其ノ弐拾四 ~溟海の鬼姫~
昔、昔、その昔……水鷺隝という海沿いの田舎町に、大きな大きな神社が立っていました。その神社は水鷺隝大彌國神社と呼ばれ、何年も何百年も水鷺隝に鎮座し、ずっとこの町を見守ってきた、それはそれは由緒ある神社でした。
そして……その大きな神社をたった一人で守っていたのは、歳にして十八歳の巫女。名を、『凜』と言いました。凜は腰よりも長く伸びた豊かな黒髪、雪のように白い肌、そして優しく澄んだ瞳をたたえた、それはそれは美しい娘でした。三年程前に両親を流行り病で亡くし、それ以降凜は両親の教えを受け継ぎ、たった一人で水鷺隝大彌國神社を守り続けてきたのです。
さらに、凜が守っていたのは神社だけではありませんでした。神社には凜の他に数人の子供達が身を寄せていたのです。生前、凜の両親が引き取った、戦争や病で親を亡くした、凜よりも幼い子供達でした。
子供達の世話、そして大きな神社の管理……凜は毎日夜遅くまで働き、そして毎朝早く起きて仕事をし、疲れ果てた体に鞭を打つ毎日でした。それでも凜は、それこそが巫女であり、神に仕える身である自分の使命なのだと感じていました。
綺麗で優しく、しっかり者で働き者な凜の事はやがて水鷺隝の人々にも知れ渡り、皆凜に同情し、色々な支援をしてくれました。野菜や果物を分けてくれたり、神社の掃除を手伝ってくれたり……人々は皆、凜に優しく接し、励ましてくれたのです。
しかし、大変でも楽しく、満ち足りていた凜の生活は……ある日突然、終わりを迎えました。
それは雨の降る日の夜の事、神社を数人の男達が訪れたのです。彼らは水鷺隝の大名の手の者達で、凜に大金を積み、こう告げました。
――この土地を我々に売りなさい。
水鷺隝の領主は、見晴らしの良く空気の澄み、綺麗な泉の湧き出る水鷺隝大彌國神社の土地に目を付けていました。幼子達を養う凜ならば、大金と引き換えに土地を譲り渡すだろう、そう考えたのです。
しかし、凜は従者達に即答しました。
――この土地は、神社は亡き父と母から受け継いだ私の宝物。どれだけお金を出されても、売るつもりはありません。
その後も何度も、大名は凜の元へ使いを送りました。大金の額はどんどん増え、やがて日常では見ない程の金額に膨れ上がっていました。しかし、凜は決して首を縦には振らず、断固として大名の要求を跳ね除け続けました。
傲慢な大名は激高し、水鷺隝の民達にこう説きました。
――あの神社の巫女は、災いを齎し、人に呪いをかける祈祷師である。昨今の不作や流行り病は全て、あの巫女が呼び起こした物である……と。
途端、人々は手の平を返すように凜に冷たい視線を向けるようになりました。わざと凜に聞こえるように悪口を言ったり、神社に石を投げ付けたり……嫌がらせは日々、酷くなっていきました。
神社に暮らしている子供達は怖がり、凜に泣きつきました。凜は子供達を抱きしめ、こう教えました。それは彼女が両親から教わり、以後ずっと守り続けてきた、大切な教えでした。
――どれ程辛くても、苦しくても……人を恨んではだめ、憎んではだめ、妬んではだめ。黒い心は、『鬼』になるから……。
耐えていれば根も葉もない噂など消え去る、いずれ嫌がらせは止む。凜はそう信じていました。
しかし、訪れたのは最悪にして、理不尽極まる結末でした。ある日、大名の手の者達が大勢神社に押し寄せ、凜を、そして子供達を捕らえたのです。
必死で抵抗する凜に、大名は告げました。
――お前達は神ではなく、疫病神に仕える者達。昨今の災厄は全てお前達が呼び込んだ者である……我々はそう判断を下した。よって、お前達に天の裁きを下す。
大名は凜に、そして子供達にいわれの無い罪を被せ、そして皆を死刑に処すと言い渡したのです。
