其ノ四 ~身ヲ裂ク殺意~
「ねえ、何の騒ぎ?」
少年の声に、世莉樺と柚葉は恐らく同時に振り返った。
「あ……」
声を出したのは柚葉、彼女の腕はまだ、世莉樺が掴んだままだ。
先程の声の主の少年は、四十住宗谷だった。背が高くて少し色が黒く、すれ違った女性全員を振り向かせそうな美しい容姿の少年。そして、恐らく自覚は無いのだろうが、世莉樺と柚葉の諍いの原因だ。
「宗谷君……」
柚葉は彼の名を呼ぶと、思い出したように自分の腕を掴む世莉樺の手を振り払った。
宗谷が何かに気付いたように目を見開き、世莉樺と柚葉に歩み寄ってくる。
「世莉樺、これ叩かれた跡じゃないか?」
「え……」
歩み寄ると、宗谷は世莉樺の頬を指しつつ言った。どうやら、彼は世莉樺の頬が赤くなっている事に気付いたらしい。加害者、つまり世莉樺を叩いた柚葉は何も言わず、困惑するような表情を浮かべて側に居る。
宗谷が言う。
「酷い……痛くないか?」
紡がれた心配の言葉に、世莉樺は囁くように「大丈夫……」と返すのが精一杯だった。完璧な美しさを求めて造形されたかのような、宗谷の顔。間近で見つめていると、思わず呑まれてしまうような感覚になる。
彼からの告白を断ったと言うのに、彼の気持ちを無為にしたのに、こんな気持ちを抱いてどうする――世莉樺はそう自分に言い聞かせる。
「そうか、なら良かった……」
赤みを帯びた世莉樺の頬を心配する宗谷、それは彼の優しさからなのか。それとも、まだ彼は世莉樺に特別な感情を抱いているのか。
宗谷は柚葉を振り向く。
「柚葉、お前がやったのか?」
宗谷の声に、世莉樺は背筋が冷たくなるのを感じた。
これまで聞いた事も無いような威圧感に満ちた声、聞く者全てを凍り付かせるような宗谷の声。彼の顔は見えないが、見たいとも思わなかった。
「う、私は……!」
世莉樺を叩いていた時の様子が嘘のように、柚葉はだじろいでいる。
すると宗谷は、言葉を続けた。
「どんな事があっても暴力を振るう理由にはならない、最低だぞ柚葉!」
その言葉を向けられていた柚葉だけでなく、世莉樺も、その場に居た女子達も身を震わせる。宗谷の怒声には、それ程の迫力があったのだ。
柚葉は俯く。その瞳に涙が浮かび、悲しみとも絶望とも、怒りとも取れる表情を浮かべている。両手の拳を握り締め、柚葉は肩を震わせ始めた。
「柚葉……」
長年想い続けた少年に一喝された柚葉の気持ちを慮り、思わず世莉樺は柚葉を呼ぶ。先程まで暴力を振るわれていた事など、もう頭に無かった。
柚葉から返事は無かった。彼女は駆け出し、旅館の奥の方へと走り去る。
世莉樺には、彼女の後ろ姿を見ている事しか出来なかった。
◎ ◎ ◎
宗谷の言葉が頭の中で何度も跳ね返り、柚葉の心を血塗れにしていく。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
半狂乱になった柚葉は、旅館を飛び出していた。
辺りは既に暗く、夜空に浮かぶ満月が淡く周囲を照らしている。既に外出時刻は過ぎていた、しかし、そんな事を気にしている程、柚葉に余裕は残されていなかった。
様々な感情が、掻き混ぜられるように頭を巡る。怒り、悲しみ、憎しみ――人間が持つおおよその負の感情が膨れ上がり、精神そのものが崩壊するような感覚になる。
「ぐっ……!」
忌々しげな声を発する。
道端に生えていた木の幹に身を寄り掛からせ、頭を押さえ、数度肩を揺らしつつ息をした後、
「うっ……うああああああぁぁぁぁぁあああああッ!」
柚葉は、喉が裂けるような声を上げた。しかし、そんな物では宗谷が柚葉に放った言葉はかき消せない。まるで烙印を押されたように、宗谷の言葉は柚葉の頭に、そして彼女の心に刻み込まれていた。
