其ノ四拾参 ~決別ノ刻 其ノ七~
最後の攻撃を繰り出そうとしていた時、焔咒は勝利を確信していた。
十数枚の呪符を投げつければ、炬白に逃げ場はない。加えて彼は今得物である鎖を手放している、故に防御の手段もない。
回避も防ぐ事も不可能、ならば炬白に残された道は焔咒の攻撃を受け、消し飛ぶ事のみ。
それで炬白を、邪魔者を始末できる。
その後は焔咒の憎悪の根源――憎き怜悧、つまり凛を消す。それで焔咒の復讐は成就される筈だった。
だが、焔咒の策略は思わぬ形で頓挫した。
振り下ろそうとした瞬間、突然腕が動かなくなったのだ。
「っ! な……?」
まるで固まってしまったかのように、腕を動かせなくなっていた。
同時に、手首に何かが絡みついている感覚を覚えた。重さと冷たさが肌に纏わりつくのが分かる、何か金属のような感触だった。
焔咒は視線を上げる、そして自身の腕を拘束していた物体が何なのか、理解した。
(鎖……?)
そう、鎖だった。
炬白が武器として使っている、破魔の力を持つ彼の霊具だ。
何故だ? 焔咒は疑問を抱いた。
そう、炬白はこの武器を手放していた、手を触れていなければ当然、鎖を振る事も、焔咒に鎖を巻き付けて拘束する事も不可能な筈だ。
忌々しい鎖を振りほどこうと、焔咒は身動きする。だが鎖はまるでそれ自体が意思を持っているかのように、焔咒の手首をがっちりと捕らえて離さない。
鎖は紫色の光を放っていた、それは間違いなく炬白の霊力だった。
「まさか……!?」
焔咒は炬白へと視線を向ける、彼はかざすように、その右手を焔咒の方へ伸ばしていた。
そしてその右手もまた、淡い紫色の光を帯びていた。
「貴様、鎖を操って……そんな技を持っていたのか……!」
完全に焔咒の予想外だった。炬白は手を触れずとも、鎖を操る術を有していたのだ。
「覚えるのに苦労はしたよ。でも、努力の甲斐はあった……終わりだ、焔咒!」
宣言するように炬白は言う。次の瞬間、彼は焔咒の方へかざしていた右腕を、ロープを引くように勢いよく引いた。
同時に、焔咒を拘束していた鎖が呼応するように、焔咒を地面へと叩き下ろす。
「ぐっ!」
直後、鎖をその手に握り直した炬白が迫ってくるのが分かり、焔咒は呪符をその手に握り直した。
立ち上がると同時に、
「来るな!」
焔咒はそう叫ぶと同時に、炬白に向けて呪符を放った。
しかし、所詮正面からの単調な攻撃。鎖の一振りで弾き飛ばされ、炬白を傷付けるどころか、その突進の勢いを弱める事すら出来ない。
(何故だ……?)
自身に向かって突進してくる炬白を見ながら、焔咒は困惑する。
実力も霊力も、焔咒は炬白に勝っている筈だったのだ。それなのに何故、自分は炬白に勝てないのか。そして、炬白の姿に……自分の大切な人間を守る為に戦う彼の姿に、どうしてこんなにも心が揺れるのか。
もう、焔咒に冷静さは残っていなかった。彼にある物は、困惑だけだ。
炬白が自分に向けて迫ってくる間も、彼が鎖を振り上げる間にも、その鎖が自分に向けて放たれる間にも、焔咒はただそれを見ている事しか出来なかった。それ程の気迫を、炬白は放っていたのだ。
炬白の霊力が込められた武器が、焔咒の胸に直撃する。
「ぐあっ……!」
紫色の閃光が一瞬だけ、水上広場を明るく照らし出す。
そして焔咒の体が宙に浮き、引っ張られるように後方へと弾き飛ばされた。
床板に仰向けに倒れ込む焔咒、攻撃を受けた胸が痛む、それは単なる物理的な痛みとは違う気がした。
(何故、こいつは……こんなに強い……?)
