其ノ弐 ~水鷺隝~
正直な所、『水鷺隝』という土地に関して、世莉樺はさほど詳しくは知らなかった。鵲村からほど遠くない場所に位置する、海沿いの町、世界遺産に指定された神社がある――知っている事を順に挙げていくと、非常に断片的になる。
無論、これまで世莉樺にはこの場所を訪れた経験など無く、彼女が水鷺隝の地を踏むのはこれが初の経験だった。
バスから降り、そして水鷺隝の景色をその瞳に映した時、世莉樺が抱いた感想は『美しい場所』。
水鷺隝は緑に囲まれており、どことなく鵲村を思わせる風光明媚な雰囲気に親近感が持て、加えて海沿いの町ならではの潮の香りが鼻腔に触れ、心地良さを醸す。鵲村に似た空気だが、同時に鵲村には無い物を持ち合わせている、世莉樺にはそう思えた。
水鷺隝に到着し、旅館への移動、それから数十分の休憩時間、そして三年生全員での世界遺産の神社参り。それらが終わった頃、時刻は午後三時を過ぎていた。
「噂には聞いてたけど、すごい神社だったね、水鷺隝大彌國神社」
「うん。すごく大きくて綺麗で、流石世界遺産って感じだった」
隣を歩く朱美の言葉に、世莉樺は頷いた。
側には他に数人、世莉樺の友人で同じ班に属する少女達が歩いている。
「それで、どうしよっか自由時間?」
友人の少女の一人に問いかけられ、世莉樺は一旦足を止める。それに反応するように、朱美も、そして他の少女達も足を止めた。
神社への参拝が過ぎれば後は自由行動、生徒達は各々、思うように水鷺隝の町を散策出来る事になっている。品行方正を保った振る舞いを心掛ける事、そして夕方六時半には旅館に戻っている事が原則だが。
「んー。朱美、どうする?」
「そうね……」
朱美に意見を求めると、朱美はポケットから地図を取り出した。
彼女が取り出したのは宿泊研修に来る前、独自に用意しておいた水鷺隝の地図らしい。用意がいいものだ、と世莉樺は感心する。
「この中で見てみたいお店とか行きたい場所とか……日和、どう?」
朱美は、彼女と共に地図を眺めていた少女、『印南日和』に問う。
「それじゃあ……私はここかな」
日和は唸るような声を発した後、地図の一部分を指差した。彼女の指は、世莉樺達の現在位置から程遠くない場所にある土産物屋を指している。
特に、異論は無かった。
◎ ◎ ◎
土産物屋を見ようと考えたのは世莉樺達だけでは無かったらしく、その場所には数組の班の者達が集まっている。皆制服姿なので、世莉樺にもすぐに同級生だと分かった。
看板には『水鷺隝土産物店・みづや』と大きく書かれ、店内には様々な土産物が陳列されているのが分かる。海に近い土地故だろう、シラスやスルメ、他にも昆布の佃煮や鰹節等の海産物が多く見受けられた。
「選り取り見取りだね、世莉樺、何か買ってく?」
朱美に問われて、世莉樺は彼女を向いた。
「そうだね、真由と悠太に何か甘い物でも……」
「甘い物はこっちみたいだよ」
朱美が指差した方を見ると、そこには饅頭等の菓子類があった。世莉樺はその場所へと歩み寄る。
「ふむふむ……」
母親にはご飯に合いそうな物でも買っていけばいいだろう、妹と弟には何を買って帰ろうか。考えながら、世莉樺は土産物に視線を動かし続ける。
と、視界の端にそれが映った。
「ん?」
それは食品では無く、薄い冊子だった。ざらざらとした質感の紙が十数枚留められ、表紙部分には味のある筆字で文字が書かれている。
(何だろ?)
世莉樺はその冊子を一部手に取り、眺めた。表紙には『溟海の鬼姫』と書かれているようだった。どうやらこの冊子も土産物らしい。
ページをめくってみると、中には文字がびっしりと印刷されている。どうやら小説のような物のようだ。
好奇心のような物を感じ、世莉樺はふと、その内容を読んでみる――。
「ちょっと、邪魔よあんたッ!」
しかし、一行目も読まない内に、世莉樺は突然突き飛ばされた。
「痛っ!」
突然の事に成す術も無く、世莉樺は腰を床に打ち付ける。
腰に手を当てつつ、世莉樺は視線を上げる。目障りな羽虫を見つめるような目が、彼女を見下ろしていた。
「っ、柚葉……」
自分を突き飛ばした少女の名前を、世莉樺は声に出す。
抜群のスタイルに、緩やかなウェーブの掛けられた亜麻色の長い髪が目を引く彼女は、ただ世莉樺を見下ろしていた。
「ったく、私の行く先に湧いて出てんじゃないわよ、この泥棒猫が!」
美しい容姿に不釣り合いな乱暴な言葉が、続けて世莉樺へ叩き付けられる。まるで世莉樺を虫ケラのように扱う言い方だ。
朱美や、他の少女達が世莉樺に駆け寄ってくる。
「世莉樺、大丈夫?」
心配するような眼差しと共に声を掛けて来たのは朱美、世莉樺が「うん、大丈夫……」と応じると、朱美は依然、世莉樺を冷酷な目で見つめている彼女に向いた。
「いい加減にしなさいよ柚葉、あんたいつまで世莉樺を逆恨みしてる気なの!」
朱美の怒声を聞いた事は、さほど多くない。
その怒声の先に居る彼女――『躑躅宮柚葉』は、何も返事をせずに、踵を返す。ウェーブの掛けられた亜麻色の髪が、空を泳ぐ。
「行くわよ」
柚葉が命じるように言うと、彼女の周りに居た少女達が柚葉の背中を追い、土産物店から出て行った。床に腰を置いたまま、世莉樺はそれを見届ける。
「世莉樺、立てる?」
声を掛けてきたのは日和だ。彼女に助け起こされながら、世莉樺は立ち上がる。転倒した際に制服に付いた汚れを、朱美が払い落としてくれた。
転倒した際に腰を打ったが、大した事は無いようだ。
「ホント最低よね、あの女……!」
柚葉を蔑む気持ちを隠そうともしない朱美。しかし、突き飛ばされた当人である世莉樺の表情には、憐れむような、申し訳なく思う様な気持ちが現れていた。
(柚葉……)
世莉樺が心中で発したのは、自分に負の感情を向ける柚葉への反抗でも、理不尽な暴力を振るわれた事に対する怒りでも無く。ただ、彼女への負い目から発せられた言葉のみ。