まず、命を奪われたのは子供達の方でした。大名は子供達を丸太に縛り付け、その周りに油を染み込ませた薪を積みました。子供達は皆、恐怖に震えて泣いていました。男達に抑えつけられながら、凜は叫びました。やめろ、その子達を殺すな、と。しかし大名は一片の情けもかける事無く、しかも凜の目の前で子供達を火刑にかけたのです。
炎はあっという間に大きくなり、幼い子供達を覆い包みました。何と愚かしい事でしょうか、その周りでは、大名の無茶苦茶な説法に目を眩ませられた民衆達が歓声を上げていたのです。
絶望と悔しさに、凜は頬を涙に濡らしました。しかし、今度は彼女の番でした。
夜闇の中、大名は従者に凜を水鷺隝大彌國神社の舞台へと連れて行かせました。そこは本殿と繋がる形で造られた、海に浮かぶようになっている場所でした。
従者は舞台の端に凜を立たせ、そして彼女の纏う巫女装束の白衣、その袂の部分に重い石を沢山詰め込んだのです。
自分が何をされようとしているのか、凜には直ぐに分かったのでしょう。だけど彼女は、もう抵抗しようとしませんでした。ただ、大名を睨み付けてこう言っただけでした。
この身滅ぼうとも我が怨念は永劫に消えぬ
怨念は復讐の鬼となりて咎人へ報いを成すならむ
煉獄の海に引き摺り込まれながら知るべし
お前達の犯しし罪の重さを
この時凜は、生まれて初めて両親からの教えに背きました。如何なる事があろうとも、決して人を恨んではいけない、憎んではいけないという教えです。凜は自分達に無実の罪を着せ、子供達を殺した大名を、そしてそれを喜びながら見ていた民衆を心の奥底から怨み、憎みました。
自分が舞台から突き飛ばされ、その身が仰向けに海に浮かび、長い黒髪が水面の上で蜘蛛の巣のように広がる中、凜はずっと、鬼のような目で大名を、従者を、民衆を見つめていました。そしてやがて、重い石を袂に詰められた凜の体は、ゆっくりと海の中へ沈んでいきました。
邪魔者だった凜が消え、大名は望み通りに水鷺隝大彌國神社の土地を手に入れました。しかし、凜の、そして子供達の呪いは生きていました。
凜が死んで間もなく、いつの日からか大名は精神に異常を来し始めました。突然怒鳴ったり、意味の無い事を口走ったり始め、ある夜ついに、寝床から跳ね起きたかと思うと、大名は従者達の制止を振り切り、吸い込まれるかのように海の中へと飛び込んでいきました。そして、もう二度と浮かんでくる事はありませんでした。
そして、数日後に大名の遺体が岸に流れ着いているのが発見され、それを見た者達は絶句しました。大名の体には異様に長い黒い糸……髪の毛が何重にも絡み付いていたのです。
誰もが、凜が死に際に放ったあの言葉を思い出した事でしょう。大名は凜や子供達の呪いを受け、海に引きずり込まれたのだと。鬼姫と化した凜が海の底から舞い戻り、復讐を決行し始めたのだと。人々は自らの所業を後悔し、罪滅ぼしの念から水鷺隝大彌國神社の境内に石碑を立てました。そして、そこに凜にまつわる銘文を刻み付けたのです。
暗澹な闇に浮かぶ篝火が揺るる中
真に縲絏さるるべき者共が葬れ葬れと騒ぎ立てたり
暗き海に浮かべられ
窈窕なる御髪や着物を水面に巡らせ
沈みていく刹那に呪詛の言葉を吐きき
この身滅ぼうとも我が怨念は永劫に消えぬ
怨念は復讐の鬼となりて咎人へ報いを成すならむ
煉獄の海に引き摺り込まれながら知るべし
お前達の犯しし罪の重さを
この銘文は後に『溟海の鬼姫』と名付けられ、水鷺隝にて語り継がれる伝説となりました。
そして人々は、主を失った水鷺隝大彌國神社を凜の代わりに守り続ける事にしたのです。それ以降、水鷺隝に凜の呪いは降りかかっていないといいます。




