其ノ四拾壱 ~決別ノ刻 其ノ五~
放たれた呪符を、怜俐はまた錫杖で防ぐ。
一撃の重さは、回数を追うごとに増していた。焔咒が自身に向ける憎しみを、怜俐は確かに感じ取っていた。
過去を回想するように、焔咒は言う。
「お前は言った……俺を助ける、あの地下の物入れから救い出すと。いつの日になるか分からずとも、俺はそれを信じていた」
初めて会ってから、怜俐――生前の凛は幾度か玖來の元を訪れるようになっていた。玖來の父親に悟られぬよう地下の物入れに忍び込み、そして彼と面会していたのだ。
手土産に、いつも自身が握った握り飯を持って行った。満足に食べ物も与えられていないであろう彼が、空腹に苦しんでいるであろうという配慮からだ。
そして凛は、玖來を励ますために語り掛けた。取り留めもない話が殆どだったが、機を見計らってその提案をした。
“いつか、貴方をここから助け出してみせる。もし行き場がないのなら、私の神社に来ればいい。私は貴方を助ける、必ず……”
その言葉が、どんな形で彼に伝わったのかは分からない。
けれどその時、玖來が笑顔を見せてくれた事だけは覚えている。
「俺は待ったよ、お前が俺を救ってくれると信じ、ずっと……そして、あの物入から出られた時は、どんな礼もしようと思っていた。だが、だが……!」
焔咒の手が、呪符をぐしゃりと握り潰す。
血を吐き出すような叫びが、彼の口から発せられた。
「あの日から、お前はもう二度と来なかった! 綺麗事ばかりを並べて……結局俺を見捨てた!」
新たな呪符が、焔咒の手の中に出現する。
怜俐は身構えようともせずに、ただ焔咒と視線を合わせていた。
錫杖を構えて防御の準備をする、確かにそれも可能だった。だが怜俐はそうしようともせず、ただ立っていた。
防いではならない、避けてはならない……そう感じたのだ。
「お前は俺に偽りの希望を持たせた……そして俺を裏切ったんだ!」
怜俐が玖來にあの提案をしてから程なく、玖來の父親は息子にこれまで以上に凄惨な暴行を加えた。
理由など分からない。だがその日、父親はいつもに増して機嫌が悪く、苛立ちの捌け口を息子にしたのだ。
力の限り顔を殴り、内臓が破裂するのではと思う程腹部を蹴り上げ……玖來にはもう、許しを乞う力すらも残っていなかった。
死が迫って来る最中、玖來はまず目の前の父親を憎んだ。自分がこんな薄汚い物入に押し込められ、ゴミのような食事を与えられるのも、理不尽な暴力を加えられるのも……この男が全ての原因だった。どんな事があれど、この男だけは絶対に赦せなかった。そして、こんな男と結婚し、自分を産んだ母親の事も憎んだ。玖來を産んで間もなく亡くなったと聞かされていたが、こんな目に遭うくらいならば産まれてこなければ良かった、母親が自分を産まなければ良かったのだと感じたからだ。
そして、凛の事も。
彼女は恩人だった、だが自分を助けると言っておきながらそれ以降二度と会いもせず、自分を見捨てた彼女も憎悪の対象に加わったのだ。確かに、父親と比べればずっとまともな人間だとは思った。だが自分に偽りの希望を与え、結局放置した彼女の事も……玖來は恨み、憎んだ。
凛に負の感情を向けるのは筋違いだったかもしれない、だが、そうしなくてはいられなかった。
誰かのせいにしなければ、気が狂いそうだったのだ。
「俺は……お前を赦さない!」
破裂しそうな程の恨みと憎しみが込められた呪符が投げつけられる、怜俐はそれを防ごうともしない。
呪符が自身の腹部に直撃したのを、怜俐は感じた。赤い火花が飛散し、そして痛みが全身を走り抜ける。そして直後に……闇が訪れた。
◎ ◎ ◎
《はっ……?》
天照に宿っていた炬白が、突如何かに気付いたかのような声を発する。
「どうしたの?」
私の問いに、返事はなかった。
代わりに天照が大きな紫色の光を発し、そして炬白が姿を現す。彼は、天照との同化を解いたのだ。
炬白は何も言わずに、どこか別の方を向いていた。彼の視線の向かう先は、怜俐さんと焔咒が交戦している場所だ。
無言で見つめていたかと思うと、
「……姉ちゃんごめん、ちょっとだけ離れる!」
「えっ?」
引き留める間もなく、炬白は向こうへ走っていってしまった。
◎ ◎ ◎
「これで……終わりだ!」
倒れている怜俐に向け、焔咒が呪符を放ったのを炬白は見た。
即座に鎖を振り、炬白はそれを弾き飛ばす。
そして炬白は怜俐を庇うように、同時に焔咒に立ちはだかるように立った。
「お前……!」
止めを妨害された焔咒が、忌々し気な視線を向けてくる。
炬白は鎖を手元に手繰り寄せ、睨み返した。
「させないぞ、焔咒……」
新たな呪符をその手に、焔咒は言う。
「何故そんな女を庇う、炬白。そいつがどんな奴なのか知らないのか?」
「知らないのは焔咒、お前の方だ」
炬白は僅かな間も空けず、言い返した。
「怜俐様はお前が思っているような人じゃない、お前は大きな誤解をしている……知らないだろう? 本当の事を」
焔咒を憐れむように、彼に同情するように、炬白は問いかけた。
「本当の事、だと」
焔咒は俯くように、視線を下ろした。
そして再び顔を上げた時、焔咒はまた鋭い眼差しで炬白を射抜ていた。
「とっくに知っている、そいつは口では偉そうな事を言うが、所詮嘘しかつかない、希望を与えるのではなく、奪う……! 俺は、その女を赦しはしない!」
呪符が、投げつけられた。
一枚や二枚ではなく、無数の攻撃――防ぎきれないと判断した炬白は、早々に避けるという選択肢を固めた。
後方や左右に飛び退き、呪符を避ける。そして最後に飛んできた物のみ、鎖で弾き飛ばした。
再び、焔咒に向き直る。
「怜俐様は、そんな人じゃない!」
声を張り上げ、炬白は焔咒の言葉を否定する。しかし、やはり焔咒は聞く耳など持たなかった。
「黙れ、邪魔をするのなら……まずお前から先に消してやる!」
宣戦布告をする焔咒。
凄まじい敵意が向けられる中、炬白は紫色の光を放つ自身の霊具を握り、毅然とした面持ちで応じた。
「望む所だ、ぶっとばして目を覚まさせてやる」




