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鬼哭啾啾3 ~溟海の鬼姫~  作者: 灰色日記帳
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其ノ五 ~焔咒~

 

 小猫を理不尽に蹴り殺した事で、幾分気が済んだ。

 荒い呼吸と共に肩を上下させつつ、柚葉は自身が恐ろしい人間に変貌してしまった事を感じ取る。自分の怒りの捌け口として、無垢な生き物の命を奪う。激情に駆られた果ての事だとしても、そんな残忍な事を出来てしまう『化け物』になってしまった事を、自覚する。

 奥歯を噛み締める音が頭の中にまで響き、爪が手の平に食い込む程に拳を握り締める。


「畜生ッ!」


 血を吐くように叫ぶ、何もかもが忌々しかった。化け物になった自分自身も、自分を裏切った宗谷も、自分から宗谷を奪った世莉樺も、潮の香りを内包した風や、夜闇に包まれた水鷺隝の景色すらも。


(……ここにいても意味無い、戻ろう)


 崩壊同然の精神状態の中でも、柚葉は辛うじてその結論を導き出す。そんな事を考える余裕があったとは、彼女自身でも驚きだった。

 狂気に歪んだ顔で旅館に戻る訳にはいかない、表情を取り繕いつつ、柚葉は踵を返そうとする。

 

 その瞬間だった。突然周囲の空気が重く、そして冷たくなった。

 

「……!?」


 同時に、後方から何者かの気配を感じ取る。周囲の地面には草が生えている、誰かが歩み寄って来たのならば、僅かたりとも音が発生する筈だ。だが、そんな音は柚葉の耳には入っていなかった。

 振り返ろうとした柚葉、しかし彼女の防衛本能が、その行為を制していた。

 振り返るな、振り返ってはいけない、自分の後ろに居る者を見てはいけない。そう告げているのだ。


「あーあ、猫さん殺しちゃって……酷い事するなあ……」


 柚葉の背中に向けたその声は、無邪気に明るかった。幼い少年が発した物だと分かる、無垢で穢れの無い声。しかし純粋さを通り越して、そこには悍ましさが滲んでいた。


「どうしたのおねーさん、こっち向きなよ?」


 まるで歌い上げるような、楽しんでいるような声色。

 柚葉にはこの声を発している者、得体の知れない誰かが、自分を嘲っているようにも思えた。


「ぐっ……!」


 何の意味も成さない声と共に、柚葉は半ば強引に振り返った。

 振り向いてはいけないと分かっていたが、防衛本能に怒りが優ったのだ。ただでえ怒りで気が狂いそうになっている最中なのに、さらに自分を煽る何者かへの。

 声の主はやはり、幼い少年だった。少女と間違わんばかりに整った、しかしどこか尋常ならざる雰囲気を漂わせる少年だ。灰色の着物が印象的で、地を踏むその足は裸足である。


「な……何なのよ、あんた?」


 相手は小さな子供だというのに、柚葉は自分の声が震えている事に気付く。

 少年の口元に笑みが浮かぶ。見る者に畏怖の念を抱かせる、不気味で加虐的な笑みだ。


「初めまして……俺は、『焔咒えんじゅ』」


「えん……じゅ?」


 聞き慣れない少年の名を、柚葉は繰り返す。

 焔咒と名乗った彼が歩み出る。柚葉は逃れるように、一歩後退した。


「知ってるんだよ、おねーさんの事は全部」


 焔咒が顔を上げる。前髪の隙間から覗く彼の瞳には、柚葉を呑み込むような雰囲気が宿っていた。

 焔咒がまた一歩前に進む、連動するように柚葉も一歩下がる。


「雪臺世莉樺に、ずっと好きだった人を奪われちゃった事も……ね」


 柚葉は、喉の奥で声を押し殺した。

 焔咒が歩み寄ってくるが、彼女はもう後退しなかった。

 すると焔咒はその場で腹を抱え、声を上げて笑い始める。最初は小さな声だったが、次第に笑い声は大きくなり――柚葉の耳にも届く。


「な……何がおかしいのっ!」


 声を張り上げる。これまで大体の男子生徒は、柚葉がこれ程の剣幕で迫ればだじろいだ。けれど焔咒は物ともせずに、煽るような口調で返す。


「だっておねーさん、好きな人取られて、惨めに逃げて、無様に泣き喚いて……その様子思い出したらもう、面白くて面白くて笑いが止まらないんだもん。くく……」


「!」


 柚葉は目を見開いた。

 泉のように湧き出た怒りが一瞬で理性を奪い去り、次の瞬間にはマグマのように煮えたぎったのが分かる。


「黙れえええええぇぇぇぇぇえええええッ!」


 柚葉は手近に落ちていた石を拾い上げ、全身の力を込めて焔咒へと投げ付けた。

 石は小さかったがそれなりの重量を有しており、当たれば怪我をする事は確実、当たり所によっては死亡する可能性もあった。しかし、狂乱に陥った柚葉には、そんな事を考える余裕は残っていなかった。

