其ノ八 ~石碑~
躊躇したかと問われれば、世莉樺は恐らく首を縦に振ったに違いない。
神社とは神道の祭祀施設であり、儀礼や信仰を行う為の神域とも言える場所なのだ。上手く言い表す事は出来ないが、そんな場所に無断で立ち入る事は気が進まなかった。
それ以上に世莉樺はこの、水鷺隝大彌國神社という場所に対して『恐怖』に近い感情を抱いていた。
昼間に足を運んだ時と比べて、この世界遺産にも登録されている神社の雰囲気は一転していたのだ。周囲の木々や狛犬、手水舎に燈籠に本殿――それらが月明かりに照らされ、ぼんやりと闇の中に浮いて見える。
(気味が悪い……)
神聖な場所に対して、そのような感情を抱くのは罰当たりにも思える。けれど世莉樺は十八歳の少女だ。剣道部初の女子部長として、強い信念と意思を培ってきたとは言えど、内面的には普通の女の子である。
怖い物は、どうしても怖いのだ。
「朱美、日和……どこに居るの?」
もう一度、世莉樺は後方を見渡す。けれど、この場に一緒に来た筈の二人の姿は無かった。
世莉樺の呼び声に答える者は居ない、ただ、潮の匂いを含んだ風が木々をざわめかせ、世莉樺の黒髪や制服を揺らすだけだ。
突然姿を消した友人達――今の世莉樺が頼れるのは、彼女を呼ぶ謎の声のみ。
「こっちだよ、早く……」
引き返すという選択肢もあった、しかし、世莉樺には何故かそれが出来なかった。
不安な表情を浮かべつつも、気付いた時には世莉樺は歩を進め始めていた。まるで、謎の声に思考を奪われてしまったかのような気持ちだった。
(誰なの……? どこに居るの?)
得体の知れない声、その主に対しての恐怖はあった。
けれど同時に、恐怖以上に世莉樺は、救いを求める気持ちを強く抱いていたのかもしれない。先程の水中に居るような奇妙な感覚、突如姿を消した友人達、探しても姿の見えない柚葉、そして、謎の声。
数々の不可解な出来事から、世莉樺は本能的に感じ取っていた。
何かがある。何か、得体の知れない恐ろしい事が起ころうとしている――否応無しに、その考えが脳裏を掠める。
(まさかとは思うけど……あの時みたいな事が、起きようとしているのかも)
ゆっくりと歩を進めながら、世莉樺は思い返す。
忘れようとしても忘れられない、二年前、まだ世莉樺が高校一年生で、十五歳だった頃の彼女が体験した出来事。聞く者は恐らく腹を抱えて笑うような、余りにも信じ難くて非現実的な話だ。
荒廃し尽くした廃校や、そこで目の当たりにした恐るべき存在にして、世莉樺も知る少女。そして、世莉樺を救う為に現れた、一人の少年。その後の命を賭けた戦い。
その出来事の記憶を構成する欠片が、砕かれたガラスを散らすように頭に浮かぶ。否、浮かばされた。
今の状況、雰囲気は、あの異常体験――『怪異』を思わせるのだ。
(考え過ぎだとは、思うけれど)
唾を呑む音が、世莉樺自身にも聞こえる。
気が付くと、もう世莉樺を呼ぶあの声は止んでいた。
(あれは……)
ふと、世莉樺はある物に目を留める。
それは、境内の隅に置かれた石碑だ。二メートル弱程の大きさの岩に銘文が刻み込まれ、周囲を見渡すように鎮座している。周囲とは七五三縄で区切られていて、縄の内側には何人も立ち入ってはいけないという雰囲気だ。
真実かどうかは定かではないものの、朱美の話では、この石碑の下には遠い昔、水鷺隝大彌國をただ一人で守っていた巫女の遺骨がおさめられているとの事だった。
(……?)
ある違和感が、世莉樺の頭に浮かんだ。
昼間この神社を訪れた際にも、彼女はこの石碑を見た筈だ。
(違う、何か……違う?)
