其ノ参拾五 ~決死ノ呼ビ声~
(……正しく、闇の中だ)
周囲を見渡した炬白は、まず率直に自分の思った事を心中で述べた。
彼は怜俐の手によって溟海の鬼姫の魂の中へ入り込んだ、そこは真っ暗な場所だった。闇に支配された、水の中に居る感覚だった。水の冷たさが、体が浮き上がる感覚が、炬白の全身を覆い包んでいた。
少しの間、炬白は周囲を見渡していた。そして彼は、自分がこの場所に来た理由を思い出す。
(そうだ、姉ちゃんを探さないと……!)
焔咒の策略によって溟海の鬼姫に取り込まれた世莉樺、彼女を助け出す事。それが炬白の最重要事項だった。恐らくこのどこかに、世莉樺は囚われている筈なのだ。
世莉樺はまだ生きている、必ず。炬白は闇の中、彼女の捜索を開始する。
そして程なくして――見つけた。
闇の中でも鮮明に見える、腕や足をどこから伸びているのかも分からない髪の毛に絡め取られ、拘束された少女の姿を。
(姉ちゃん!)
炬白はすぐに世莉樺の元へと向かった。
彼女の口から空気の泡が漏れ出ているのが分かる、まだ生きている事を悟り、僅かながらも安堵を覚える。
しかし、事態は思っていた以上に複雑だった。
世莉樺はその黒髪を水中に広がせながら、その目を開けていた。だが、どこにも焦点を結ばない虚ろな瞳だった。その口からは、『赦して……』、『悠斗……』などという言葉がうわ言のように発せられている。正常な状態にない事は、一目瞭然だった。
炬白は、歯を噛み締めた。本当ならば、このような状態に至る前に救わなければならなかったのだ。
世莉樺に向けて、炬白は呼び掛けた。
「姉ちゃん、聞こえる? オレだよ!」
反応は無かった。世莉樺は炬白の声に応じるどころか、彼の方を向く事すらしない。無視されているというよりも、そもそも炬白の存在に気付いていないという雰囲気だった。
炬白はより一層声を大きくし、再度呼び掛ける。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
――やはり、世莉樺は反応しなかった。
ただ語りかけても無意味だと、炬白は思い知る。
(くそっ、意識を奪われてる……)
余裕は無かった。時間が経つ毎に世莉樺は意識を侵食され、目を覚まさせる事が難しくなっていくのだから。一刻も早く助け出さなければ、手遅れになってしまう。
炬白は世莉樺の正面から彼女の両肩を掴んだ。そして、叫ぶ。
「姉ちゃん頼む、ここから早く出ないと、もう……!」
結果は、炬白の予期していた通りだった。炬白が肩を揺さぶっても、世莉樺は虚ろな瞳をしたまま、ただゆらゆらと体や頭を揺らすのみ。溟海の鬼姫に意識を奪われた彼女は、まるで魂を失った抜け殻のようにも思えた。
既に、遅かったのかもしれなかった。
世莉樺は炬白が来る以前から、完全に鬼の一部分と化してしまい、助け出す事が不可能な状態に陥ってしまっていた――そんな最悪の予感が、炬白の小さな体を駆け巡った。
(嘘だ……嘘だ!)
絶望感に苛まれ、炬白は冷静さを失う。
とても平常心を保ってなどいられなかった。炬白は世莉樺を守る為に来た、それに失敗するという事は、存在意義を失うような物だったのだ。
声に涙が混じっていると気付いたのは、言葉を発した後だった。
炬白は世莉樺の両肩を掴んだまま、とすん、と彼女の胸の自身の頭を押し付ける。
「ねえ、姉ちゃん……覚えてる? 二年前の怪異の時、オレが渡した……姉ちゃんへのメッセージの内容」
届いているのかも分からない言葉。
それでも、炬白は世莉樺に、『姉』に、語りかけ続ける。
「オレがまだ生きてた頃、姉ちゃんはいつもオレの事を気にかけてくれてたよね。お陰でオレ……幸せだった」
炬白は、世莉樺の弟……雪臺悠斗が精霊化した姿。
だから彼には、生前の記憶――悠斗として生きていた頃の世莉樺との思い出が、全て残っている。姉の優しさや強さも、世莉樺が時に見せた厳しさや、そして弱さや脆さも全て。
悠斗が熱を出した時、忙しい母に代わって世莉樺が必死に看病してくれた事や、悠斗が小学校の勉強で分からない所があると言えば、自分の勉強を後回しにしてまで教えてくれた事、他にも沢山、悠斗には……炬白には、世莉樺から受けた優しさの記憶が残されているのだ。
「だからオレ、姉ちゃんにも幸せになって欲しかった。いつも自分の事より他人の事を重んじてくれる優しい姉ちゃんだって、幸せにならなくちゃいけない。そう思ってたんだ……」
世莉樺は、何も答えない。
炬白と視線を合わせてくれる事すらも、ない。
「だけど、姉ちゃんが居なくなっちゃったら……意味がないだろ、姉ちゃんが居なくなったら……誰が悠太や真由を守るんだよ!」
炬白の脳裏に、二年前に世莉樺と交わした約束がよぎる。
あの時炬白は、鬼から世莉樺を助けた。その代わりに彼は、世莉樺にある事を約束してもらったのだ。
その約束とは――既にこの世から切り離された身である炬白、悠斗に代わって二人の弟妹を、真由と悠太を守るという事だった。
炬白は、世莉樺の両肩を掴む手に力を込めた。
聞こえないのならば、聞こえる場所まで引き戻すしかない。そう答えを出し、彼は姉に叫んだ。
「約束を破るなんて……そんなの世莉樺姉ちゃんがする事じゃないぞ!」




