其ノ参拾参 ~苦境ノ策~
炬白にとって、圧倒的に不利な戦いだった。
敵は焔咒と溟海の鬼姫、数にすれば二人。対する炬白には怜俐が味方に付いている。
神霊たる怜俐は、非常に心強く思えるかも知れない。しかし、溟海の鬼姫の力は、彼女をも凌駕していた。通霊力である世莉樺を取り込み、さらに霊場であるこの水鷺隝大彌國神社の海上広場に移動した事で、完全体と化した化け物。側に居るだけでも禍々しく、危険な空気が全身を覆い包む程だ。
加えて、炬白と怜俐が戦えるのは広場の上のみ、しかし焔咒は空を飛べ(今の所焔咒は戦いに参加せず、傍観するように浮いているだけだが)、溟海の鬼姫は海中を移動する事も出来る。地の利を、完全に奪われていた。
「くっ……!」
溟海の鬼姫は、まず炬白を標的にしたようだ。
大蛇の下半身を蠢かせながら、化け物は炬白目掛けて襲い掛かってくる。鎖を両手で張り、炬白は素早く唱えた。
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽!」
紫色の光を、炬白の霊力を纏った鎖を振り抜き、迫り来る怨念に歪んだ少女の顔面を打ち払う。
結果は、惨敗だった。鎖は溟海の鬼姫に命中する直前に、見えない壁に阻まれるように弾き飛ばされ、虚しく宙を舞ったのだ。
(くそ、これ程まで……)
撃退する事はおろか、突進を止める事すらも出来なかった。
避ける、それ以外に炬白に成す術は無い。
鎖を手元に引き戻そうともせずに、炬白は右へ飛び退いた。数秒前まで彼が立っていた場所を、溟海の鬼姫が突き抜けていく。突進を回避する事には成功した、だが一片たりとも気は抜けなかった。
大蛇の下半身を持つ化け物の動きは、巨体に反して俊敏かつ繊細だった。ヌメ光る大蛇の体を気味悪くくねらせ、化け物は炬白の方へ素早く方向転換する。
次の瞬間、その異様に長く伸びた黒髪が、炬白に向かって飛んできた。
「うっ!」
不気味で気味の悪い光景だった。僅かたりとも怯んだ事で逃げ遅れ、炬白は髪に足首を絡め取られる。体制を崩され、彼は広場の板張りの床に転倒した。
振りほどいて脱出しなければ、海の中に引きずり込まれる。そうなればもう勝負にならないだろう。
自由を取り戻そうとあがいていた炬白、助けは即座にやってきた。
怜俐が白光を纏う錫杖を振りかざし、炬白の足首を捕らえていた髪の毛を断ち切ったのだ。
「炬白」
彼女に助け起こされ、炬白は安堵する。
「すみません、怜俐様……」
神霊たる彼女は、やはり心強い存在だった。それでも頼りきりになどなっては居られない。気を抜けば、一瞬で倒される。
海上に蠢く溟海の鬼姫、そして焔咒に気を配りつつ、炬白は率直な考えを思い浮かべた。
(くそ、オレの手に負えるとはとても思えない……)
自分と怜俐を見下ろす異形を睨み付け、炬白は鎖を手元に引き戻した。
力の差は彼の想像以上だった、真正面から挑んでも勝ち目はゼロに等しい。何か策を考えなければ、一方的に打ち倒されるのは目に見えている。
(それに、焔咒の奴……あいつもいつ、動き出すか分からない)
戦いを傍観するように宙に浮かぶ焔咒、炬白は彼に対しても警戒を怠らなかった。あのずる賢く卑怯な精霊がいつ戦いに加わり、何を仕掛けて来るのか分からないからだ。
「炬白、よく聞いて」
怜俐の発した言葉に、炬白は彼女を振り返った。
神霊の少女は、告げる。
「あの溟海の鬼姫はもう、私達の手に負える存在ではない……だけど『核』を抜き取る事が出来れば、その力を弱める事は出来るわ」
「核を抜き取る……それってまさか?」
怜俐の言葉の中で最も重要だと思った部分を、炬白は繰り返した。
綺麗な黒髪をさらりと揺らしつつ、怜俐は補足する。
「そう、あなたのお姉さんを……世莉樺を先に救い出すの。そうすれば溟海の鬼姫の力は弱まるし、それに天照の力を借りる事も出来る」
仮にそれが出来たとすれば、策の幅は大幅に広がる事になるだろう。
取り込まれた世莉樺を救い出す事で敵の戦力は低下する、さらに世莉樺が戻れば天照……強力な霊力の秘められた霊刀の力を以て戦える。数の面においても、単純に考えて三対二となり敵よりも優位に立てる。
それならば行ける、『勝ち目がない』という今の状況を、『勝てるかも知れない』という段階に引き上げられるかも知れない。
だが、それには大きな問題があった。
「だけど、そんな方法が……?」
肝心の方法を、まだ炬白は聞かされていなかったのだ。
すると、怜俐は視線を溟海の鬼姫、そして焔咒の方へと向けた。
「私の力で溟海の鬼姫の動きを封じる。そして炬白、貴方はその隙に溟海の鬼姫へと入り込み、世莉樺を助け出して」
方法は、何となく想像が付いていた。二年前の怪異の時も同じ方法を使ったからだ。
しかし今回はあの時と違い、一つ問題がある。
「でも怜俐様、そんな事をしようとすれば焔咒が……」
敵は溟海の鬼姫だけではない、焔咒も居る。怜俐が溟海の鬼姫の動きを封じれば、当然焔咒も動き出してくる筈だ。
妨害してくる事は、恐らく間違いない。
しかし怜俐は、言った。
「大丈夫、焔咒が狙っているのは私だから。それに私も、決着を付けたいの」
怜俐の凛とした横顔には、確固たる意志が秘められているようにも思えた。
精霊と神霊という立場の差もあるが、炬白は反論する気も起こらない。
「溟海の鬼姫を生み出した責任……そして彼を、焔咒をあんな風にさせた責任は……私にもあるのだから」
自らの因果に、罪に決着を付けようとしている怜俐。炬白の答えは、決まっていた。
「分かりました怜俐様、貴方に従います」
世莉樺を助ける事、それは炬白にとっての最重要事項でもあるのだ。
次の瞬間、溟海の鬼姫が海水を散らしながら二人に襲い掛かってきた。