 彼女の頭には、自分を煽り立てるこの少年を痛め付ける事しか無かった。

 

 しかし、柚葉が投げ付けた石は当たらなかった。


「えっ……!?」


 荒い呼吸をしながら、柚葉は前方を見つめている。彼女は確かに、石を焔咒に向けて投げ付けたのだ。石は確かに焔咒の額に向けて飛んでいった、だが、命中していない。

 何故ならば、柚葉の視界から焔咒の姿が消えたから。


「どっちを向いているの? 負け犬のおねーさん」


 後方からの焔咒の声に、柚葉は弾かれるように振り返った。前方に居た彼は一瞬で、何の音も無く背後に移動していたのだ。

 無論、柚葉の礫を喰らった様子は無く、その口元には依然として笑みが浮かんでいる。


「ぐっ……うるさいッ!」


 柚葉は再び礫を繰り出そうと、側に落ちていた小石を拾う。しかし再び焔咒に視線を戻そうとした時、前方に彼の姿は無かった。


「いいねいいね、もっと怒りなよ」


 焔咒の声がした方向に振り返り、彼の姿が微かに視界に入った瞬間――柚葉は二発目の礫を放った。ほぼ同時に焔咒の姿が消失し、目標を失った小石が木の幹の表面を抉り取る。


「もっともっと怒って……負の感情に身を沈めちゃいなよ」


 その声は、柚葉のすぐ側から発せられた。


「ひっ!」


 焔咒は、柚葉の目と鼻の先の位置から彼女を見上げていた。

 前方から突き飛ばされたかのように、柚葉は地面に崩れ落ちる。既に怒りは、焔咒への恐怖に上書きされていた。この少年は人間じゃない、もっともっと人智を超えた何か――とにかく、危険な存在なのだ。柚葉は本能で、それを感じ取っていた。


「何なのよ……何なのよあんた、私に何の用があるって言うのよ!」


 精一杯の虚勢を張って、柚葉は問う。

 すると焔咒はその場でしゃがみ、視線の高さを柚葉と合わせる。そしてゆっくりと、その手を柚葉の顔へと伸ばしてくる。全身が凍り付いてしまったかのように、柚葉は動けなかった。


「おねーさんを……助けに来たんだよ」


 囁くような小さな声で、焔咒が告げた。

 ほぼ同時に、彼の片手が柚葉の頬に触れる。その手は冷たくて、人間の体温が一切感じられなかった。


「たす……ける?」


 辛うじて、柚葉は返事が出来た。


「そう、雪臺世莉樺が憎いんでしょう? 憎くて憎くて、ズタズタにして殺したい程に恨んでいる……そうでしょう?」


 恐ろしい事を口にする焔咒の表情には、やはり笑みが浮かんでいた。

 座り込んで立ち上がる事も出来ない柚葉に、彼は顔を寄せる。その黒い瞳の奥に、吸い込まれるような闇が広がっていた。

 柚葉には、目を逸らす事すらも許されない。


「俺が仕返しさせてあげるよ」


 焔咒の言葉が、柚葉の頭の中を一瞬で侵食する。

 

「し、仕返し……?」


 もう、柚葉は焔咒に抗おうとはしなかった。明らかに人間ではない焔咒への恐怖はあった、だがそれ以上に、焔咒の言葉には呑み込まれるような魔力があったのだ。

 焔咒は小さく頷いて、


「そう……どうだい?」


 柚葉には、その言葉が悪魔の誘いのようにも思えた。けれど、最早跳ね除ける事など出来なかったのだ。

 焔咒と視線を合わせて頷くと、彼は『良い子だ』とでも言いたげな笑みを浮かべる。

 焔咒の片手が柚葉の額にかざされる、怪訝に思ったのも束の間、途端に柚葉の体を凄まじい熱気が覆い包んだ。体内で炎が燃え盛るような、息をするのも忘れるような熱さ。


「ぐっ……ああああああぁぁぁぁぁぁぁあああああああッ!」


 目を見開き、柚葉は悲鳴を上げてのたうち回る。意識を失う寸前に彼女は目にした。焔咒が自分を見下ろして笑っているのを、そしてどこから出現したのか――自分の体に、見た事も無い黒い霧が絡み付くのを。

 思考が消し飛んでいく。刈り取られるかのように、視界から光が消えていく。そして意識を失う時、柚葉に残されていたのは負の感情のみだった。

 自分の想い人を奪い取った者への恨み、憎しみ、そして怒りだった。






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