其ノ壱 ~雪臺世莉樺~
暗澹な闇に浮かぶ篝火が揺るる中
真に縲絏さるるべき者共が葬れ葬れと騒ぎ立てたり
暗き海に浮かべられ
窈窕なる御髪や着物を水面に巡らせ
沈みていく刹那に呪詛の言葉を吐きき
この身滅ぼうとも我が怨念は永劫に消えぬ
怨念は復讐の鬼となりて咎人へ報いを成すならむ
煉獄の海に引き摺り込まれながら知るべし
お前達の犯しし罪の重さを
――水鷺隝に伝わる伝説、『溟海の鬼姫』。
「ん……」
振動と共に、バスの走行音が周囲を満たしている。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。そんな事をぼんやりと思いつつ、雪臺世莉樺は座席に腰を降ろしたまま、目を擦った。
「お、起きたね世莉樺」
隣に座っている友人、都留岐朱美の言葉に世莉樺は頷いた。
「その様子を見るに、今朝も早起きだったんでしょ?」
「まあね。真由と悠太、中々起きなくて……」
眠気を払うように、世莉樺は伸びをした。
窓越しに差した陽の光が、世莉樺の白い肌や、長く伸ばされた彼女の黒髪を照らし出す。
「もー、高校生活最後の大行事だっていうのに、そんなんじゃ思い出作りのチャンス逃しちゃうぞ?」
むにっ。朱美の人差し指が、世莉樺の頬をへこませた。
「分かってるってば」
笑みを浮かべつつ、世莉樺は応じる。
そう。今彼女は、同学年の数十人の生徒達と共に鵲村を離れ、バスで宿泊研修の行き先へと向かっていた。
この宿泊研修は世莉樺や朱美が通う高校の行事ではあるものの、あと数か月で高校生活を終える三年生達の最後の思い出作りの機会、という意味合いが強い。故に二年生の頃に行く修学旅行に比べれば規模は小さく、行き先も鵲村から程遠くない田舎の町と、質素な感じは拭えない。地味という印象を受ける者も少なくは無いだろう。
しかしながら、修学旅行に比べると圧倒的に自由時間の割合が多く、少年少女達が友人達と和気藹々と過ごす場としては十分な物であった。
「早いもんだよね、気が付いたらもう三年生。高校生活ももうすぐ終わりかあ」
シートに背中を預けながら言う朱美の言葉に、世莉樺は続いた。
「もう十八歳になっちゃったね、私達」
朱美が、視線を合わせて来る。
「そういえば世莉樺ってさ、もう進路は決めたんだっけ?」
「うん、専門学校に進もうと思ってる。保育士さんになりたいんだ」
世莉樺は即答した。
朱美は「保育士……」と、感心したような表情を浮かべながら発した。
「ピッタリだと思うよ! 世莉樺って子供好きだもんね、悠太君や真由ちゃんの世話もしっかりやってるし」
「ふふ、ありがと」
これまでの高校生活の中で、恐らく最も親しい仲にある友人が自分の夢を褒めてくれた。世莉樺にはそれがとても嬉しかった。
思わず世莉樺は、自身が抱く『保育士』という夢について、吐露し始める。
「ずっと私思ってたんだ。自分より小さな子達を守れるようになりたい、助けてあげられる人間になりたい。将来は、そんな仕事に就きたいって」
世莉樺がその言葉を言い終えた途端。すうっ……と、まるで溶け入るかのように、彼女の表情から笑みが消えていく。
「だから、私……」
力なく発せられた世莉樺の声。
その時、彼女の脳裏に――その光景が浮かび上がる。荒れ狂う炎の中、自身に必死に救いを求める、ある一人の少年の姿だ。
“世莉樺姉ちゃん、ぐっ……助けて!”
それは本来、世莉樺の記憶に残っているだけの声の筈。しかし、まるで本当に発せられたかのように、その声はバスの走行音や周囲の生徒達が発する喧騒を押し退け、世莉樺の耳を支配する。
それは彼女にとって何よりも深い傷が齎す幻聴か、或いは今もなお忘れる事が出来ない、罪の念が具現化した物なのか。
「世莉樺?」
「!」
朱美の声で、世莉樺は我に戻った。
「ごめん朱美、何でも無いから」
平静な様子を取り繕い、世莉樺は笑顔を作った。
朱美は「そう、ならいいんだけど……」と発する。会話を繋ぐように、彼女は問うてくる。
「にしても、やっぱちょっと勿体無いよね、世莉樺」
「え?」
すると朱美は、世莉樺の長い黒髪を指した。
「黒い髪も清楚で良い感じなんだけど……やっぱ何ていうか、二年生の時までの茶色い髪の方が、世莉樺には似合ってるかなって」
なるほど、と世莉樺は納得する。
「だって、仕方ないよ」
自身の黒髪に指先で触れつつ、世莉樺は言う。
「部長が茶髪なんて、剣道部全体の印象を悪くさせちゃうもの」
どこか物憂げに言う世莉樺。そう、世莉樺は彼女が通う高校の剣道部の部長を務めているのだ。それも、創部以来初の女子部長である。
世莉樺の地毛は黒髪ではなく、本来は茶色いのだ。しかし三年生になり、部長に就任すると同時に彼女は髪を黒く染めている。自身の茶色い髪を世莉樺は気に入っていたが、それ以上に剣道部の部員達を纏める立場にある者としての使命感と責任感が勝ったのだ。
「ま、前部長の先輩が直々に世莉樺を時期部長に指名したんだもんね。責任重大なのはすごく分かるよ」
朱美はそう言うと、緑茶のペットボトルに口を付けた。なお彼女も剣道部の部員であり、世莉樺とは共に同じ顧問の先生の元で稽古に励んできた、同門の関係にある。
「うん。だって……あの一月先輩が私を選んでくれたんだもん。どうしても期待に応えたかったんだ」
バスの向こうに広がる景色を窓越しに見つめつつ、世莉樺は言う。
朱美はペットボトルをホルダーに収納して、
「世莉樺は頑張って来たと思うよ、後輩達は皆世莉樺を尊敬してたし……一月先輩の目は正しかったって事だね」
朱美に肩を軽く叩かれ、世莉樺は照れるように微笑んだ。
「さてと、じゃあ一年間私達剣道部員を引っ張ってってくれた世莉樺への感謝会も兼ねて……宿泊研修、楽しもっか」
朱美は窓の先を指す、世莉樺はその先を追った。
「あ……」
いつの間にか、窓の向こうにはどこまでも青い海が広がっていた。そして、その海に沿うように造られた町の姿がある。宿泊研修の目的地まで、もう目前だった。
「思い出作りしよ、『世莉樺部長』」
世莉樺は、朱美の言葉に答える。朱美の友人として、そして剣道部の部長として。
「うん、ありがとね朱美」
その返事に、世莉樺は朱美への感謝を思い切り込めた。
朱美を始めとする友人達と共に、思い切り思い出を作ろうと思う。世莉樺の中でこれから始まる宿泊研修への期待が大きく膨らみ、最高の出来事になると信じて疑わない。
これから自分が二度目となる怪異に、それも一度目のそれよりも遥かに恐ろしい出来事に遭遇する事など……夢にも思わずに。