其ノ参拾弐 ~黒イ囁キ~
闇の中に、世莉樺は立っていた。
どこを見渡しても何もない、純黒に染め上げられた場所。ここはどこなのか、どうしてこんな場所に居るのか、世莉樺には分からない。どれ程考えてみても、分からない。
《……》
誰かの、声が聞こえる。
誰かが言葉を発している。誰かが、雪臺世莉樺に質問を投げかけている。
「誰? 誰なの……?」
恐る恐る問い返してみると、どこから発せられているかも分からないその声は、より明瞭に世莉樺の鼓膜を揺らした。
《どうして、弟を見殺しにしたの?》
氷のように冷たい、無機質な声。
「えっ……?」
世莉樺は戸惑い、無意味な声を発する事しか出来なかった。
ごまかしを拒むかのように、どこから発せられているのかも分からない声は続く。
《どうして、悠斗を見殺しにしたの?》
今度は、明瞭に聞き取れた。その声が女性の声だという事も分かった。
更に質問の内容も世莉樺は理解する。同時に彼女の胸の内から広がった不安感、罪悪感が、波紋の如く世莉樺を満たしていく。
世莉樺の罪。まだ幼き頃、火事の中で逃げ遅れた弟を見捨て、自分一人で逃げ出したという……彼女の忌まわしく辛い過去。
謎の声は、その事で世莉樺を糾弾しているのだ。
「違う、私は……!」
否定しようとした世莉樺を、女の声は更に責める。
《何が違うって言うの?》
淡々とした口調。しかし怒鳴られる以上に、その言葉は刃となって世莉樺の胸を串刺しにした。
世莉樺は、何も言い返せなくなる。
《貴方は炎の中、自分の弟を見捨てて逃げ出した……それは紛れもない真実。そうでしょう?》
次の瞬間だった。
インクを落としたかのように、水の中に黒い靄が浮かび始めたのだ。不規則に揺らいでいたその靄は、次第に何かを形作っていき……世莉樺も知る少女の姿に変じた。
――凛だ。
不思議な事に、世莉樺はさほど驚きを感じていなかった。心のどこかで、声の主が彼女だという事を悟っていたのかも知れない。
「うっ……!」
もう、何も言う事は出来なかった。世莉樺は自身の瞳に涙が浮かぶのが分かる。
しかし世莉樺と対照的に、凛は笑っていた。絶望する世莉樺を滑稽に思っていたのか、或いは世莉樺が壊れていく様子を楽しんでいるのかは分からない。だが、凛が浮かべているのは純粋な笑顔などではなく、見る者の心を抉るような、邪悪で悍ましい笑みだ。
《どんな理由があろうとも、貴方は焼かれゆく弟を見殺しにしたのよ。最低、酷い姉ね……》
凛の腕が、世莉樺に向かって伸ばされる。
逃げたかったが、世莉樺は何も出来なかった。流れ落ちる涙を拭う事すら許されず、彼女はただ、放心したように凛と視線を合わせているのみだ。
《いい顔……さあおいで、私の一部になりなさい》
凛の指先が、世莉樺の頬に触れた。
その瞬間、視界が黒一色に塗り潰され、世莉樺の前から全てが消滅した。
◎ ◎ ◎
まるで、異世界にでも入り込んだような錯覚だった。
そんな時刻ではない筈なのに、空は夜になったように灰色に染まり、至る所に雨雲が蠢いている。
冷たい風が吹き抜ける水鷺嶋、炬白は怜俐と共にその場所へ向かい、辿り着いた。
水鷺嶋大彌國神社の、海上に造られた広場だ。そこに踏み入るとほぼ同時に炬白は叫んだ。
「焔咒!」
焔咒はこれまでと同じく、空に浮かびながら炬白を、そして怜俐を見下ろしていた。彼の真下で、海の水面がざわめいている。
挑戦的な笑みを浮かべながら、焔咒は言った。
「くく、待ちくたびれたよ」
途端、海が氾濫し始めた。膨大な海水が下から押し上げられているようにも見えた。
地震が発生したように、辺りが振動し始める。
そして、禍々しく不吉な気配が、炬白の小さな体を覆い包んだ。
(来るか……!)
海の中から、それは姿を現した。
巨大な大蛇の下半身と、人間の少女の上半身を併せ持つ怪物、溟海の鬼姫だ。この怪異の元凶とも言える、恐るべき怪物である。
これまでも数度対峙してきたが、今度は様子が全く違った。
その顔は醜く歪んでまるで増悪の念そのもの、異様に伸ばされたその黒髪は、それ自体が命を有しているように蠢いていた。
海水を派手に散らしながら、化け物は大蛇の下半身を揺らしつつ炬白を、怜俐を見下ろした。生贄を目の前に、食欲を抑えられないのかも知れない。
――恐ろしい。
炬白は思わず、一歩後退した。彼にそれ程の脅威を感じさせる敵が、目の前には居るのだ。
怜俐が、呟いた。
「完全体……!」
世莉樺という力の源を取り込み、そして霊場と化したこの場所に移動した事で、溟海の鬼姫は極限の力を発揮していた。
側にいるだけでもその殺気に押し潰されるような錯覚を覚えた。こんな敵とどう戦えばいいというのか、全く見当も付かない。ここまで力を増す前に、止めなくてはならなかった。完全体にさせてはいけなかったのだ。
しかし、こうなってしまった以上、もう戦う以外に道は残されていなかった。あの化け物の中には、炬白の大切な人が――世莉樺が捕らわれているのだ。
炬白は彼の霊具、銀色の鎖を両手で張った。焔咒は、それを宣戦布告を現す仕草と受け取ったようだ。
「へえ、逃げる気は無いんだ……ま、逃げようとしても逃がさないけどね」
溟海の鬼姫が、雄たけびを上げた。呼応するかのように、海が激しく波打つ。
戦いの始まりを告げたのは、焔咒だった。
「さあ……これで最後だ!」