「うっ、ううっ……!」
指の先で、ガリガリと木の皮を削る。
もう、宗谷との仲は終わりだった。宗谷が世莉樺に告白したと知った瞬間に狂い始めた、しかし辛うじて壊れる事は無かった歯車が、今日の出来事で完全に崩壊してしまったのだ。もう宗谷と話す事も、笑い合う事も、一緒に帰る事も出来ない。それらは全て柚葉の手の届かない所に遠のいてしまい、二度と取り戻す事は出来ない物だった。
何故、こうなった? その疑問が柚葉を支配する。
「……あの女の所為だ」
答えが出るのに、さほどの時間は要しなかった。
そう、全ての原因はあの女――雪臺世莉樺なのだ。彼女が居なければ何もかも上手くいっていたのだから。彼女が居なければ、宗谷にあんな言葉を投げられる事も、自分がこんなに狂ってしまう事も無かったのだ。
「許せない。絶対に、許せない……!」
自分の物とは思えない、醜くて悍ましい声が出る。亜麻色の前髪が乱れ、血の涙でも流しそうな柚葉の目に被さっていた。
その時だった、さほど遠くない場所から、何かの鳴き声が柚葉の鼓膜を揺らしたのだ。
(……何?)
鳴き声の発生源は直ぐに見つかった。柚葉が身を預けていた木の側の草むらで、一匹の小猫が横たわっていた。柚葉が歩み寄っても逃げようとせず、どこか力無く鳴き声を発するのみだ。母猫に見捨てられ、空腹の限界なのか、或いはカラスや蛇の襲撃に遭い、怪我をしているのかも知れなかった。
小猫の目が柚葉を見上げ、また小さく鳴いた。威嚇しているようにも、逆に助けを求めているようにも思えた。
瞬間、柚葉の脳裏にある光景が蘇る。先程の騒乱の際、自分に反抗して来た世莉樺の目だ。そう、あの時の世莉樺もこんな目をしていた。怒りが内包されつつ、まるで柚葉を憐れんでいるかのような目。
忌々しかった。
「そんな目で……私を見るなあああああッ!」
我を失った柚葉は、靴の裏で小猫の体を思い切り踏み付けた。小猫は逃げようとしなかった、いや、衰弱していて逃げられなかったのかも知れない。
小猫が激痛に叫び声を上げ、身を捩らせる。それでも柚葉は、僅かも小猫を可哀想だと思わなかった。自分のしている事が残酷だとも、理不尽だとも思わなかった。腹が立って仕方が無かったのだ。
何度も何度も執拗に小猫を踏み付ける。体を踏み付け、頭を踏み付け、尻尾を踏み付け、次第に小猫の発する声は弱まる。
我を忘れつつ、微かに残った思考で柚葉は思った。今自分が踏み付けている存在が小猫では無く、あの女――雪臺世莉樺だったなら、どんなに良いだろうと。あの女をこんな風に踏み付けて嬲り殺せば、どれ程気が晴れるだろうか、と。
「畜生、畜生、畜生ッ!」
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
やがて、血塗れになった小猫は全く反応しなくなった。身を捩らせる事も、鳴き声を上げる事も無くなった。
「ハア、ハア……」
小猫は死んだ。柚葉が、その命を奪ったのだ。
サッカーボールを蹴るかのように、柚葉は命を失った小猫の体を思い切り蹴り飛ばした。小猫の死骸は面白いように宙に放物線を描き、地面に血の跡を残しながら転がった。
「ざまあみろ!」
まるで世莉樺に直接言っているかのように吐き捨て、柚葉は小猫の死骸をまた踏み付ける。
正常な思考を失った彼女は、気付いていなかった。
自分の後ろに、着物姿の見た事も無い、幼い少年が立っている事に。彼が柚葉を見つめ、醜悪な笑みを浮かべている事に。
そして、これから彼女自身に降り掛かる出来事にも、柚葉は気付いていなかった。いや、気付く事など出来なかった。