其ノ参拾九 ~決別ノ刻 其ノ参~
世莉樺と炬白が溟海の鬼姫と戦っている傍らで、怜俐は彼女の霊具である錫杖を手に、空に浮かぶ焔咒と対峙していた。
焔咒が呪符を放ち、怜俐が錫杖によって作り出す光の壁でそれを防ぐ。
飛び道具を持つ焔咒が、遠方から怜俐に攻撃し続ける。戦況はその繰り返しだった。
何枚目かも分からないであろう呪符を取り出し、焔咒はそれに自らの霊力を込める。呪符が禍々しい赤い光を纏う。
怜俐は身構えた。しかし、攻撃は繰り出されなかった。
代わりにその言葉が、焔咒の口から発せられたのだ。
「まるで手ごたえがない。どうしたの姉ちゃん、かかってきなよ」
怜俐は錫杖を構え直した、焔咒の言葉には答えない。
すると焔咒は続けた。
「遠くからでも、俺を狙い撃つ事は出来る筈だろ」
確かに、焔咒の言う通りだった。
怜俐は遠方の敵を攻撃する手段を持ち合わせている、滞空する能力を持つ焔咒を叩き落とす事は不可能ではない。
しかし、怜俐はそれを使おうとはしなかった。
教え諭すように、怜俐は言う。
「私は、あなたと戦うつもりはない」
焔咒は、新たな呪符をその手に召喚して言った。
「お前に無くとも俺にはある、俺を裏切った恨み……忘れたとは言わせないぞ」
目を見開き、鬼のような形相を浮かべる焔咒。
彼が抱く凄まじい怒りと憎しみが、見えない刃物となって怜俐の心を刺し貫く。
怜俐は感情を表に出さないように努めながら、焔咒の言葉を否定した。
「裏切ってなどいない、私は……!」
「黙れ!」
言葉は遮られた。
そして焔咒の手から呪符が放たれ、怜俐に迫る。
怜俐はこれまでと同様に、錫杖を振るってそれを打ち払った。それまで以上に、威力が増しているのが分かった。
しかし、攻撃は終わらなかった。続けざまに無数の呪符が投げつけられ、怜俐はまばたきもせずに防ぎ続けた。僅かな合間を見計らって、怜俐は同じ言葉を焔咒に叫ぶ。
「私は、あなたと戦うつもりはない!」
攻撃の手は止まなかった。焔咒の耳には届いていても、彼の心には怜俐の言葉は届いていないのだ。
より一層感情を込めて、怜俐は言った。
「私はあなたと戦いに来たのではない、救いに来たの!」
「救いに、だと……」
攻撃の手を一旦止めると、焔咒は言い放った。
「そんな言葉に惑わされるとでも思ったのか、二度も俺を騙せると思うな!」
雷雨は激しさを増していく、空を切り裂くかの如く轟く雷は焔咒の怒りを、そして降り注ぐ雨は彼の悲しみを具現化しているかのようにも思えた。
怒りに肩を震わせながら、焔咒は言う。
「忘れたとは言わせないぞ、お前が俺にした仕打ちを……!」
◎ ◎ ◎
浮遊感と冷たさが、私の全身を覆い包む。
海の中に落ちた私は、水面に浮かび上がろうと懸命に両手両足を動かしていた。
しかし服を着たままの状態の上、海は嵐に荒れ狂っている。どれ程必死に水面に出ようとしても、体は逆に海中へ沈んでいった。
口の中に海水が入って、強烈な塩辛さが口腔内を襲う。だけど私には、咳き込む事すら出来ない。
「ぶっ、うっ……!」
息苦しさに襲われ、焦りと恐怖が込み上げてくる。このままでは溺れ死ぬのを待つばかりだ。
何とかして水面に出なければ、その一心で身悶えするけれど、返って体力を消耗するだけだった。だけど、今の私にそんな事に気付く余裕は残されていない。
方向感覚を失い、上も下も、右も左も、水面に向かっているのか、逆に海中に沈んでいっているのかも分からなくなった。
(っ、息が……)
酸素不足に陥り、意識が朦朧とし始める。
――ここまでなのか、諦めの気持ちが過り始めた、その時だった。
目の前に、一人の少女が現れた。
(……!?)
薄れ始めた意識を懸命に戻して、私はその少女を見た。
巫女装束に長い黒髪を持ち、綺麗な顔立ちをした彼女は何も抵抗する様子も見せず、悲しみに暮れた表情を浮かべたまま海中に沈んでいく。その姿を見て、私は自身の記憶と合致する何かを感じた。
あれは……『凛さん』だ。
遥か遠い昔にこの水鷺嶋で海に沈められ、殺されたあの……文章でしかその存在を知らなかった、悲運の巫女なのだ。
何故、死にゆく彼女が目の前に現れたのか。幻覚か、それとも幻か……何も分からない。
困惑しながらその姿を見ていると、彼女の口が微かに動いた、水中なので言葉など発せない筈だった。
しかし、凛さんの声は確かに、私に届いた。
《玖來……》
誰か、人の名前だという事は分かった。
そして私には、凛さんの両目が涙に潤んでいるのが見えた。まるで託されるかのように、海の中でも鮮明に見えたのだ。
(これは……!?)
その時、誰かが私の手を取り、彼女を引っ張った。
向かう先には水面があって、海中から救い出されたのだ。
「ぶはっ! ごほっ!」
海中にいたのは数分間程度だった、しかし私にはそれが永遠のように感じられた。
「姉ちゃん、大丈夫?」
自身の身を案じる言葉と共に、背中がさすられるのが分かる。私を海中から救い上げてくれたのは、炬白だった。
海水を吐き出しながら、世莉樺はゆっくりと呼吸を整える。
全身が異様に重く、冷たかった。飲み込んだ海水の所為で腹部が重く、吐き気に襲われる。
「うっ、んっ……!」
炬白の言葉に答えようとするが、声が出せなかった。
すると炬白が私の胸に手を添えて、何か呪文を唱え始めた。すると彼の手が一瞬淡い光を放ち、私の体から重みも、辛さも薄れていった。
「ごめん、苦しいのは分かる。休ませてあげたいけど……立って、姉ちゃん」
「うん、大丈夫……!」
炬白に助け起こされるようにして、立ち上がる。
戻りつつある思考で、先程目にした光景を反芻する。海中に沈みゆく、凛さんの姿を。
「っ……」
目の前には、大蛇と少女の姿を合わせ持つ異形の怪物、溟海の鬼姫が蠢いている。
あの化け物は凛さんの化身、彼女の怨念が形を成した鬼なのだ。
改めて私は、溟海の鬼姫の顔を見た。これまでは怒りに満ちた顔にしか見えなかったが、今は悲しい顔をしているようにも見えた。
「姉ちゃん」
炬白に呼ばれる、いつの間にか手放してしまっていた天照が、私の右手に握られている。
彼が何を言うつもりなのか、自分が今何をしなくてはならないのか、もう分かっていた。
「うん……!」




