其ノ参拾六 ~解放〜
誰かが、自分を呼んでいる。闇の中で目を閉じながら、世莉樺はそれを感じ取っていた。
呼んでいるのは誰なのか? どこから呼んでいるのか? 世莉樺には何も分からなかった。
しかし一つだけ、はっきりと理解できる事がある。世莉樺を呼ぶその声を聞くのは、初めてではないという事だ。聞きなれている、聞き覚えのある、そんな程度ではなく……いつも聞いていた、馴染みのある声だ。
その声がまた、世莉樺を呼んだ。
――姉ちゃん。
はっきりとしない意識の中、世莉樺はゆっくりと目を開ける。
そして、もう二度と会う事のできない筈だった少年が、自分を見つめている事に気が付いた。
瞬きも忘れて、世莉樺は彼の名を呼ぶ。
「悠……斗……?」
雪臺悠斗。
世莉樺の弟にして、彼女が救えなかった、救わなければならなかったのに見捨ててしまった少年だ。
姉と視線が合っても、悠斗は何も言わなかった。ただ微かに頷いたのみだ。
改めて世莉樺は、弟の名前を呼んだ。
「悠斗……!」
溢れる涙に、世莉樺の視界が潤んでいく。
それは罪悪感の涙だった。生きたまま焼かれゆく弟を見捨て、背を向けて立ち去る――いくら成す術がなかったとはいえ、姉として、人間として、赦される行いではなかった。
震える涙声で、ただ謝罪する事。それが世莉樺に出来る、唯一の事だった。
「ごめんね悠斗……私、あの時悠斗を助けられなかった、悠斗を見捨てて逃げ出した……!」
悠斗は、首を横に振った。
そして彼は、世莉樺の頬にそっと人差し指を当てる。世莉樺の瞳から零れ落ちた涙が、悠斗の指に吸い込まれていく。
弟のその行為は、自分を責めようという念からの物ではない。世莉樺にはそれが分かった。
悠斗が微かに口を開く。発せられた声は、耳が受け取ったというよりも、頭の中に直接浮かび上がったといった方が適切だった。
“お帰り、姉ちゃん”
霞がかかるように、悠斗の顔が見えなくなっていく。
けれど不思議な事に、世莉樺は不安を感じなかった。直ぐに別の少年の顔が現れたから。
彼は優しい声で、語り掛けてきた。
「お帰り、姉ちゃん」
悠斗と同じ言葉を世莉樺に贈ったのは、炬白だった。
「炬白……!」
そして世莉樺の頭の中に、波紋の如くその事実が広がっていく。
炬白の正体が彼女の弟、雪臺悠斗だという事。
「悠……斗……!」
世莉樺の瞳を、涙が満たしていく。
ずっとずっと会いたかった弟が、目の前に居るのだ。言いたい事、伝えたい事は沢山あった。
しかし炬白は小さく頭を横に振り、世莉樺を制した。
「姉ちゃん、残念だけど今はまだ駄目だ。これが全部終わったら話そう、まずはここから出るんだ」
世莉樺にそう告げると、炬白は目を閉じて、何かの言葉を、呪文を唱え始める。
次の瞬間、視界が白い光で満たされ、意識が遠のいていった。
◎ ◎ ◎
「んっ、うっ……!」
目を覚ました時、世莉樺は炬白に身を預ける形で、地面に座り込んでいた。
手の平が、木面の床の感触を直に感じ取っているのが分かる。ここはどこなのか? そう思って辺りを見回し、世莉樺は気付いた。ここは、海上に造られた水鷺隝大彌國神社の広場だ。
いつの間に振り始めたのか、雨雲に支配された空からはさざめくように雨粒が落ちてきていた。荒れ狂う海が大波を引き起こし、海水の飛沫が広場の上にまで飛散している。
そして何よりも、その存在を視認した瞬間、世莉樺は息を呑んだ。
彼女の前には焔咒と、そしてあの巨大な鬼が、溟海の鬼姫が居たのだ。
「っ……!」
あの恐ろしい鬼が、再び目の前に現れた。凄まじい恐怖が体を走り抜け、全身が凍り付いたような感覚を覚える。瞬きすらも出来なくなる。
しかし、そんな世莉樺を励ます声が、彼女のすぐ側から発せられた。
「大丈夫だよ、姉ちゃんは一人じゃない」
声の主は、顔を見なくても分かる。彼が手を握ってくれたのが分かる。
人間と何も変わらない温かみが、世莉樺に伝わってきた。
「オレが居る、それに怜俐様も」
恐怖心が薄らいでいき、世莉樺の身内に勇気が湧いてくる。
気付けば既に、体の自由が戻っていた。雨粒を全身に受けながらも、世莉樺は立ち上がった。
次の瞬間、空のどこからか一本の刀が落ちてきて、世莉樺の目の前に突き刺さった。
それは紛れもなく、霊刀・天照。世莉樺に帰属する霊刀だ。
世莉樺は刀の柄を握り、炬白と視線を合わせて応じた。
「うん……!」
炬白が腰の鎖を、彼の霊具を抜き、構える。
世莉樺は天照を引き抜いた。銀色の刃が、決意に満ちた彼女の顔を映していた。
あの真言で鎖に紫色の光を宿すと、炬白は世莉樺に告げる。
「最後の戦いだ姉ちゃん、ここで全部終わらせよう」
溟海の鬼姫が咆哮する、共鳴するように雷鳴が轟き、水鷺隝を禍々しく照らし出した。




