、もっと身分のある女も手に入ることがある。けれど傍に置いたのはその二人とこの女だけだ。

 二人の記憶は今や遠い。そして悲哀を宿さぬ三人目の女の眸は決意と覚悟だけを光らせていつも澱むことがない。今も青白く燃えるような色を含んで揺るがない。


「……さすがに年なの? 判断が遅いわ」

「よく言う。震えてやがったくせに」

「私が? まさか。老いぼれて夢でも見ているのじゃない」


 しぐさに全く無駄がない。なのに野生的な優雅さに満ちて思わず見惚れる。それを見越して意志を通す。


「弟は連れて行くわ。金は充分に用意して。手下も十人ほどはほしい」

「そんな少数でやるつもりか」

「遊びには充分よ」

「俺が承知しなければどうするつもりだった」

「勝手に行くわ。女に逃げられてそれを追うなんて天下の大頭領、伊予の巌六(いわろく)のやることじゃないし」


 不敵に笑う女の顔には情の欠片も残されていない。


「銭は。盗めば探す口実にはなる」

弥生(やよい)を売ればいいわ。あれは私のものだし」

「あれだけおまえを慕っている乳母子(めのとご)を売り飛ばすのか」


 ふん、と鼻を鳴らしてそれを認める。罪の意識などどこにも見当たらない。


「役に立てて本望でしょうよ」


 怖い女だと巌六は思う。自分の手にはおえないだろうと。けれど手放すことも出来ず、殺すことも出来ない。

 媚びる女は嫌いだ。そんな女はいくらでもいる。男を利用して恥じることがない。だがこの女は逡巡することはなく、けして媚びない。


「期日は近いな」


 女の瞳に翳りが宿る。たぶん、それだけが最後の情だった。


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