おぼろげな視界には、炬白が映っている。
自分は彼に負けた、どれ程受け入れたくなくとも、それは焔咒にとって変えようのない真実だった。
どうして勝てないのか、自分に無くて炬白にある物とは……何なのか。
答えは案外、簡単に出た。
(間違っていたのか……俺が……)
炬白が、紫色の光を帯びた鎖をその手に、焔咒の元へと歩み寄ってきた。
勝敗は既に決し、勝利は炬白の物と言って間違いはないだろう。
じわじわと痛めつけられるか、一撃で止めを刺されるか。いずれにせよ、焔咒には抵抗する手段も、その気力も残されてはいなかった。
焔咒は負け、炬白は勝利したのだ。
しかし炬白は止めを刺そうとせず、焔咒を黙って見つめていた。
「……何を見ている、無様だと蔑んでいるのか」
痛む胸を押さえながら、焔咒は炬白に問うた。
だが、炬白は何も言わなかった。その手に持った鎖から紫の光が消える、それはまるで、攻撃する気はないという意思表示のようだった。
荒く息をしながら、焔咒は言葉を重ねる。
「何故止めを刺さない、情けでもかけているのか……!」
そしてようやく、炬白は答えた。
「焔咒、お前は他者との絆を捨てれば強くなれると思ってるんじゃないのか?」
優しく語り掛けるような声色だった、戦意はもう無い、とでも言いたげだ。
焔咒は、返す言葉が見つからない。
「本当はもう、お前は気付いている筈だろ。絆の尊さ、大切さに」
そう言い、炬白は焔咒に止めを刺さずに歩き去っていった。
炬白の言葉が頭の中を巡る、残された焔咒は怒りとも悲しみとも分からない感情に苛まれ、固く瞳を閉じ、拳を強く握り締めた。
◎ ◎ ◎
溟海の鬼姫と対峙し、既にかなりの時間が過ぎていたのだと思う。
確かに天照があれば応戦する事は出来た、でも地の利を完全に奪われているのが痛い。私の足場はいつ破壊されるかも分からない水上広場だけ、でも向こうは海の中をも自在に移動する事が出来る。
今は炬白もいない、さっきのようにまた海に落とされたら終わりだ。
そう思うとどうしても守りに徹してしまい、私は攻める機会を見出せなかった。
とにかく距離を取らないと……そう思って後ろに下がろうとした矢先、私の背中に何かが当たった。
「っ……!」
水上広場の柵だった。気付かぬうちに、端まで移動してしまっていたのだ。
いけない、左右の床は破壊されていて逃げられない、前には溟海の鬼姫がいる……逃げられない!
好機だと感じたのだろう、溟海の鬼姫が大蛇の胴体を不気味にくねらせ、迫ってきた。
迎撃するしかない、そう思った時だった。
「姉ちゃん、天照を振って!」
不意に聞こえた声、それと同時にどこかからか現れた炬白が紫色の光の玉へと姿を変え、飛び込むように天照の刀身に吸い込まれていく。
再び天照が紫色の光を帯びる、私は迫ってくる怪物目掛け、力の限りに刃を振り抜いた。
これまでで最も手ごたえを感じた一撃、溟海の鬼姫の胴体に横一文字に傷が刻まれ、耳を聾するような叫び声が響き渡る。
《今のは効いただろう……!》
炬白の言う通り、効果は劇的だった。
陸上に打ち上げられた魚のように、溟海の鬼姫はその胴体をグネグネと蠢かせていた。痛々しいその仕草に、私は見ていられなくなって目を背ける。
気持ちのいい物ではなかった、でも今の一撃が致命傷になれば、もしこれであの怪物を止める事が出来たのなら……戦いは終わりだった。
少しばかり、安堵の気持ちが芽生え始める。
しかし、それはすぐに叩き潰された。
「えっ……傷が塞がっていく……!?」
ついさっき私が付けた、溟海の鬼姫の胴体に刻まれた傷が、みるみるうちに治癒していくのだ。
傷が完全に消えるまでに有した時間はほんの数秒、途端に化け物は再び何事もなかったように動き出し始めた。
どうして、確かに手ごたえはあったのに……!
考える猶予は与えられなかった、溟海の鬼姫がその胴体を鞭のように勢いよく伸ばした。
しかしその狙いは、私達ではなかった。
《しまった、怜悧様!》
溟海の鬼姫はその胴体で、倒れ伏していた怜悧さんを絡め取った。
昏倒しているらしく、怜悧さんは抵抗する様子も無い。
鬼気迫る炬白の声がする。
《あの化け物、怜悧様を取り込む気だ!》




