其ノ四拾 ~決別ノ刻 其ノ四~
私が天照を構え直すのと、溟海の鬼姫が襲い掛かって来るのはほぼ同時だった。
その瞳に赤い光をたたえ、怒りに満ちた少女の顔が迫って来る、これまで何度も見てきた筈なのに、身が凍り付くような感覚を覚える。
「姉ちゃん!」
炬白に呼ばれて彼を振り向くと、彼が天照に向かって手をかざす。
次の瞬間、彼が紫色の光へと姿を変えて、吸い込まれるかのように天照の刃へと同化していく。
それは、二年前にも見た光景だった。炬白が同化した天照は、夜闇の中で紫色に神々しく光っていた。
《天照を振って!》
天照に同化している炬白の声が、頭の中に浮かぶように伝わる。
私は溟海の鬼姫に向き直り、迷いを断ち切るかのごとく、天照を振り抜いた。
紫色の刃が彼女の身に触れた瞬間、バチッという火花が炸裂するかのような音と共に、紫色の光が炸裂する。
効果は劇的だった。
溟海の鬼姫が、悲鳴を上げながらその身を引いていく。
《怜俐様の霊力がまだ天照に残されてるみたいだ、それにオレの力も加わってるから……これならきっと、勝てるよ》
天照からはもう、怜俐さんが宿した白光は消え失せている。でも、彼女がくれた力は残されているようだった。
さらに炬白が同化した事で、更に力を増した。これならきっと勝てる、希望が得られた気がした。
でも、気は抜けない。
天照と同化している間は、炬白が居ない。実質、私は一人で戦わなければならない。咄嗟に彼に助けてもらう事も難しくなる、二年前の怪異の時に学んだ事だった。
耳を聾するような咆哮を上げたかと思うと、溟海の鬼姫が荒れ狂う海の中に姿を消す。
《姉ちゃん気を付けて、不意を突いて襲ってくる!》
私は周りを見渡した、どの方向にも荒れる海が広がっているだけだ。
もっと静かな状況だったなら、海に身を潜めた相手の気配も感じられたかもしれない。でもこの波や豪雨の中では、溟海の鬼姫の気配も、音も、何もかもがかき消されてしまう。
足元すらも安全じゃない、広場の床板を突き破る事など、あの鬼には容易い事なのだから。
頼りになるのは、私の視覚だけだった。
どこから来る、どの方向から襲ってくる……その時、私の視界の端で一際大きい水飛沫が上がった。
《姉ちゃん、右だ!》
私が右を向いた時には、既に溟海の鬼姫は目の前まで迫っていた。
寸前で反応した私に与えられたチャンスは、まばたきする程度の時間だった、それでも私はその隙を逃さない。
もう一度迎撃を、そう思って天照を振った。
紫色の刃が、溟海の鬼姫の身に直撃する。闇夜を照らし出す程の紫の閃光が、眩しく発せられた。
手ごたえはあった、攻撃が確実に通っているのが分かる。
いける、これならきっと……!
怜俐さんと炬白、二人の力を宿した天照を手に、私は再び溟海の鬼姫と対峙する。
◎ ◎ ◎
怜俐と焔咒は、雷雨の中で向かい合う。
二人の間に言葉は無かったが、それでも怜俐には焔咒が自身に向ける憎しみ、そして怒りが感じられた。それは単なる感情という範疇を超え、目に見えない刃物で全身を貫かれているような感覚になる。
それ程までに、焔咒が自身を憎む理由――怜俐には、それが分かっていた。
沈黙を破る形で、怜俐は語る。
「焔咒……いいえ、玖來。貴方は昔……村で父親から迫害を受け、地下の物入れに閉じ込められていた。偶然通りかかった私は、貴方の苦しむ声を聞いて、貴方を見つけた……」
もう何十年、何百年も昔の事だった。怜俐は村の巫女、凛として。
そして焔咒は村人の少年、玖來として生きていた頃の話だ。
命を失い、怜俐として姿を変えた後でも、凛として生きていた頃の記憶はそのまま彼女の中に残されていた。
だから勿論、彼を見つけた時の事も鮮明に覚えている。
それはある日の夜の事だった、怜俐……つまり凛が所用を済まし、神社に帰ろうとしていた時だった。近くのどこからか、うっすらと少年の声が聞こえてきたのだ。
それは苦し気に呻くような、痛みに悶えるような……そんな声だった。
誰がどこからそんな声を発しているのかは分からなかったが、何か尋常ならざる物を感じた凛は、自然と声の主を探していた。
そして程なくして、その声が近くの民家の片隅に建てられた小屋から漏れ聞こえている事に気付いた。
凛は迷いもなく民家の敷地に踏み入り、小屋の戸を開けた。
そこには階段があり、地下へと続いていた。
少年の声は、この階段を下りた先から発せられている。そう確信した凛は足早に地下に向かい、そして信じられない物を目の当たりにした。
そこには、少年がいた。
汚れだらけの着物を纏い、腕や足の至る所に傷が付いた幼い少年だった。農具や縄が散乱する用具入れの中で、彼は汚い地べたに座り込み、痛みに表情をしかめていた。
彼の姿に、凛は目を奪われていた。すると、彼の瞳がゆっくりと、彼女の方へと向けられたのだ。
“誰だ”
それが、彼と交わした初めての言葉だった。
「あの時は驚いたよ。誰かの足音が聞こえたと思ったら、まさかあの物入れに親父以外の人間が足を踏み入れる事があるなんてね」
遠い過去を懐かしむように、焔咒が言った。
焔咒の元となった少年――玖來は、父親から虐待を受け、物入に押し込められていたのだ。
母親は病で亡くなり、彼を助ける者は村にはいなかった。あの時は偶然、父親が物入れへの入り口の戸を閉め忘れ、彼の声が凛に届いたのだ。
連日続く虐待に、玖來は人間不信になっていて、彼は初めて会う少女を鋭い眼差しで射抜いた。父親によって体だけでなく、心までもが傷付けられていたのだ。
歩み寄ろうとした凛を、玖來は叫び声を上げて拒絶した。
たったそれだけのやり取りで、凛は彼が受けた心の傷がどれ程深い物なのかが理解出来た。
親から愛情を注がれず、こんな地下に押し込まれた彼。一体、どれ程の間ここに閉じ込められていたのだろうか。きっと、食事もまともに与えられていないに違いなかった。
彼の気持ちを鑑みた時、気付けば凛の頬には一筋の涙が伝っていた。
「あの時、お前が涙を流した事も……鮮明に覚えている」
あの時の凛の涙は、単なる同情の念から出た涙ではなかった。表現しようのない感情が、
玖來もそれを感じ取ったのだろう、彼の険阻な表情は和らいでいた。
涙を拭こうともせずに、もう一度凛は彼に向かって手を伸ばした。もう、彼は凛を拒絶しなかった。
「俺はあの時、お前の涙が本物だと信じて疑わなかったよ。だからこそ……お前に気を許してしまったのかもな!」
焔咒が再び呪符を持った、次の瞬間にまた攻撃が繰り出され、怜俐はそれをただ防いだ。