そう、先程とは何か、石碑の様子が違っていたのだ。
――何故? 世莉樺は思考を巡らせる。形でも変わっているのか? 違う。ならば、昼と夜に見るのでは雰囲気が一転しているのか? それも違う。
そして、さほどの時を要する事無く、世莉樺は石碑の違和感の正体に気付いた。
「あ……文字が……!」
思わず、声に出してしまった。
昼間見た時、石碑に刻まれた文字は判読不能な程に風化しており、一文字足りとも読む事は出来なかった。『古くて全然読めないね』、という会話を明美や日和と交わした記憶が鮮明に残っている為、確信がある。
しかし、今はまるで刻み込まれた直後のように、石碑の銘文は真新しい物だった。
どうして? 表情に疑問を浮かべながら、世莉樺は思わず石碑に彫られた内容を見つめた。月明かりだけでも、その内容は読み取れる。そこに刻み込まれていた文章とは、
暗澹な闇に浮かぶ篝火が揺るる中
真に縲絏さるるべき者共が葬れ葬れと騒ぎ立てたり
暗き海に浮かべられ
窈窕なる御髪や着物を水面に巡らせ
沈みていく刹那に呪詛の言葉を吐きき
この身滅ぼうとも我が怨念は永劫に消えぬ
怨念は復讐の鬼となりて咎人へ報いを成すならむ
煉獄の海に引き摺り込まれながら知るべし
お前達の犯しし罪の重さを
――理解し難い、と言うよりも読む事すら出来なかった。数箇所、世莉樺には見た事もない漢字が使われているからだ。
眉間に皺を寄せながら、難しい漢字を見つめる。
「……やっぱり、読めない」
やはり、読み方の検討すらもつかない。
しかし読めなくとも、そこに書かれている内容の不気味さが伝わってくる。『呪詛』や『怨念』といった言葉が並んでいる事から、少なくとも良い事が書かれている訳ではないだろう。ここには何か、禍々しい事が書かれている、世莉樺にはそれが分かった。
何よりも彼女が目に留めたのは、『鬼』という言葉だ。
(まさか、ここに書かれているのって……)
否応なく、その考えが浮かぶ。
黒髪や制服が風に揺られるが、世莉樺は気にしない。石碑の銘文をどうにか読み解こうと、彼女は初めから読もうとする。
その時だった。
「暗澹な闇に浮かぶ篝火が揺るる中……」
突如、世莉樺の背後から何者かが読み上げる。
弾かれるように振り返ると、いつの間に後ろに居たのか、一人の少年が立っていた。灰色の着物に身を包み、長く切り揃えられた黒髪、そして少女と間違わんばかりに綺麗な容姿をした、幼い男の子だ。
「だ、誰!?」
驚きのあまり、荒いだ声が出る。
けれど、少年は世莉樺に応じずに、銘文を読み上げ続けた。彼の視線は世莉樺を通り抜けており、石碑にのみ注がれている。
「真に縲絏さるるべき者共が葬れ葬れと騒ぎ立てたり、暗き海に浮かべられ、窈窕なる御髪や着物を水面に巡らせ、沈みていく刹那に呪詛の言葉を吐きき……」
難しい漢字を物ともせず、少年は読み上げていく。世莉樺は思わず、聞き入ってしまう。
「この身滅ぼうとも我が怨念は永劫に消えぬ、怨念は復讐の鬼となりて咎人へ報いを成すならむ、煉獄の海に引き摺り込まれながら知るべし、お前達の犯しし罪の重さを」
読み終えると、少年の視線が世莉樺に向けられた。
「驚かせちゃったかな? ごめんね」
少年と視線を合わせた瞬間、世莉樺は既視感を覚える。着物といい、雰囲気といい、今目の前に居る彼は、世莉樺が以前に出逢った『あの少年』と似ていた。
故にだろうか。その子に対して、世莉樺は特に恐怖のような感情は沸かなかった。
「君は……?」
少年は世莉樺の顔を見上げながら、応じた。
「初めまして。俺は、焔咒」