其ノ弐拾五 ~鬼狩ノ夜 其ノ拾壱~
冊子を持つ両手がいつの間にか震えていた事に、私は気付く。
ここに書かれている内容は全て実在した出来事、単なる御伽噺などではなく、本当にこんな酷い事が、この海沿いの田舎町……水鷺隝で起きたのだと、私は確信していた。
余りにも合致し過ぎている。今私が体験している怪異と、この昔話。様々な事柄が私の頭の中を巡り、パズルのピースを組み上げるように形になっていくのが分かった。
「これが……この怪異の背景だったんだね」
私が思っていた事を代弁するように、炬白が言った。彼も既に、冊子の内容は読破していたらしい。
冊子を閉じ、私はそれを律儀に棚へと戻した。
「焔咒と初めて会った時……私、ここに書かれていた事の一部始終を見せられたの」
炬白と視線を合わせて、私は続ける。
「子供達が丸太に縛り付けられて、火にかけられて……その側で巫女の女の人が叫んでた。やめろ、その子達を殺すな、って。何人もの男に抑えつけられながら、死に物狂いで……」
忘れようにも忘れられない、あの光景。
いきさつを知った事で、より悲しく、そして理不尽に思えた。あの子達は何も悪い事などしていなかったのに、残酷極まる方法で命を奪われたのだ。
思い出すだけで涙が出る。精神の均衡が、崩れそうになる。
「姉ちゃん大丈夫? 確か……火は苦手なんでしょ?」
そうだった、炬白は私が火が苦手な事を、私が幼少期に負ったトラウマを知っているんだ。
「大丈夫、もう大分克服したから……」
この二年間で大分落ち着いたけれど、今でもやはり火に対する恐怖は残っている。
けれど今は、そんな事を言っている場合じゃない。
「それより、これで何となく分かった気がする。この怪異の事……」
欠落していた情報の殆どが、補われたのだ。
ほんのさっき入手した、多くの情報。その中から私は、もっとも大きくて重要な事柄を口にする。
「あの化け物の正体は……凜さんだと思う」
焔咒に使役され、人間の上半身と大蛇の下半身を持つあの化け物。
もうあの化け物の正体が、冊子に出てきた巫女……凜さんなのだとしか思えなかった。そう考えれば、何もかものつじつまが合うから。怨念や憎しみを具現化したかのような、あんな恐ろしい存在を生むには、凜さんの辿った悲劇的な運命は十分過ぎる気がした。
必死に守ってきた子供達を目の前で焼き殺されて、自分も海の中に沈められる……比べる事じゃないかも知れないけれど、二年前の怪異の時に鬼に成ってしまった女の子……瑠唯ちゃんよりも、呪いは根深く思える。
と、そこで私はある疑問に衝突した。
「そういえば……焔咒って何者なの? どうして、あの化け物……ううん、凜さんを従えられるの?」
二つの質問を、私は炬白に投げかける。
「後の質問から、答えるよ」
炬白は、そう応じた。
「焔咒が溟海の鬼姫を使役できるのは、溟海の鬼姫があの姉ちゃんの友達を依代にして復活させられたからだ」
私の友達……柚葉の事を指しているのだと、すぐに気付く。
「あの姉ちゃんの友達、姉ちゃんに強い怨みを持ってた。溟海の鬼姫はその負念を引き継いでいるから、特に姉ちゃんに強い敵意を持っているんだよ」
「そっか……だから焔咒は、柚葉を選んだんだ」
私は、炬白の言葉に補足した。
恐らく、依代にするには誰でも良かったんだと思う。しかし私を狙わせるには、私に強い敵意を持っている人間を選ぶ必要があった、だから……宗谷君の事で私を恨んでいる柚葉を選んだ。
しかし、また新たな疑問が浮かぶ。
「だけど、焔咒が私を狙う理由って何なの? そもそも……さっきも訊いたけれど、あの子って一体……?」
炬白は私から視線を外す。土産物屋内のどこかを見つめるその横顔には、神妙な色が浮かんでいた。
彼の口が、ゆっくりと開かれる。
「それは……」
その時だった。
氷水を流されたかのような感覚が私の身を走り抜け、緊張感に体が硬直する。心臓を鷲掴みにされるような気持ちと、指先一つの動きで殺されるような殺気。それらが私を覆い包み、まばたきすらも忘れてしまう。
初めて味わう感覚ではなかった、言わばこれは一種のサインだ。通霊力になった事で、感じ取れるようになったのかは分からない。しかし間違いなく、これは鬼が近くまで迫っている事を知らせる危険信号なのだ。
「追ってきたみたいだね……!」
炬白が再び鎖を両手に持ち、ビンッと張った。汗の滲んだ手で、私も天照を握り直す。
土産物屋を飛び出し、そして私と炬白は再び焔咒に、そして溟海の鬼姫……悲運の巫女の成れの果ての姿である化け物と、再び対峙する。
「くく、隠れていれば大丈夫だとでも思ったのかい?」
幼さと対比するような悍ましい笑みを浮かべて、焔咒は言った。
その隣で溟海の鬼姫は大蛇の下半身を蠢かせている。巫女の上半身が揺れ、黒髪が靡く。
「くっ……!」
炬白の表情から、彼が鬼気迫る思いなのが分かる。私も同じだ、恐らく向こうはこちらの居場所を知る手段を持っているに違いなく、どこまで逃げても追って来るだろう。
「さあて……鬼ごっこももう飽きたし、そろそろ終わりにしようか」
焔咒がそう言った瞬間、溟海の鬼姫がその両手を掲げる。まるで、見えない月を掴もうとしているかのようだった。すると、その手の平の中央に黒霧が集まり始め、球体を形作る。
そして、私達の周囲に黒霧の嵐が巻き起こった。
「はっ……!?」
私は身構えた、けれど、黒霧は私と炬白に向かってくる事は無く、周りを渦巻いているのみ。
だけど、安心など出来なかった。焔咒が何をしようとしているのか、私は嫌でも理解する事になる。黒霧が、何人もの、何十人もの、もしかしたら何百人もの人間の姿を形作り始めたから。
人間の形に変化した黒霧には、やがて色が付き……完全に人間そのものの姿になる。朱美や日和、宗谷君……他にも沢山の人の姿に。
「生魂鬼……!」
炬白が周りを見渡しながら、言った。
溟海の鬼姫が周囲の人々の魂を奪い、それを基に生み出した鬼の一種、それこそが生魂鬼だ。
生魂達が一斉に頭をゆらゆらと揺らす。とてつもなく不気味で、冷や汗が頬を伝うのが分かる。
「炬白……!」
返事は無かった。炬白もただ、周りを見渡しているだけだ。
前、後ろ、右、左……全方位に生魂鬼が立ち塞がっていて、逃げ場がない。突破する事なんて、絶対に不可能だ。
「何をしたって、もう無駄さ!」
勝ち誇ったかのように焔咒が言い放ち、それと同時に生魂達が一斉に私と炬白へ迫ってくる。私は、ただ立ち尽くしている事しか出来なかった。




