其ノ四拾四 ~決別ノ刻 其ノ八~
炬白の一撃をまともに受けた焔咒は、ただ這いつくばる事しか出来ない。
物理的な痛みとは違う、他の何かが胸に突き刺さっている気がした。目には見えない、それでも刃物よりも鋭い、何かが。
“本当はもう、お前は気付いている筈だろ。絆の尊さ、大切さに”
炬白の言葉が、頭の中を反響する。
絆、それは焔咒にとって最も憎く、忌まわしく、そして呪わしい言葉だった。焔咒にとって絆など重石に過ぎず、嘘偽りで塗り固められた虚構そのものだったのだ。
しかし今、焔咒の心を揺さぶっているのは他でもない、その絆という一語だった。
(何故だ……何故だ!)
その時だった、突如溟海の鬼姫がその胴体で、怜悧を絡め捕らえたのだ。
予期せぬ出来事に、焔咒は目を見開く。
「な、何を……!」
溟海の鬼姫は、焔咒が復活させた鬼だ。
世莉樺に恨みを持つ少女、柚葉を媒体にする事でその怨念と敵意を受け継がせ、焔咒が使役していた筈。これまでは焔咒の意思通りに動いていたが、今回は違った。
怜悧を倒す事は命じていた、しかし取り込む事は命じていない。
もし溟海の鬼姫が怜悧を取り込めば、彼女の霊力を奪い取り想像を絶する力を発揮する事になるだろう。そして何より、吸収された怜悧は二度と分離出来なくなるかも知れない。
「ぐ……!」
地べたに腹部を擦りつけながら、焔咒は事の成り行きを見る。
世莉樺が紫色の光を帯びた刀を手に、懸命に溟海の鬼姫に応戦しているのが分かる。しかし彼女が付けた傷はものの数秒で塞がり、何の意味も成していない。
異常な回復力――溟海の鬼姫が怜悧の霊力を取り込み始めている証拠だった。
取り返しが付かなくなるまで、もう一刻の猶予も残されていない筈だ。
「はあ、はあ……」
何かに突き動かされるように、焔咒は胸に手を当てながら立ち上がる。足元がおぼつかずに転びそうになったが、近くの壁に寄りかかって堪えた。
凄惨極まる、溟海の鬼姫と世莉樺の戦い。焔咒はそれを背にゆっくりと、水上広場を立ち去る。
行先も、目的も、決していた。
「せ、石碑だ……あれこそが溟海の鬼姫の怨念の源泉、力の源……あれがある限り、誰にもあの化け物を止める事は出来ない……!」
胸が痛み、焔咒はまた地面に崩れ落ちる。
それでも無理やりに立ち上がり、全てを断ち切る為に力を振り絞って歩み始める。
「くそっ!」
◎ ◎ ◎
《くっ、あの化け物、怜悧様の霊力を吸い取って……また力を増し始めている》
光明が見えたと思った矢先、希望はまた暗雲に飲み込まれてしまった。
思えば、私の友達や水鷺隝の人達の魂を吸い、昏倒させたのもあの溟海の鬼姫なのだ。人以外にも、精霊から力を奪う事が出来ても何も不思議じゃなかった。
仕掛けてくる攻撃は次第に強く、速くなっていく。私はただ、天照で防ぐ事しか出来ない。たまに反撃を与えても、付けた傷はすぐに消滅してしまって何の意味も成さなかった。
「どうすればいいの、炬白……!」
攻撃が止んだ合間に、私は訊いてみた。
《オレが思いつく限り、治癒しきれない程の攻撃で一気に倒すしか方法は無いよ……!》
でも、そんな力はもう私には残されていない。きっと炬白だって同じの筈だ。
怜悧さんがくれた力と炬白の霊力で今現在でも、天照は限界まで力を発揮しているのだ。これ以上の強さを引き出す方法なんて、存在するかも疑わしい。
《姉ちゃん、来る!》
溟海の鬼姫が、夜空を背に咆哮する。
直後、大蛇の胴体に載った少女の上半身が追い迫り、私はまた天照で守りに徹する。
長時間嵐の中で戦いを続けている事が原因だろう、冷えた体に疲労が溜まり始めるのが分かる。天照を握る両手からも、力が抜け始めていた。
負ける訳にはいかない、そう自分に言い聞かせてみても、状況は絶望的だった。
《姉ちゃん、負けちゃダメだ!》
そんな炬白の声が聞こえた気がした。
重苦しい絶望が、悪い病気のように私の全身を覆い包んでいくのが分かる。
◎ ◎ ◎
くず折れそうになりながらも、時には地に這いつくばりながらも、焔咒は目的の場所へ辿り着く事が出来た。
水鷺隝大彌國神社の境内、七五三縄に周囲を囲まれる形でその片隅に立つ石碑だ。二メートル程の大きさの石碑には、あの銘文が刻み込まれている。
暗澹な闇に浮かぶ篝火が揺るる中
真に縲絏さるるべき者共が葬れ葬れと騒ぎ立てたり
暗き海に浮かべられ
窈窕なる御髪や着物を水面に巡らせ
沈みていく刹那に呪詛の言葉を吐きき
この身滅ぼうとも我が怨念は永劫に消えぬ
怨念は復讐の鬼となりて咎人へ報いを成すならむ
煉獄の海に引き摺り込まれながら知るべし
お前達の犯しし罪の重さを
焔咒は知っている、この石碑こそが溟海の鬼姫の怨念、そして力の源なのだ。
そして、この場所は彼が世莉樺と邂逅した場所でもある。
「ぐっ……!」
近づこうとして、焔咒を再び胸の痛みが襲う。
たまらず地面に膝を付き、荒く呼吸をする。
焔咒は自嘲的な笑いを浮かべた。そもそも、自分が蒔いた種なのだ。この復讐を企てたのも焔咒、溟海の鬼姫を復活させたのも焔咒。
それなのに今、彼は溟海の鬼姫を倒す為に奔走している。全くもって、意味が分からない。
(無様なもんだ……)
一体自分は何をやっているんだ、焔咒はそう思った。
自分自身でこの事態を招いておきながら、自らその責任を取ろうとしている。そんな事をしても自分のした事を無かった事になど出来ない。いくら焔咒が改心しようとも、もう誰との絆も取り戻せない。焔咒自身が、それを一番よく分かっていた。
だが、それでも焔咒は引き下がろうとは思わなかった。どんなに無様でも、どんなに非難されても関係ない。
最後の良心に賭け、焔咒は自分の手で全てを終わらせる気でいたのだ。
石碑を睨み付けながら呪符をその手に持ち、焔咒は自らの力を込める。呪符が、彼の霊力である赤い光を宿す。
――そして、自らの感情の全てを吐き出すような叫び声と共に、焔咒は呪符を放ち、七五三縄越しに石碑を打ち砕いた。




